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キミダヨリから。  作者: ヒダマリ
オタヨリが届きました
3/5

2.ヒトダヨリから

 待ち合わせの時間より五分ほど早く駅へ着くと、広場の時計は十一時を少し回ったところだった。休日ほどの賑わいはないものの、人の流れが途切れることはなく、改札から出てくる人達は皆それぞれの行き先へ足早に歩いていく。駅前の花壇には小さなパンジーが植えられ、冷たい風に揺れながらも鮮やかな色を落としていた。


「チミナー!」


 人混みの向こうから聞き慣れた声が飛んでくる。三つ編みを揺らしながらこちらへ駆けてくるナズナは、制服ではなく薄いベージュ色のコートを羽織っていた。


「お待たせ!」

「まだ五分しか経ってない。」

「え、もう来てたの?」

「うん。」

「やっぱり待たせちゃったじゃん。」

「別に。」


 ナズナは申し訳なさそうに笑うと、「じゃ、行こ!」と歩き出した。商店街へ続く歩道には春物の洋服を飾る店が増え始めていて、ショーウィンドウには淡い色合いのカーディガンやワンピースが並んでいる。冬物を片付ける店員の姿も見え、季節だけが少し先へ進んでいるようだった。


「そういえばさ。」

「なに。」

「受験終わったら急に暇にならない?」

「なった。」

「だよねー。昨日なんて勉強しなくていいって分かってるのに、机座っちゃったもん。」

「習慣じゃない?」

「それ。」


 ナズナは笑いながら頷く。二人で歩いていると、焼きたてのパンの香りが風に乗って流れてきた。


「寄る?」

「いいよ。」


 店内へ入ると、ガラスケースには焼き上がったばかりのパンが並び、湯気をまとった香りが店いっぱいに広がっていた。ナズナは迷うことなくトングを手に取る。


「チミナ、どれ食べる?」

「ナズナが選んで。」

「一番困るやつ!」


 結局ナズナが選んだ明太フランスとメロンパンを半分ずつ分けることになり、紙袋を片手に店を出る。商店街のベンチへ腰掛けると、昼前の日差しがゆっくりと石畳を温め始めていた。


「そうだ。」


 メロンパンを頬張りながらナズナが思い出したように口を開く。


「昨日、お母さんが森桐高校のこと知ってた。」

「そうなの。」

「なんか、『最近すごい人気の学校よね』って。テレビでも見たことあるって言ってた。」

「テレビ。」

「うん。でも学校紹介とかじゃなくて、ただ校長への取材みたいな?」

「そう。」


 それだけ返して、紙袋を畳む。視線を上げると、商店街の大型モニターでは昼のニュースが流れていた。アナウンサーの声は人の話し声にかき消され、映像だけが静かに切り替わっていく。その中に一瞬だけ森桐高校の校門が映り、制服姿の生徒達が画面を横切った。数秒後には別の話題へ変わり、何事もなかったように天気予報が始まる。


「今の。」

「見た。」

「森桐だったよね?」

「多分。」


 ナズナは「やっぱ有名なんだなぁ」と感心したように呟く。商店街にはいつもと変わらない時間が流れていて、買い物袋を提げた人達が店から店へと歩いていく。その景色に溶け込むように、昼を知らせる時計台の鐘が一度だけ街へ響いた。


***


 鐘の音が途切れる頃には、人の流れも少しずつ増え始めていた。紙袋を近くのごみ箱へ入れ、ベンチから立ち上がる。


「次どこ行く?」

「文房具見たい。」

「またペン買うの?」

「うん。」

「この前も買ってなかった?」

「インク切れた。」

「早くない?」


 ナズナは少し笑いながら歩き出す。商店街を抜けた先の雑貨店には、学生がよく使う文房具や日用品が並んでいた。入口の自動ドアが開くと、柔らかな暖房の空気が頬を撫でる。

 店内には新生活応援フェアと書かれた大きなポップが吊り下げられ、色とりどりの筆箱やノートが棚いっぱいに並んでいる。春という季節は、何かを始める人のためにあるのかもしれないと思わせるほどだった。


「これ可愛くない?」


ナズナが手に取ったのは、桜の花びらが描かれたシャープペンシルだった。


「可愛い。」

「チミナも一本どう?」

「今使ってるので十分。」

「絶対そう言うと思った。」


 笑いながら元の場所へ戻すナズナとは反対に、私はボールペンの棚へ足を止める。黒、青、赤。同じ色でもメーカーによって微妙に色味が違う。試し書き用の紙へ一本線を引くと、インクは紙の繊維へ静かに染み込んでいった。


