十九.翌朝も夜明け前に
翌朝も夜明け前に起きて、また村の周りを歩き回った。
アンジェリンはこれが最後だと張り切って、お気に入りの高台の上まで行って日の出と村を眺めた。吐く息はまだ白いが、高台から見る景色には明らかに緑が増えていた。
家に戻って軽い朝食を取った後、寝床の毛布を畳み、麦藁を納屋に運ぶ。後を綺麗に掃き清めて、暖炉に火の気がないか確認する。殆ど毎日燃やし続けていた暖炉から火が消えるのは久しぶりだ。
それから荷車に諸々の荷物を載せる。
とはいえ、トルネラに来た時のような大荷物はない。トルネラからオルフェンに持って行けるお土産などそうはないのである。
ベルグリフは最後に家の中をぐるりと見回し、忘れ物、やり残した事はないかと確認した。どうやら大丈夫そうだ。
「……長くここを空けるのも久しぶりだ」
ベルグリフは家の柱を撫でた。
「出かけて来るからな。ちゃんと待っててくれよ?」
ぎい、と小さく家鳴りがした。ベルグリフはニッと笑って、柱をぽんと叩くと外に出た。
朝にはなかった薄雲がかかっていて、北側の空にはもっと分厚い雲がかぶさって来ているらしい、何処となく冷たい風が吹いていて、ここ最近の春の陽気が弱まったようだ。
庭先に出ると、見送りの連中がいて、色々と話をしている。
若い男たちは都の女の子たちが帰ってしまう事を残念がっているようで、絶望的な顔をして何だか色々まくし立てている。アネッサは苦笑しながら頭を掻き、ミリアムはけらけら笑っていた。相手にしないつもりらしい。
父親にべったりだという事が村中に知れ渡っているアンジェリンに声をかける男はいない。しかしアンジェリンもその事はちっとも気にしていないらしく、男たちをあしらうアネッサとミリアムを荷車の上からにやにやしながら眺めていた。
これでは嫁の貰い手が出来るだろうか、とベルグリフは少し不安になった。
ケリーが笑いながらベルグリフの肩を叩いた。
「お前も忙しい奴だなあ、ベル!」
「はは、何だか妙な事になったもんだよ」
「気を付けて行って来いよ。畑は見といてやるからよ」
「ああ、すまんな。助かるよ」
ベルグリフはにっこり笑ってケリーの肩を叩くと、荷馬車にゆっくりと乗った。筋肉痛がまだ残っていて、あまり身軽には動けない。荷車は荷物があまりない分だだっ広い。アンジェリンがいそいそとすり寄って来る。
「お父さん、準備おっけー?」
「ああ、行こうか」
「ようし、出発だー」
「はいはい、行くよ」
アネッサが手綱を動かすと馬がゆっくりと足を出し、荷車がぎいぎいいって動き出す。ベルグリフは荷車から身を乗り出してケリーに言った。
「じゃあ、行って来る。留守を頼んだぞ」
「おう、ゆっくり楽しんで来いよ!」
「……遊びに行くわけじゃないんだがなあ」
ベルグリフは苦笑して頬を掻いた。
馬車は村を出て、外の平原を走り、次第に山道に入った。道が悪いので固い車輪が石を踏む度にがたがた揺れる。しかし、来る時よりも荷物がないせいか、歩みは速いようだ。
坂が急になる所は荷車から降りて後ろから押してやる。馬も生き物だ、無理をさせれば動けなくなってしまう。この道がいずれ整備されれば、馬車も通りやすくなるだろうか、とベルグリフは思った。
トルネラから離れるに従って雲が薄くなり、すっかりいい天気になった。北からかぶさって来ている雲は、こちらまで追っかけては来ないようだ。
荷車の後ろ側に寄り掛かるようにして座った。急ごしらえの幌が日陰を作っている。
アネッサは御者席で向こう向きに手綱を握っていて、アンジェリンとミリアムはベルグリフを挟むように座って、さっきからずっと顎鬚をいじくっている。自分にないから余計に珍しいのかも知れない。しかしくすぐったいので、ベルグリフは落ち着かなかった。
「髭……こっちはじょりじょり。こっちふさふさ」
「おもしろーい。ベルさん、これ手入れしてるんですかあ?」
「まあ、そんなに神経質にはしてないけど……なあ二人とも。くすぐったいんだけど」
そう言っても二人はくすくす笑うばかりで止めてくれない。何だか娘が増えたみたいだとベルグリフは嘆息した。
馬は並足だが、それでも徒歩で行くより当然ペースは速い。この分ならば日暮れ前か、同時くらいにはロディナの村に辿り着けるだろう。
ロディナはトルネラに一番近い村である。村としての規模は小さいが、周囲にドングリの森があり、養豚が盛んで、燻製や腸詰、豚脂などは質が高い。
