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錆びれた命と魂 風は吹く


森の入口に立つと、空気が変わるのがわかった。


石の街の乾いた響きとは違う、湿り気を帯びた匂い。風はやわらかく、どこか懐かしい感触を運んでくる。


遠くで鳥が鳴いた。


高く、透き通るような声だった。


その音に、ふと足が止まる。


こんな音を、昔どこかで聞いた気がした。


——いや、違う。


あの場所に、こんな音は存在しなかった。


風も、土も、木々も。

ましてや、自由に鳴く鳥の声など。


あるのはただ、閉ざされた空間と、決められたやり方だけだった。


何かを探し、見つけ、記し、そして残す。


その繰り返し。


それが正しいことだと、疑うこともなかった。


「見るな」「触れるな」「考えるな」


そう教えられてきたはずなのに、


——一度だけ、見てしまった。


形になる前のものを。


言葉にされる前の、何かを。


思い出そうとすると、輪郭は曖昧になる。

けれど、あのとき感じたものだけは、確かに残っている。


だから僕は、そこを出た。


外の世界を、自分の目で見てみたかった。


ただ、それだけの理由で。


再び鳥が鳴く。


今度は少し近い。


その声に導かれるようにして、僕は一歩を踏み出した。


土を踏む。


その柔らかさに、わずかに驚く。


石ではない地面を歩くことに、まだ慣れていないらしい。


音は、ほとんどしない。


ただ、静かに沈む。


それが妙に新鮮で、僕は少しだけ息を吐いた。


風が木々を揺らし、葉の擦れる音が広がる。


どこかで水の流れる気配もする。


世界は、こんなにも多くの音で満ちていたのか。


そう思いながら、僕は森の中へと足を踏み入れる。


その先に何があるのかは、まだ知らない。


ただ——


知らないままでいるよりは、ずっといいと思った。



森に入ってから、どれくらい歩いただろう。


街の採掘音はいつの間にか遠ざかり、代わりに、自分の足音だけが静かな森に響いていた。


コツ、コツ。


湿った土と落ち葉を踏む感触は、石の街とはまるで違う。音も、空気も、すべてが柔らかく沈んでいくようだった。


頭上では枝葉が重なり合い、空は細く切り取られている。差し込む光は弱く、時間の流れさえ曖昧にしてしまう。


やがて、木々の合間にそれを見つけた。


家だ。


古びた木造の家は、壁一面を蔦に覆われ、まるで森に飲み込まれかけているように見える。屋根は傾き、窓も曇っている。それでも、不思議と完全に朽ちた印象はなかった。


むしろ、誰かが今も手を入れているような——そんな気配がある。


人の気配だ。


煙は見えない。灯りもない。

それでも、ここには誰かがいると、はっきり感じられた。


風が吹く。


枝が擦れ合い、かすかな音を立てる。

その一瞬だけ、家の壁に絡みつく蔦が、ゆっくりと呼吸しているように見えた。


気のせいだろう。


僕は扉の前で立ち止まり、しばらくその家を眺めたあと、近くにあった平たい岩に腰を下ろした。


すぐに声をかける気にはならなかった。


理由ははっきりしない。ただ、ここではそれがふさわしくない気がした。


代わりに、小さく息を吸って、歌を口ずさむ。


誰に聞かせるでもない、旅の途中で覚えた古い歌だった。


――――


石よ、眠る意志よ

深き底より 目を覚ませ


刻まれし時をほどき

名なき鼓動を 今ひらけ


赤き記憶 青き静寂

紫の夢を 継ぐものよ


声なき声に 応えよと

呼ばれしならば 立ち上がれ


――――


歌は森の中へとゆっくり溶けていく。


音は広がらず、どこかに吸い込まれていくようだった。


それでも、不思議と消えた感じはしない。

むしろ、どこかに残っている——そんな感覚があった。


しばらく歌っていると、不意に気配が変わった。


森が、わずかに息を潜めたような気がした。


家の中で、何かが動く。


軋む音。

ゆっくりと、確かにこちらへ近づいてくる足音。


僕は歌をやめ、視線を扉へ向けた。


次の瞬間、扉が内側から押されるようにして開く。


古びた蝶番が、低く鳴いた。


現れたのは、一人の少女だった。


長い髪は蔦と同じように揺れ、淡い光の中で静かに広がる。白い肌に、深い色の瞳。その姿は、この森の一部のようにも見えた。


彼女はしばらく、何も言わずに僕を見ていた。


いや——正確には、僕ではなく、さっきまで僕が座っていた岩のあたりに視線を落としているようにも見える。


やがて、その視線がゆっくりと持ち上がり、僕と合った。


「……旅人?」


その声はかすかだったが、どこか澄んでいた。


「ああ、そうだよ」


僕が答えると、少女はほんのわずかに息をついた。


安心したようにも、確かめたようにも見える仕草だった。


「やっぱり」


小さくそう呟いてから、彼女は扉を大きく開く。


その動きはゆっくりで、どこか慎重だった。


「入って。こんなところまで来る人、久しぶりだから」


柔らかな口調だった。


けれどその奥に、わずかな緊張の色が混じっている気がした。


それが、僕に向けられたものなのか。

それとも——別の何かに対してなのかは、わからない。


僕は岩から立ち上がり、軽く土を払ってから、家の方へ歩き出す。


扉の前を通り過ぎるとき、さっきまで座っていた岩に、ほんの一瞬だけ目を向けた。


何も変わってはいない。


ただ、なぜか——


さっきとは少しだけ、違って見えた。


僕はその違和感を言葉にできないまま、家の中へと足を踏み入れる。


森の静けさとは違う、閉ざされた空気がそこにはあった。


そしてその奥で、まだ何かが、静かに眠っている気配がした。

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