「それ好きなの?」

「書きやすい。」

「へぇ。」


ナズナは興味深そうに覗き込みながらも、「私には全部一緒に見える」と首を傾げる。

 会計を済ませて店を出ると、少しだけ風が強くなっていた。街路樹の枝先が揺れ、その隙間からこぼれる陽の光が歩道へまだら模様を落としている。


「そういえばさ。」


横断歩道の信号を待ちながらナズナが口を開く。


「森桐って、合格発表の日も学校行くんだよね。」

「うん。」

「緊張するなぁ。」

「まだ数日ある。」

「そうなんだけどね。」


 信号が青へ変わる。人の波に合わせて歩き出すと、向かい側の歩道から数人の高校生がこちらへ歩いてきた。制服は揃っていない。ブレザーの色も、ネクタイも、それぞれ違う。

 すれ違いざま、その中の一人が肩に掛けた鞄へ目が留まる。

 見覚えのある校章だった。森を模したような丸い紋章。昨日受け取ったパンフレットにも載っていたものと同じ。


「……。」


 気付けば、その生徒達はもう後ろを歩いていた。


「どうしたの?」

「いや。」


振り返ることはしなかった。

 そのまま歩き続けると、前方に小さな広場が見えてくる。噴水の周りでは小さな子ども達が追いかけっこをしていて、その傍らでは買い物帰りらしい夫婦がベンチへ腰掛けていた。


「ちょっと休憩しよ。」

「うん。」


 二人並んでベンチへ座る。噴水の水音は騒がしさを包み込むように絶えず響き、その向こうでは鳩が数羽、石畳の上をゆっくりと歩いていた。


「チミナ。」

「なに。」

「高校入ったらさ。」

「うん。」

「友達、いっぱい作ろうね。」


噴水の水しぶきが陽の光を受け、小さくきらめく。


「……できたら。」

「できるって。」


ナズナは迷いなくそう言って笑った。風が吹く。

 

 枝先で膨らみ始めた蕾が、小さく揺れた。まだ花は開かない。それでも季節は何も言わず、昨日より少しだけ前へ進んでいた。


***


 買い物から帰った頃には、西日がカーテンの隙間から細く部屋へ差し込んでいた。

洗濯物を取り込み、作り置きを温め、一人分の食器を流しへ運ぶ。その繰り返しだけで、一日は驚くほど静かに終わっていく。


 合格発表は明日。


 机の上には受験票と筆記用具、それから学校から渡されたパンフレットが綺麗に揃えられていた。窓の外では夕焼けが少しずつ群青色へ溶けていき、街灯が一本、また一本と灯り始める。


 その時、玄関の鍵が回る音がした。カチャリ、と。聞き慣れた音だった。リビングの扉が勢いよく開く。


「たっだいまーーー!!んーーー♡♡世界一可愛い妹ちゃーーーーん!!!」


両腕いっぱいの紙袋を抱えたチミカが、そのままこちらへ飛び込んでくる。


「チミナぁぁぁぁ!!会いたかったよぉぉぉ!!」


避ける間もなく抱き締められ、頬をぐりぐりと擦り寄せられる。


「……苦しい。」

「可愛い可愛い可愛い!!久しぶりの補給!!」

「お姉ちゃん。」

「なぁに?」

「明日には帰れるとか言っといて、結局帰ってきたのあれから三日後じゃん。」


腕の力がぴたりと止まる。チミカはゆっくり顔を上げると、どこか気まずそうに目を逸らした。


「えっと、その……飛行機がね?」

「うん。」

「欠航して。」

「うん。」

「次の日は新幹線が止まって。」

「うん。」

「その次の日はホテルが取れなくて。」

「うん。」

「……ごめんなさい。」


肩を落としたまま頭を下げる姉を見つめ、チミナは一つ息を吐いた。


「まぁ、帰ってきたならいい。」

「チミナぁぁぁぁ!!」


また勢いよく抱き付こうとする姉の額を片手で押さえる。


「それはやめて。」

「冷たい!」

「暑い。」

「まだ二月だよ!?」

「お姉ちゃんだけ季節違う。」

「えぇぇ……。」


チミカは大げさに肩を落としたかと思えば、すぐに何かを思い出したように目を輝かせた。


「そうだそうだ!」


抱えていた紙袋を机の上へ並べ始める。


「チミナにお土産いっぱい買ってきたんだよ!」

「多い。」

「世界一可愛い妹のためだからね!」


 紙袋の中から次々と箱や袋が現れる。お菓子、紅茶、可愛らしい髪飾り、ハンドクリーム、それから以前チミナが欲しいと言っていたスキンケア用品まで綺麗に揃っていた。


「これ覚えてたの。」

「当たり前でしょ!妹のこと忘れるお姉ちゃんなんてこの世に存在しません!」

「そう。」

「反応薄っ!」


チミカは頬を膨らませるが、その表情はすぐに緩む。


「それより!」

「うん。」

「受験お疲れ様。」


その一言だけは、いつもの賑やかな声ではなかった。

夕食の湯気が二人の間をゆっくり通り抜ける。


「ありがとう。」


短い返事と一緒に湯呑みへ手を伸ばす。

 

 窓の外では、街の灯りが夜へ溶け始めていた。玄関へ置かれた大きなスーツケースだけが、この家に誰かが帰ってきたことを静かに物語っていた。


***


 夕飯は珍しく賑やかだった。テーブルいっぱいに並んだ料理からは湯気が立ち上り、味噌汁の香りが部屋の隅までゆっくりと広がっていく。窓の外はすっかり夜になり、住宅街を走る車の音だけが時折静けさを横切っていた。