トルネラはロディナからそれらを買い、羊毛や農産物、山羊の皮などをロディナに売る。
そういった商売上の付き合いだけでなく、秋祭りにはロディナからも客が来るなど、そこそこの交流はある。
しかしベルグリフ自身は、かつて冒険者になる為にオルフェンに出る時と、冒険者を止めてトルネラに帰る途中の二回寄ったくらいだ。
そう考えると、随分と自分は村の外に出ていなかったと思う。トルネラ周辺の事は散々歩き回って知っているが、この山道を超えた先の事はまるで分からない。昔の記憶も曖昧だ。
何だか年甲斐もなく気分が高揚するようである。
次第に陽は西に傾き、影が長くなる。春先の陽気ではあるが、風が吹くと体が震えるようだ。今日は北風らしい。
下に布を敷いているとはいえ同じように座っていると尻が痛くなるので、ベルグリフは何度も体勢を変えていた。
少女三人は慣れたような顔をしている。痛くないわけではないようで、時折姿勢を変えたり体を動かしたりするが、ベルグリフよりもずっと頻度は少ない。アネッサなどは御者席にずっと座ったまま身じろぎもせず手綱を握っている。
現役冒険者との格の差を見せつけられたような気がして、ベルグリフは苦笑した。
こんな風に馬車に座って移動するのも久しぶりだ。精々麦や芋の収穫時期に、荷車に乗せた荷物と一緒に納屋に向かうくらいである。
「皆、すっかり旅慣れてるなあ。大したもんだ」
ベルグリフが言うと、アンジェリンが自慢げな顔をした。
「凄いでしょ……偉い?」
「ああ、偉い偉い」
アンジェリンは満足そうにむふむふと笑い、ベルグリフにすり寄って上目遣いで見た。そうしてこれ見よがしに頭を肩にぐりぐりと押し付ける。ベルグリフが撫でてやると、満足気に顔を緩めた。
アンジェリンの甘え癖が一向に抜けないのに苦笑していると、反対側からも重みを感じた。ミリアムが羨ましそうな顔をしてベルグリフに寄り掛かっている。かぶっていた筈の帽子を脱いで手に持ち、アンジェリンと同じように頭を肩に押し付けた。
「アンジェばっかりずるーい。ベルさん、わたしも偉いでしょー? 撫でてくださいよう」
「ん、まあ、いいけど……」
撫でてもらって嬉しいものなのだろうかと思う。しかし別に撫でてやらない理由もない。ベルグリフが撫でてやるとミリアムも満足そうに笑った。
「ベルさん、手ぇ大きいー」
「そうかな? しかし立派な耳だねえ。風を受けたら冷たそうだが……」
ベルグリフが言うと、ミリアムは噴き出した。
「ふっふふふ! それが全然ですよお。ほら、触ってみてください。毛が生えててもふもふなんですよー」
「……本当だ」
成る程、長くはないが細かな柔らかい毛が表面をしっかりと覆っていて、手触りが実にいい。上等の毛皮のようだ。これならば風も冷たくないだろうし、寒さにも強いだろう。
だが、そう考えると、自分は随分頓珍漢な事を言っていたようだ、とベルグリフは少し恥ずかしくなった。
「どうも俺は見当違いの事を言ってたみたいだなあ……」
「いえいえ! お気遣い嬉しかったでーす。うふふ」
ミリアムはにへにへと笑いながらベルグリフにすり寄る。そこに指が伸びて来てほっぺたを突っついて押した。アンジェリンが不機嫌そうに顔で手を伸ばしている。
「ミリィ……あんまお父さんにべたべたするな」
「えー、いいじゃない。独り占めずるいぞお」
「駄目……お父さんはわたしのお父さん」
「ずるい! ベルさぁん! 子供が一人くらい増えたっていいですよねー?」
「え……ど、どういう事?」
「こら、お父さんにそういう事を言うのは反則……わたしの妹になりたければわたしを倒すがよい」
「ちょっとお! わたしの方がお姉さんだって忘れるなー!」
二人は訳の分からない言い争いをしながら、もちゃもちゃともつれて押し合った。ベルグリフはそそくさと荷車の前方に逃げ出し、呟いた。
「仲良しだなあ……いたた」
そうして筋肉痛に顔をしかめる。御者席でアネッサが笑っていた。
「あーあ、しょうがないなあ、あいつらは……」
「アーネちゃん、くたびれないかい? 代わろうか?」
ベルグリフが言うと、アネッサは振り向いてにっこり笑った。
「いえいえ、元から好きなんですよ、こういうの」
「へえ……動物が好きなのかい?」
「そうですね。まあ、いつも大きな動物と一緒に行動してるようなものですし……慣れもあるかな」
と、後ろでアンジェリンとじゃれ合っているミリアムを見ながら、苦笑した。この三人は本当に仲が良い。アンジェリンに良い友達が出来て良かった、とベルグリフも笑った。
