僕の兄様
不意に近くで物音がしてビクリと肩を揺らす。
オーロが「エトだ」と説明してくれた。
物置の屋根裏から僕達を下ろしてくれたエトさんの目は、真っ赤に腫れていた。
きっと僕も似たようなものだろう。
「ジョシュア様は、今のうちにこの屋敷を出るようおっしゃっていました」
「いつの間にそんな会話を……」
オーロの呟きに、エトは「ハンドサインが決めてありました」と答えた。
つまりジョシュア様は、こっそりエトさんに手でサインを送っていたと……?
あんなに……親の生まれまでもを口汚く罵倒され、叩かれながら、そんな中で、僕の事を考えてエトさんに指示を……?
「っ……、ジョシュア様は、これからどうなるんですか!?」
「ジョシュア様は……しばらくはビリデクト様のそばに置かれるでしょうが、殺されることはないでしょう……」
エトさんの声は、どうしようもなく震えていた。
「あの、僕が屋敷に行きます。そしたらジョシュア様は放してもらえるのでは……」
「それはいけませんっ! それでは……ジョシュア様のこれまでの日々が報われません……」
俯いたエトさんが、バッと顔を上げて僕の両手をぎゅっと握りしめる。
「どうかリヨ様だけは安全なところでお幸せにお過ごしください! それがジョシュア様の願いなのです……っ!!」
涙で滲んだ切実な懇願に、僕は何も言えなくなってしまった。
「国を跨いだ先に、いざという時のための別荘がございます。長旅となりますので、明日は早朝の出立とさせてください。私はこちらに残らねばなりませんが、私の妹が別荘までご案内いたしますので、どうかご安心ください」
そう言ったエトさんが、内ポケットから見覚えのある書類と一通の手紙を取り出した。
「こちらはリヨ様の状態と位置が分かる契約が残されている契約書です。これを破り捨てれば契約は破棄となるようジョシュア様が文面を修正なさっています。必要ならば破棄して構わないとの事でした。こちらはジョシュア様からのお手紙です、読み上げますか?」
「いや、いい。私が読もう」
オーロが言うと、エトさんは僕の手にぎゅっと書類と手紙を押し付けて「では準備がありますので、これにて……」と踵を返しかけて、……足を止める。
「これは私の個人的な願いなのですが……。できることならば、契約はそのままにしておいていただけないでしょうか。きっとジョシュア様は、リヨ様が元気に過ごされていると知るだけで、喜ばれると思うので……」
そんな……、そんなのって、まるで……。
「……っ、差し出がましい事を言って申し訳ありませんでした。失礼いたします」
僕は何も答えられないまま、足早に立ち去るエトの後ろ姿を見送った。
なんだか色んな事が一気にありすぎて……。
呆然としたまま、僕はオーロに背を支えられるようにして、ふらふらと部屋に戻った。
泣き過ぎたせいか、頭が痛い。
僕は、明日の朝には別の国に向けて出発する……?
それって、もうジョシュア様には、一生……会えないって……事なんじゃ…………?
ぼんやりした頭のままぼんやりと夕飯を食べて、ぼんやりと部屋のベッドの端に腰掛けていた僕の隣に、オーロが座って言う。
「手紙を読もうか? 今ではない方がいいか?」
言われて、僕は気づく。
そうだ。今読んでおかないと、返事を書くこともできないかも知れない……。
「読んでもらって、いいですか……」
オーロは短く「ああ」と答えると、僕の手から手紙を受け取って、それを読み始めた。
『リヨがこれを読んでいるということは、私は君に二度と会わない決意をしたのだろうね。
君をずっと守ると約束したのに、そばにいられなくて本当にすまない。
だが心配はいらないよ。
私の代わりに、私の信頼する者たちが、きっと君の身と心の安全を守ってくれるだろう。
私はここで、リヨのために私のできることをするよ。
会えなくても、リヨの幸せをずっと祈っているよ。
君が君らしく、笑って過ごせる日々が訪れますように。
リヨの兄、ジョシュア』
オーロの低い声があまり抑揚もないまま淡々と言葉を紡ぐ。
それなのに、その言葉達はジョシュア様らしい優しい言葉ばかりで、ようやく止まっていた涙が、また溢れ出してしまった。
「……兄、というのは……?」
オーロに尋ねられて、僕はしゃくりあげながら答える。
「僕を、弟のように思ってくださってたんです……。僕のような弟がいたらよかったと……、ジョシュア様には、弟妹がいらっしゃらないらしいので……」
あの時、僕を撫でてくれたジョシュア様の手も、やっぱり優しかった……。
なのにどうして、僕はこの人をもっと信じられなかったんだろう……。
「だから……、僕もジョシュア様のような兄が……いたら嬉しいと……」
そう伝えた時、ジョシュア様は心から嬉しそうに笑ってくれた。
花が綻ぶような笑顔っていうのはこういう顔なんだと、僕はその時初めて思った。
「そうしたら、ジョシュア様が……、僕の兄になってくださると言うので……僕も……弟のように思ってくださいと、話して……」
「もういい、分かった」
オーロは、そう言って僕の頭を慰めるように撫でた。
あの時のジョシュア様のようだと思ってしまうと、余計に涙が零れた。




