3.ガッコウダヨリから
「チミナー忘れ物ない?」
「ない」
「ほんと?」
「ほんと」
朝の七時頃。今日は合格発表の日。合格発表なんだから必要なものはそんなにないのに、お姉ちゃんは心配しすぎだ。
「ねぇーほんとに私も言っちゃダメ?」
「ダメ」
「ちぇー…」
口を尖らせてしょんぼりしてるお姉ちゃん。いい大人がどこで凹んでんだか。
「ナズナと行くから」
「ああ、あの子?ならお姉ちゃんも行っていいじゃん」
「ダメ。」
「なんでぇーー…」
ナズナならお姉ちゃんもきてもいいよ、とは言いそうだけど私がやだ。
まず友達に姉のシスコンを見られるのがやだ。
カバンの中を確認する。持っていくのは学校から届けられた書類と、名刺ほどの大きさの「197」と書かれたカード。その他貴重品だけ。
「ていうか、学校から書類来たならもう合格なんじゃない?」
「わかんない。ナズナも来たって言うし。」
「そっかー」
チミカは腕を組んだまま「うーん」と小さく唸り、しばらく何かを考えていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「じゃあ駅まで送る。」
「ナズナと行く。」
「えぇ……。」
「十分くらいだし。」
「十分もあるじゃん。」
「十分しかない。」
返事を聞くなり、チミカは肩を落とした。
「最近の妹ってこんなに冷たいの……。」
「お姉ちゃんが過保護なだけ。」
「愛だよ、愛。」
「重い。」
「そんなこと言ってぇ。」
頬を膨らませながらも、玄関までついてくる。靴箱の上には小さな一輪挿しが置かれ、白い花が朝日を受けて静かに揺れていた。
窓から差し込む光は昨日より少しだけ柔らかく、春が足音を忍ばせながら近づいていることを教えてくれる。
「行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
扉を開ける直前、チミカが何かを思い出したように声を上げた。
「あっ。」
「なに。」
「ぎゅーしてない。」
「しなくていい。」
「えぇー!」
「遅れる。」
「一秒!」
「長い。」
「一瞬!」
少しだけ間が空く。チミナは小さく息をついて、ほんの一歩だけ近づいた。
「……一瞬だけ。」
「やったぁ!」
抱き締められる時間は、数十秒だけだったけれど、それが私には一瞬に感じた。
チミカは満足そうに両手を離すと、今度は何も言わずに笑った。
「いってらっしゃい。」
「うん。」
玄関の扉が静かに閉まる。
朝の空気は少しひんやりとしていた。住宅街には通学中の小学生の声が響き、庭先では植木に水をやる音が聞こえる。電柱の上では二羽の雀が鳴き交わし、その声は青く澄んだ空へ吸い込まれていった。
駅までの道は何度も歩いた道だった。小さな公園を横切り、信号を一つ渡る。花壇のチューリップはまだ葉を伸ばしたばかりで、蕾は固く閉じたまま風に揺れている。
改札前の時計は八時二十五分を指していた。人混みの中へ目を向けると、見慣れた白いカチューシャが朝日に照らされる。
「チミナ!」
ナズナは手を振りながら駆け寄ってきた。今日は少しだけ髪を巻いているらしく、毛先が歩くたびに柔らかく揺れる。
「おはよう。」
「おはよ!早いね。」
「ナズナも。」
「なんか家にいても落ち着かなくてさ。」
そう言って照れ笑いを浮かべ、えへへと頭を掻く。
「……緊張してる?」
「してる。」
「そう。」
「チミナは?」
「いつも通り。」
「だろうね。」
ナズナは苦笑しながら胸の前で両手を合わせた。
「お願いだから受かっててほしいなぁ。」
「うん。」
「高校、一緒に通いたい。」
駅前を吹き抜けた風が、二人の髪を同じ方向へ揺らした。
ホームへ向かう人の流れに混じりながら歩き出す。空は雲ひとつなく晴れていて、朝日を受けた線路が細く光を返していた。今日という日は、昨日までと何も変わらない景色の上へ静かに置かれている。それでも、改札の向こう側には昨日までとは違う時間が待っているようだった。