中途で休憩がてら昼食を取り、時折馬を休ませながらひたすらに進んで行くと、やがてドングリの林の中に入り込んだ。
段々と薄暗闇が下って来て、視界が悪い。しかし人が行き来しているせいか道は分かる。
車輪の下で乾いたドングリがぱきぱきと音を立てた。豚に食われなかったものが殻だけになって残っているのだろう。風に乗って豚の臭いがした。
やがてとっぷりと日が暮れた頃、林の向こうに明かりが見え出したと思ったら、木の柵に囲まれた村が見えた。
「着いた。ロディナだ」
「はー、長かったあ」
銘々に馬車に乗ったままで固くなった体を伸ばしてほぐす。くきくきと小気味のいい音がした。
入り口で自警団の若者と話をし、中に入れてもらう。
辺境のトルネラと違って、この辺りには野盗が出る事もある。警備はしっかりしているし、豚肉を求める商人たちが出入りする事もあって、小さな宿もある。今夜はそこに泊まる予定だ。
馬車の上から村を眺めて、ベルグリフは呟いた。
「ここに来るのも久しぶりだが……全然覚えてない」
「ベルさんはどれくらいトルネラから出てないんですか?」
アネッサの問いかけに、ベルグリフは苦笑しながら頭を掻いた。
「それが……もう二十年以上出てないな」
「あはは、それは凄い。じゃあ本当に久しぶりの旅行ですね」
「そうだなあ……不思議なもんだ」
もう残りの人生はトルネラで過ごすものだとばかり思っていた。しかし、アンジェリンが勝手に言い出して赤鬼だとか何とか呼ばれて、それが遠因になってヘルベチカがトルネラに来て、それで街道の整備の話が出た。その手紙を持って、こんな風に娘とその友人たちとここまで出て来た。
そしてこの後も旅は続く。
娘が冒険者になった事で、自分もまたこんな旅に出る事になるとは、とベルグリフは何だか感慨深くなった。人生とは不思議なものだ。
宿はあまり混んでいるわけではなかったが、それでも商人や旅人がそれなりに入っていた。豚肉を焼いているのだろう、脂の焦げる香ばしい匂いが漂っている。
一階には食堂兼飲み屋が併設してあって、宿泊客はそこで食事を取る。
奥の方には雑魚寝の部屋があり、二階は個室が何部屋かあるようだ。貧乏人ばかりが客のようで、二階の個室は開いているが、雑魚寝部屋には殆どスペースはないようだった。
ベルグリフは少女三人に個室を取らせ、自分は雑魚寝部屋で眠ろうとしたが、三人からの猛反対に会った。
「お父さんを仲間外れにするなんて……無理!」
「そうですよう、ベルさん。寂しい事言わないでくださいよー。ねえ、アーネ?」
「う、うん……」
「だってベッドは一つだけじゃないか。四人は寝れないよ」
「大丈夫。お父さんを中心に、両側にミリィとアーネが寝て、お父さんの上にわたしが寝る」
「……お前はお父さんを蒸し殺すつもりなのかい?」
「だって夜は寒いですよー? くっついて寝た方が眠れますよ、きっと」
「……ミリィちゃん、俺がベッドに入って、その上君たちが入れると本当に思う?」
「む……むうー」
ベルグリフの体躯はしっかりしている。ずんぐりとしているわけではないが、鍛えられた体は長身で、当然少女たちよりも大柄だ。
ベッドだってそんなに大きくはない。少女三人ならばぎゅうぎゅうに詰まれば眠れるだろうが、ベルグリフが入ってはもう一人くらいしか入れまい。
その時、アンジェリンが天啓を得たという顔をして言った。
「ならば……わたしとお父さんが個室で寝て、アーネとミリィが雑魚寝すれば……」
「こら」
ベルグリフはこつんとアンジェリンの頭を小突いた。
「自分の事ばっかり考えない」
「むう……ごめんなさい」
押し問答の末、結局最初の通りにベルグリフは雑魚寝部屋、少女三人は個室という事になった。代わりに寝る直前までは一緒にいるという条件が付き、アンジェリンがくっ付いて離れなくなってしまったのだが。
一階の食堂で夕飯を取り、そのまま少し酒を飲みながら話をした。
父親と旅に出られた事が嬉しいらしいアンジェリンはつい深酒し、すっかり眠くなってゆらゆら揺れている。他の二人も同じような状態だ。
まだまだ子供だなあ、とベルグリフは何だか微笑ましい気持ちになった。こうなってしまっては高位ランク冒険者も何もあったものではない。
次第に夜が更けたので、遅くなる前に眠ろうと二階に上がった。足元がおぼつかないアンジェリンはベルグリフにおぶさって幸せそうにまどろんでいる。
