第4話「遺失時界」
地下駅を後にした黒崎とユイは、長い石階段を上った。
地上へ出ると、朝日が街を照らしていた。
ほんの数十分しか経っていないと思っていた。
しかし、時計を見ると午後三時を過ぎていた。
「そんな……。」
黒崎は腕時計とスマートフォンを見比べる。
どちらも同じ時刻を示している。
六時間以上が消えていた。
「向こうにいる間は、こっちの時間が流れる。」
ユイが静かに言う。
「さっきの駅は何なんだ。」
「入口。」
「何の?」
ユイは少しだけためらった。
そして、小さく息を吸う。
「遺失時界の。」
その夜。
黒崎は署へ向かい、同僚たちの様子を見た。
誰も六時間が経ったことに違和感を覚えていない。
「昼飯うまかったな。」
「午後の会議、眠かったよ。」
そんな会話が普通に交わされている。
黒崎だけが知らない六時間。
いや、世界が忘れた六時間だった。
翌日。
ユイは黒崎を街外れの古い時計塔へ連れて行く。
その時計塔は何十年も前に止まり、取り壊される予定の建物だった。
入口の扉には大きな錠前が掛かっている。
だがユイは錠前に触れることなく扉を押した。
ギィ……
扉は静かに開いた。
「え……?」
「見える人には、開く。」
塔の中は薄暗く、壁一面に時計が並んでいた。
腕時計。
柱時計。
懐中時計。
砂時計。
見たこともない形の時計まである。
そのすべてが止まっている。
だが、一つだけ動いている時計があった。
文字盤には数字ではなく、曜日が刻まれている。
月曜日。
水曜日。
木曜日。
金曜日。
土曜日。
日曜日。
そして、本来あるはずの場所だけが黒く塗り潰されていた。
「火曜日……。」
黒崎が呟く。
その瞬間、時計がひとりでに鳴った。
ゴォン……
一度だけ。
塔全体が震える。
床に描かれていた円形の模様が淡く光り始めた。
ユイは黒崎の腕を掴む。
「目を閉じて。」
「何が起きる?」
「遺失時界へ行く。」
次の瞬間。
風が止んだ。
音も消えた。
黒崎が目を開けると、そこは街ではなかった。
空は灰色。
太陽も月もない。
遠くまで続く荒野。
その大地には、無数の時計が半分埋まっていた。
壊れた時計。
止まった時計。
針のない時計。
どれも二度と動くことはない。
「ここが……。」
「遺失時界。」
ユイの声が静かに響く。
「世界から消えた時間は、全部ここへ流れ着く。」
歩き始めると、遠くに町が見えた。
だが、その町は奇妙だった。
家はある。
学校もある。
公園もある。
なのに、人の気配がほとんどない。
一人の女性が道を歩いている。
すれ違っても、黒崎を見ない。
まるで幽霊のようだった。
「この人たちは?」
「忘れられた人。」
「全員?」
ユイは頷く。
「存在したことを誰にも覚えてもらえなくなった人たち。」
黒崎は胸が締め付けられた。
女性は一軒の家の前で立ち止まる。
玄関には、小さな男の子の写真が飾られていた。
女性は写真に向かって優しく笑う。
「今日も元気?」
返事はない。
ユイが小さく言う。
「その子は、お母さんのことをもう覚えてない。」
「どういうことだ?」
「現実では、お母さんが最初から存在しなかったことになってる。」
黒崎は言葉を失う。
女性は毎日、もう自分を知らない息子を想い続けている。
それでも、会うことはできない。
町の奥から、子どもの笑い声が聞こえた。
黒崎が振り向くと、一人の少年がこちらを見ていた。
年齢は十五、六歳。
ぼろぼろの制服を着ている。
その目だけが、不思議なくらい真っすぐだった。
少年は黒崎を見るなり、驚いた表情を浮かべる。
「……生きてる人?」
黒崎が何かを答える前に、少年は走り出した。
その姿は町の奥へ消えていく。
ユイは少年の背中を見つめ、静かに呟いた。
「やっと会えた。」
「知り合いなのか?」
「ううん。」
ユイは首を横に振る。
「でも、あの子がこの世界を変える。」
灰色の空の向こうで、どこか遠くの時計が一斉に鳴り始めた。
その音は、まるで世界の終わりを告げる鐘のように響いていた。




