第3話「夢の終着点」
地下へ続く石階段は、まるで何十年も前からそこにあったかのように静かに口を開けていた。
黒崎は目を疑う。
昨日まで、この路地裏にはただのコンクリートの壁しかなかった。
「……こんな場所、知らない。」
ユイは何も言わず、ゆっくりと階段を降り始めた。
「待て!」
黒崎は慌てて後を追う。
階段は異様なほど長い。
一段、また一段と降りるたび、街の音が遠ざかっていく。
やがて聞こえるのは、自分たちの足音と、どこからともなく響く列車の走行音だけになった。
階段の終わりには、小さな駅があった。
古びた木造駅舎。
錆びついた時計。
改札には駅員もいない。
ホームの看板には、こう書かれていた。
「終着駅」
それだけだった。
行き先も駅名もない。
「……こんな駅、地図にない。」
黒崎が呟く。
ユイは静かにホームへ向かう。
「ここは、普通の人には見えない。」
「普通じゃないって?」
「火曜日を覚えてる人だけ。」
黒崎はホームを見渡した。
十数人ほどの人影がいる。
だが誰も話さない。
皆、線路の向こうを見つめている。
まるで何かを待ち続けているようだった。
その中に、一人の老人がいた。
黒崎は声をかける。
「すみません。」
老人はゆっくりと振り向く。
「今日は何日ですか?」
黒崎が尋ねると、老人は穏やかに笑った。
「今日は八月三十五日じゃよ。」
「……え?」
「そうじゃろう?」
黒崎は言葉を失った。
八月三十五日など存在しない。
老人は当然のように続ける。
「わしは、その日に死んだ。」
ユイが小さく呟く。
「その日は世界から消えたの。」
老人は本来なら存在しない日に命を落とした。
だから現実からも忘れられた。
家族も、友人も、墓さえも。
誰も老人がいたことを覚えていない。
ホームに列車の接近音が響く。
ゴォォォ……
霧の中から、一両だけの古い列車が姿を現した。
車体には数字も路線名も書かれていない。
扉が開く。
誰も乗り降りしない。
車内には乗客がいる。
だが、その全員が窓の外をぼんやり見つめていた。
表情はなく、生きているのか死んでいるのかも分からない。
黒崎は思わず一歩後ずさる。
「……何なんだ、この電車。」
ユイは静かに言った。
「時間が運んでる。」
「時間?」
「忘れられた人を。」
その瞬間、車内の一人の少女と目が合った。
少女は窓ガラスに手を当て、口を動かす。
声は聞こえない。
だが、唇の動きだけははっきりと読めた。
> 「たすけて」
列車の扉が閉まる。
警笛が鳴り、ゆっくりと走り出す。
黒崎は反射的に追いかけようとする。
しかしユイが腕を掴んだ。
「乗っちゃだめ。」
「なんで!」
「まだ帰れなくなる。」
黒崎は立ち止まるしかなかった。
列車は霧の中へ消え、再び静寂が訪れる。
ホームの端に、一枚の古びた掲示板が立っていた。
黒崎は近づく。
そこには無数の紙が貼られている。
どれも尋ね人の張り紙だった。
しかし、名前の欄はすべて空白。
写真もぼやけて顔が分からない。
まるで「誰かを探している」という事実だけが残り、その人物の存在そのものが消えてしまったようだった。
掲示板の一番下には、赤いインクで一文だけ書かれていた。
> 「忘れられた者は、時間に拾われる。」
黒崎は背筋が凍る。
その時、駅舎の時計が突然「カチッ」と音を立てた。
止まっていた長針が、一目盛りだけ動く。
ユイはその音を聞き、青ざめた。
「急がなきゃ……。」
「何が起きる?」
ユイは震える声で答えた。
> 「次は、一週間が消える。」
黒崎は息をのむ。
火曜日だけでは終わらない。
世界から消える時間は、これからさらに増えていくのだった。