***
電車は定刻通りにホームへ滑り込んできた。扉が開くと同時に人の流れが入れ替わり、二人もその列に続いて車内へ入る。窓際の席はすでに埋まっていて、吊り革につかまる学生や会社員が静かに揺られていた。
「座れなかったね。」
「立ってる方が楽。」
「私は座りたかったぁ……。」
ナズナはそう言いながらも笑っている。電車が動き出すと、窓の外の景色もゆっくりと流れ始めた。住宅街を抜け、川を渡り、小さな公園の遊具が一瞬だけ視界を横切る。朝日に照らされた水面は細かな波を浮かべ、その光だけが車内へ反射していた。
「そういえば。」
「ん?」
「昨日、お母さんがね。」
「うん。」
「『森桐高校って、受かった人みんな顔つきが変わるよね』って言ってた。」
「顔つき。」
「なんか、大人っぽくなるって意味らしいよ。」
「そう。」
「私は全然分かんなかったけど。」
電車が次の駅へ止まる。制服姿の中学生が何人か乗り込み、車内は少しだけ賑やかになる。その中には受験会場で見かけた顔もいくつかあった。互いに声は掛けないものの、目が合えば小さく会釈を交わしている。
「結構いるね。」
「受験生。」
「みんな今日なんだ。」
「多分。」
再び電車が走り出す。
森桐高校の最寄り駅へ着く頃には、一つの車両の半分ほどが同じ目的地らしかった。改札を抜ける人の流れは自然と一つの方向へ集まり、駅前には制服姿の案内係が何人か立っている。
「おはようございます。森桐高校はこちらです。」
笑顔で道を案内する姿は受験の日と変わらない。
二人もその流れに沿って歩き始める。学校まで続く坂道の両脇には桜並木が植えられていた。枝先にはまだ固い蕾が並んでいるだけなのに、風が吹くたび春の匂いがどこからともなく運ばれてくる。
「今日咲いたらちょうどいいのにね。」
「まだ早い。」
「だよね。」
坂を上り切ると、大きな校門が見えてきた。
受験の日と同じ門。けれど漂う空気は少し違っていた。
門の前には受験生だけでなく保護者の姿も多く、結果を待つ人達の声があちこちで重なっている。笑い声もあれば、ほとんど言葉を交わさず掲示板の方を見つめる人もいる。
「人、多いね。」
「うん。」
校門をくぐる。校舎の窓ガラスが朝日を受け、白い光を返していた。その向こうで制服姿の生徒が数人歩いていく。受験の日には見かけなかった光景だった。
「在校生かな。」
「かも。」
ナズナは周囲を見渡しながら歩いていたが、不意に足を止めた。
「チミナ。」
「なに。」
「あれ。」
指さした先には、大きな掲示板が一つ設置されていた。まだ白い布が掛けられていて、中は見えない。その前には番号を待つ受験生達が静かに集まり始めていた。
布はまだ動かない。
風だけがその端を小さく揺らし、朝の光が白い布の上をゆっくりと滑っていった。
掲示板の前には受験生と保護者が幾重にも集まり、春先の校庭とは思えないほど静かな空気が流れていた。話し声はあるものの、どれも自然と小さくなり、風に揺れる木々の音の方がよく耳へ届く。
「まもなく合格発表を行います。」
教員の声が響く。白い布がゆっくりと外されると、人の流れも少しずつ前へ動き始めた。
「行こ。」
「うん。」
二人並んで掲示板へ近付く。受験番号は規則正しく並んでいて、視線だけが数字を追い越していく。
1962。
1967。
1969。
1970。
そこで視線が止まる。もう一度見直す。数字は変わらない。受験番号一九七〇番。確かにそこへ並んでいた。
「……あった。」
「え?」
ナズナも慌てて掲示板へ顔を寄せる。
「ほんとだ……!」
そのまま少し下へ視線を移していく。
「あ。」
今度はナズナの足が止まる。口元だけがゆっくり緩んだ。
「あった……。」
「おめでとう。」
「チミナも!」
二人で顔を見合わせる。ナズナは堪えきれなかったように笑い出した。
