澄んだ記憶
家の中は、外から見た印象よりもずっと整っていた。
蔦は窓の外側で止まり、内側にはほとんど入り込んでいない。小さな机と椅子、壁際には簡素な棚。どれも古いが、丁寧に使われているのがわかる。
少女は先に立って歩き出す。
足取りはゆっくりだが、迷いはない。
その顔には、薄い布が巻かれていた。
目元を隠すように、丁寧に。
「座って」
そう言いながら、彼女は机に軽く手を触れ、位置を確かめるように指を滑らせた。
僕はその向かいの椅子に腰を下ろす。
わずかな沈黙。
外の森の音が、遠くに聞こえる。
少女は顔をこちらに向ける。
布の奥の視線が、こちらに向けられている気がした。
「……あの歌」
不意に、彼女が口を開いた。
「どこで覚えたの?」
「さあ」
僕は肩をすくめる。
「旅の途中で、なんとなく覚えた。前から知ってた気もするけど」
少女は少しだけ首を傾ける。
その仕草は、相手の気配を探るようでもあり、言葉の重さを測っているようでもあった。
「……その歌」
小さく息を吸って、続ける。
「母が歌ってた」
静かな声だった。
けれど、確かな重さがあった。
僕は少しだけ目を細める。
「そうなんだ」
「よく、あの人……歌ってたの」
言葉を選ぶように、少し間を置く。
「歌うときだけ、少し遠くを見るの」
彼女はそう言って、布に覆われた目元に指先を触れる。
「ここじゃないどこかを、見てるみたいで」
静かな沈黙。
「……それで、いなくなった」
ぽつりと落ちた言葉は、軽くはなかった。
「いなくなった?」
思わず、聞き返す。
少女はすぐには答えなかった。
指先で机の縁をなぞり、そのままゆっくりと手を離す。
「……よく、覚えてないの」
小さく、そう言った。
「母がいなくなった日のこと」
言葉は途切れがちで、慎重に選ばれているようだった。
「気づいたら、もういなくて」
一瞬だけ、息が止まる。
「……でも」
少女の指が、わずかに宙を探るように動く。
「歌だけ、残ってる」
その言葉のあと、ほんの短い沈黙。
「思い出そうとすると——」
彼女は、布の上から目元を押さえる。
「少しだけ、見えるの」
かすかに、声が揺れる。
「光の中で、誰かが立ってて」
言葉を探すように、ゆっくりと続ける。
「顔は、よく見えないのに」
「……笑ってる気がするの」
その像は、すぐに崩れる。
「すぐに、霞んで……消えちゃうけど」
静けさが戻る。
僕は何も言わない。
少女も、それ以上は続けなかった。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。
「その代わりに——」
部屋の隅へと歩いていく。
あの石とは別の、小さな箱の前で足を止めた。
膝を折り、蓋に触れる。
ためらいはなかった。
静かに開く。
中から取り出したのは、ひとつの石だった。
手のひらに収まるほどの大きさ。
光を受けて、深い紫に近い色をたたえている。
ただの色ではない。
奥に沈むような、どこか吸い込まれるような光だった。
少女はそれを、大事に包むように両手で持つ。
「これが、残ってたの」
そう言って、少しだけこちらへ差し出す。
「母のもの、だと思う」
断言はしない。
けれど、その声音には迷いがなかった。
僕は石を見つめる。
不思議と目を離しにくい。
ただの鉱石にしては、妙に——存在感がある。
少女は布越しに、その石へと顔を向ける。
まるで、見ているかのように。
「歌ってたときと、同じ感じがするの」
静かに言う。
「これに触れると、少しだけ……わかる気がする」
何が、とは言わない。
けれど、その言葉の先にあるものは、はっきりしていた。
記憶の代わり。
あるいは——残された“何か”。
少女は石を胸元に引き寄せる。
少しの沈黙。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
「さっきの歌、もう一度歌える?」
その声は、確かめるようでもあり、どこか祈るようでもあった。
それに混じって、ほんのわずかに——弾むような響きがあった。
まるで、訪れた客を迎えるような。
この静かな家に、誰かが来たことを喜んでいるような。
布の奥の視線が、まっすぐこちらに向いている気がする。
僕は一瞬だけ考えて、頷く。
「いいけど」
「……少しだけでいいから」
僕は目を閉じ、息を吸う。
そして、もう一度——歌いはじめた。