ベルグリフは筋肉痛に顔をしかめながらも、うつらうつらするアンジェリンをそっとベッドに寝かせ、ふうと嘆息した。
「じゃあ、お休み」
「はーい、お休みなさーい」
「お休みなさい、ベルさん」
ベルグリフは部屋を出て受付で毛布を受け取り、雑魚寝部屋に行った。
暖炉が赤々と燃えていて、クッションが転がっている。様々な装束の人々が既に詰まっていて、眠っている者もあれば、まだ起きて話をしている者、酒を飲んでいる者、数人で札遊びをしている者などがいる。
足元に気を付けながら、空いたスペースに入り込んで腰を下ろした。暖炉からは遠いが、人が多いせいか暖かい。
ベルグリフはゆっくりと義足を外し、枕にするクッションの下に置いた。
旅人にも色んなのがいる。壁に立てかけておいて盗まれては困る。剣や貴重品は二階の個室に置いて来たが、義足だけは置いて来るわけにはいかない。
その様子を見て、隣に座って酒を飲んでいた男が話しかけて来た。
「貴殿、義足を使っておられるのですな」
冒険者然とした男である。年の頃は三十の半ばといった所であろうか。ずんぐりとした体躯は鍛えられているようで、腕は太い。くすんだ茶色い髪の毛は薄くなり始めているが、顔の下半分は濃い髭が覆っている。人相もやや強面であるが、その目つきは何処か人懐っこさを感じさせた。
ベルグリフはにこやかに答えた。
「ええ、もう随分昔からです」
「入って来られた時、あまりに自然に歩きなさるから義足だと気づきませんでしたぞ。床を叩く音で気付いたようなものです」
「はは、慣れでしょうな。それに膝が残っているのが幸いしました。膝がなければどうやってもぎこちない動きになるかと思います」
ベルグリフはそう言って右の膝を動かして見せた。男は感心したように目を細める。
「それであっても、そこまで滑らかな動きをするには随分努力なされたでしょう。いやはや、感嘆いたす。お見事なものだ」
「や、恐縮です」
ベルグリフは照れ臭くなって頬を掻いた。男は上機嫌で革袋をベルグリフに差し出す。
「よければ如何かな? 葡萄酒がお嫌いでなければ」
「これはかたじけない。いただきましょう」
ベルグリフは受け取って一口飲んだ。上等とは言い難いが、それでもうまい。冒険者時代を思い出すような味だ。
会釈して革袋を返すと、男はニコニコしながら口を開いた。話好きな性格のようだ。
「某は冒険者として諸国を漫遊しておりましてな。特に名のある武芸者と立ち会う事を好んでおります」
「ほう」
「エストガルから北上し、オルフェンやエルブレン、アステリノスも回りました。ここロディナに来る前はボルドーに立ち寄ったのですが、そこの冒険者たちも素晴らしい腕前でありました。特にボルドー女伯の妹だというサーシャという少女は驚くべき手並みでしてな。某も腕に覚えはあったのですが、力及ばず土を舐める羽目になりもうした。まだAAランクだといいますが、あれは逸材です。いずれSランクに昇格するでしょうな」
男はサーシャとの立ち合いの様子を上機嫌に語って聞かせた。成る程、サーシャは腕を上げているようだ。ベルグリフは時折相槌を打ちながらも、静かに聞いていた。男は葡萄酒を煽って続ける。
「そう、ボルドーで噂に聞いたのですが、トルネラに剣の達人が住んでいるそうなのです。その癖、名声を一切求めずトルネラから出て来ない。異名を“赤鬼”というそうで、その異名に恥じぬ苛烈な剣技を操るそうです。ご存じで?」
一気に冷や汗をかいた。笑みが強張る。
「い、いや……知りませんな……」
「むう、そうですか……や、その“赤鬼”とかいう達人、サーシャ・ボルドーすら未だ一勝も出来ず、さらに、かの魔王殺しの英雄“黒髪の戦乙女”の父親にして師だというから驚きだ。そんな人物がローデシア帝国極北の辺境に暮らしているなぞ、某、想像もしておりませんでした」
「……そ、そうですか」
「某も是非その剣技を拝みたいと思いましてな、こうやってトルネラに向かう途中なのです。“赤鬼”は赤髪に義足であると聞き及んでおりますが、貴殿も赤髪に義足。いやはや、それゆえについ声をかけさせていただきもうした。はっはっは!」
「はは、は……妙な偶然もあったものですな」
乾いた笑みを浮かべたベルグリフは、まだ話し足りなさそうな男を制して、「申し訳ないが、明日は早いので」と毛布をひっかぶって横になった。
男の方も「そうだ、某も朝が早い」と横になり、早々にいびきをかき始めた。
男が豪放で鈍感な性格で良かった、とベルグリフはホッとした気分で目を閉じた。