「受かったぁ……。」
「うん。」
「ほんとによかった……。」
肩から力が抜けたように息を吐き、そのまま何度も掲示板を見返している。
「ねぇ。」
「なに。」
「チミナも来た?」
「なにが。」
「森桐高校の人。」
「……家に?」
「うん。」
校門へ向かって歩きながらナズナが続ける。ナズナが風で靡いた髪の毛を、耳にかける。
「受験の次の日くらいかな。朝、インターホン鳴ってさ。」
「うん。」
「開けたら森桐高校の先生が立ってて、『合格発表の日に必要になります』って封筒渡されたの。」
「私も。」
「やっぱり?」
「うん。」
「中に書類とカード入ってなかった?」
「『197』書いてあるやつ。」
「そうそれ!私は『376』だったけど。」
ナズナは少し安心したように笑う。
「うちだけなのかと思ってた。」
「私も。」
「じゃあ受験生全員に配ってるんだね。」
「多分。」
「最初びっくりしたよ。まだ結果出てないのに学校の人来るんだって。」
「私も思った。」
風が校庭を吹き抜ける。桜の枝先はまだ固く閉じたままで、空だけがどこまでも青かった。
「お母さん、その先生に『もう合格なんですか!?』って聞いてた。」
「それで。」
「『当日をお楽しみに』って笑われたらしい。」
「そう。」
「結局教えてくれなかったって、お母さん拗ねてた。」
「拗ねるんだ。」
校舎へ続く道には、合格した受験生達がそれぞれ書類を手に歩いている。その誰もが封筒を持っていて、その中にはきっと同じようなカードが入っているのだろう。
透明なカードの角を指先でそっとなぞる。
『197』
朝日を受けた数字は静かに光を返すだけで、それ以上何も語ろうとはしなかった。
***
「皆さん、合格おめでとうございます」
穏やかな笑みを浮かべて合格者たちを迎えたのは、山田クラマス、校長先生だった。
「まずは、それぞれ皆さんカードがあるでしょう。そのカードと同じ番号の席に座ってください。」
言われた通り、自分の数字を探す。椅子の上に紙が置いてあり、そこに番号が書かれていた。並べられている順番は不揃いで、私の席は廊下側の端の列で、隣の席の人の番号は『049』だった。
やがて皆が座ると、校長が教卓の前に立ち、話を始めた。
「今回の本校への応募者数は5046人。その中から貴方たち376人は選ばれました。誠におめでとう御座います!」
「まず、貴方たちに渡された書類とカードを用意してください。」
そう言って、皆がカバンの中から書類を出す。部屋に窓はなく、部屋は蛍光灯の光で満たされていた。
「その書類に入っている数字の書かれたカードの裏に、森桐高校の校章が書かれていますよね?実は、そのカードの裏に校章が書かれていた場合、もうすでに合格と認められているのですよ。」
「そのカードはこの学校で生活する為には必ず必要なものとなります。絶対に無くさないでくださいね。」
校長は一度言葉を切り、教室全体をゆっくりと見渡した。穏やかな笑みは変わらない。けれど、その視線だけが一人ひとりの顔を丁寧になぞるように巡っていく。
「では、カードを裏返してみてください。」
紙の擦れる音が一斉に重なる。透明なカードを指先で返す。裏面には、昨日確認したものと同じ校章が刻まれていた。森を象ったような紋章の下に、小さな文字で『MORIKIRI HIGH SCHOOL』と印字されている。周囲でも「本当だ」「あった」と小さな声が上がる。
「その校章は特殊な加工が施されています。複製はもちろん、譲渡もできません。卒業まで大切に保管してください。」
校長はそう言って一枚のカードを掲げる。
「校内への入館、寮への出入り、図書館や各施設の利用、部活動への参加。森桐高校で生活する上で、そのカードは皆さんの身分証になります。」
教卓の上へカードが静かに置かれる。
「失くした場合は必ず申し出てください。もっとも、失くさないことが一番ですが。」
教室に小さな笑いが広がる。校長もつられるように微笑み、続けた。
「さて、それでは本題に入りましょう。」
教室の空気が少しだけ引き締まる。
「皆さんには本日、このあと学科を決めていただきます。」
その一言に、教室のあちこちでざわめきが起こった。
「え……?」
「今日?」
「もう決めるの?」
囁くような声が波紋のように広がる。チミナも僅かに視線を上げる。
パンフレットには10の学科が存在すると書かれていた。しかし、入学後に希望を出すものだと思っていた。校長はざわめきが落ち着くのを待ち、ゆっくりと口を開く。
「安心してください。今この場で一人で決めていただくわけではありません。」
教卓の横に置かれていた黒い鞄から、一冊の分厚い冊子を取り出す。
「こちらが学科案内になります。皆さんのお手元にも、これから配布いたします。」
教員達が列ごとに冊子を配り始める。
机へ置かれたそれは、一般的な学校案内よりもずっと厚かった。表紙には校章だけが印刷されている。ページをめくる音が教室のあちこちで重なる。
「学科は全部で10。皆さん自分に合う学科をじっくり考えてくださいね。」
ページを開く。最初に目へ入ったのは、『普通学科』ではなかった。
『心理・精神学科』
『時空・異世界研究科』
『自然・文化保管科』
『過去・未来創造科』
『幸福設計・探究科』
『再現・再生科』
『舞台表現科』
『教育法科』
『世界秩序管理科』
『現実構築科』
書かれている順番通りに目を通さず、不順に学科の名前を読む。
冊子をめくる指が止まることはない。隣から、小さく息を呑む音が聞こえた。視線だけ向けると、『049』と書かれた席の女子生徒も同じように冊子を見つめていた。
「なお、本校では皆さんの第一希望だけでなく、適性も考慮した上で最終的な学科を決定します。」
校長の穏やかな声が続く。
「面接で少し変わった質問をした理由も、そのためです。」
教室が静まり返る。誰もが思い当たる節を持っているらしかった。校長は小さく頷く。
「答えに正解や不正解はありません。皆さんが何を考え、どのように物事を捉え、どんな可能性を持っているのか。それを知るための時間でした。」
蛍光灯の白い光が冊子の上へ均等に落ちる。ページをめくる音だけが、静かな教室へ規則正しく響いていた。
校長は教卓の端へ置かれた冊子を一冊手に取ると、その表紙を指先で軽く叩いた。
「恐らく、皆さんのほとんどが初めて目にする学科名でしょう。」
教室のあちこちで小さく頷く人がいる。
「当然です。本校にしか存在しない学科ですから。」
その一言だけで、再び小さなざわめきが広がる。
「まず皆さんに知っていただきたいことがあります。本校は、一般的な高校とは大きく異なります。」
教卓の横へ移動した校長が軽く手を上げると、部屋の前方にある大きなスクリーンへ映像が映し出された。
緑に囲まれた広大な校舎、いくつもの実習棟、整備された人工芝のグラウンド、劇場のような建物、ガラス張りの図書館、美術館、温室、天文観測棟。映像が切り替わるたび、小さな驚きの声が教室のあちこちから漏れる。
「本校は、一学年350人を変えます。しかし、敷地面積は一般的な高校のおよそ15倍を誇ります。」
スクリーンには校内全体の地図が映し出される。校舎だけではない。
研究棟、学生寮、演習施設、温室、劇場、運動施設。
名前の付けられた建物だけでも数十棟はある。
「理由は単純です。」
校長は地図へ視線を向けたまま続ける。
「森桐高校は、一つの街として設計されているからです。」
教室が静まり返る。
「授業だけではありません。生活も、研究も、部活動も、皆さんの高校生活のほとんどがこの敷地内で完結します。」
映像が消える。蛍光灯の白い光だけが教室を照らしていた。
「ですから。」
校長は柔らかく笑う。
「これから決めていただく学科は、皆さんの高校生活そのものを決めると言っても過言ではありません。」
冊子へ視線を落とす。一ページ目。
『心理・精神学科』
《人間の精神構造、感情、心理現象について学び、心の在り方を専門的に研究、改善する学科。また本校生徒からの相談、生徒の保護をする学科。》
ページをめくる。
『時空・異世界研究科』
《時空という概念及び異世界を専門的に研究する学科。体験型の実技あり。》
もう一枚。
『自然・文化保管科』
《失われつつある自然環境及び文化を保全・継承するための専門学科。》
さらにもう一枚。
『過去・未来創造科』
《過去と未来の因果関係について研究し、新たな可能性を創造する学科。》
ページを送る指先が、一瞬だけ止まる。その先には。
『現実構築科』
《現実そのものを構築・修復・管理するための専門学科。》
静かな教室に、紙をめくる音だけが響いている。
誰も笑わない。誰も冗談だとは言わない。
隣へ視線を向ける。
『049』と書かれた席の女子生徒も、同じページを見つめたまま動かなかった。
ページの上では、蛍光灯の光だけが静かに反射していた。
ページを閉じる音が、教室のあちこちで重なる。誰かが何かを口にしようとして、結局そのまま飲み込む。そんな空気が部屋全体をゆっくりと満たしていた。
「驚かれた方も多いでしょう。」
校長は教卓へ両手を添え、穏やかな笑みを浮かべる。
「もちろん、学科名だけを見ても何を学ぶ場所なのか想像しにくいものばかりです。ですから、本日は一つずつ説明させていただきます。」
教室の照明が少しだけ落ち、再びスクリーンへ映像が映し出される。
最初に表示された文字は、『心理・精神学科』。
「心理・精神学科は、人の心について学ぶ学科です。しかし、本校で学ぶのは心理学だけではありません。」
映像が切り替わる。白衣を着た生徒が実験器具を扱う様子。数人で机を囲み議論を交わす様子。図書館の奥で分厚い本を読み進める様子。
「人は何を見て、何を感じ、何を選択するのか。その根本を学びます。卒業生の進路は心理学者、精神科医、研究者、教育者など様々です。」
「また、書かれている通り、生徒の相談に乗ったり、生徒を保護するところでもあります。」
画面が切り替わる。
『時空・異世界研究科』
教室の空気がわずかに揺れる。
「名前だけを見ると不思議な印象を受けるかもしれません。」
校長は小さく笑う。
「ですが、本校では時間という概念や、多世界理論などを専門的に研究しています。」
映像には天体観測をする生徒や、巨大な装置の前で実験を行う生徒の姿が映る。
どれも高校とは思えない設備だった。
「この学科は本校の中でも特に研究施設が充実しています。」
ページをめくる音が再び重なる。説明を聞きながら冊子へ目を落とす者。映像を見つめたまま動かない者。皆、それぞれ違う場所へ視線を向けていた。
「なお。」
校長はゆっくりと言葉を続ける。
「本校では学科を途中で変更することも可能です。ただし、一度所属した学科で得た知識や経験は、その後の高校生活にも大きく関わります。」
教室の後方で椅子が小さく軋む。
「ですから、焦って決める必要はありません。」
スクリーンが消える。部屋は再び白い蛍光灯だけの明るさへ戻った。
「これから十分ほど時間を設けます。冊子をご覧になりながら、自分が少しでも興味を持った学科へ付箋を貼ってみてください。希望はいくつ選んでいただいても構いません。」
教員達が透明なケースを持って教室内を歩き始める。
一人ひとりの机へ、小さな付箋が配られていく。チミナもケースから一枚受け取り、冊子の上へ置いた。隣の席では『049』の女子生徒が、すでに『舞台表現科』のページへ付箋を貼っている。教室には再びページをめくる音だけが響き始めた。
10ある学科。どのページにも、見慣れない言葉が並んでいる。
その中で、一つだけ。『現実構築科』という文字が、頭に張り付いて離れなかった。