「はい、チミナ。」


チミカがだし巻き卵を箸で挟み、そのままこちらの茶碗へ乗せる。


「これ好きでしょ?」

「……好き。」

「よかったぁ。」


自分のことのように笑う姉を横目に、ご飯を一口運ぶ。三日間食べ続けた作り置きとは違う味が、ゆっくりと舌へ広がった。


「ちゃんとご飯食べてた?」

「食べてた。」

「朝昼晩?」

「うん。」

「カップラーメン生活してない?」

「してない。」

「ほんと?」

「ほんと。」


じっと覗き込んでくる視線をそのまま受け止める。


「……疑ってる。」

「妹の健康管理もお姉ちゃんのお仕事です。」

「初耳。」

「今決まった。」


 そう言って笑うチミカは、ようやく安心したように箸を動かし始めた。

食事を終え、食器を二人で流しへ運ぶ。蛇口から流れる水音が途切れることなく響き、洗剤の泡が白く膨らんでは消えていく。


「今日は私がやる。」

「じゃあ拭く。」

「助かる。」


 二人並んで立つのは久しぶりだった。何気ない会話と食器の触れ合う音だけで、家の中は十分賑やかになるらしい。

最後の皿を食器棚へ戻し終えると、チミカは思い出したように手を叩いた。


「あ、そうだ!」

「なに。」

「受験どうだった?」

「普通。」

「普通?」

「うん。」

「面接だけだったんだよね?」

「そう。」


チミカは冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップへ注ぎながら微笑んでチミナに問いかける。


「質問は?」

「色々。」

「例えば?」


コップを受け取り、一口飲む。


「人間とは何か、とか。」


チミカの手が止まった。


「……へぇ。」

「他にも色々。」

「そんなこと聞かれる高校なんだ。」

「私も初めてだった。」


それ以上は続かなかった。

 チミカは少し考えるように視線を落としたあと、「まぁ、森桐高校だもんね」とだけ呟き、空になったコップを流しへ置く。


「知ってるの。」

「名前くらいは。」

「そう。」

「最近よく聞くし。」


会話はそこで終わった。時計の針は九時を回っている。


「明日、合格発表か。」

「うん。」

「緊張してる?」

「別に。」

「チミナらしい。」


チミカはくすっと笑うと、ソファへ腰を下ろした。


「受かってても落ちてても、お姉ちゃんはいっぱい褒めるから。」

「まだ結果出てない。」

「だから先に予約。」

「そういうのあるんだ。」

「あるの。」


 テレビでは天気予報が始まり、明日は今日より少し暖かくなるでしょう、とキャスターが穏やかな声で伝えている。


窓の外には、雲の切れ間から細い月が浮かんでいた。

 

 春はもうすぐそこまで来ているらしい。けれど蕾はまだ固く閉じたままで、その枝先だけが夜風に小さく揺れていた。明日になれば、何か一つくらい景色が変わるのだろうか。時計の秒針だけが変わらない速さで時を刻み続け、その音は静かな家の中へ溶け込んでいった。


***


 テレビの電源を消すと、部屋の中は急に静かになった。壁に掛けられた時計の針だけが規則正しく音を刻み、窓の外ではどこか遠くを走る電車の音が夜の空気を細く揺らしている。


「そろそろ寝よっか。」

「うん。」


チミナはソファから立ち上がり、自室へ向かおうと廊下へ出る。その背中を追うように、チミカもぱたぱたと軽い足音を鳴らしながらついてきた。


「……。」

「……。」


部屋の前まで来たところで、チミナは静かに振り返る。


「なんでついてくるの。」

「今日は一緒に寝るから。」

「聞いてない。」

「今言った。」

「却下。」

「えーーー。」


チミカは両手を合わせてチミナに近づく。


「お願い!」

「やだ。」

「お願い!」

「やだ。」

「一日だけ!」

「三日遅れて帰ってきた人が?」

「うっ……。」


胸に手を当てたまま小さく後ずさる。


「そこ突く?」

「突く。」

「ごめんなさい。」

「うん。」


 短いやり取りのあと、静かな時間が数秒流れる。チミカは観念したように肩を落とし、そのまま踵を返しかけた。


「……まぁ。」


小さな声が廊下へ落ちる。チミカが振り返る。


「一日だけなら。」


一拍遅れて意味を理解したらしい。目を見開いて、嬉しそうにしている。


「え。」

「だから、一日だけ。」

「ほんとに!?」

「うん。」

「チミナーーーー!!」


 勢いよく飛び付こうとした姉の額へ、そっと片手が添えられる。


「飛び付かない。」

「はい。」


返事だけは素直だった。

二人で部屋へ入る。ベッドは一人用だから広いとは言えない。それでもチミカはどこか嬉しそうに掛け布団を整え、自分の荷物を隅へ寄せる。


「懐かしいね。」

「なにが。」

「小さい頃、雷鳴るたびにチミナがお姉ちゃんの布団入ってきたじゃん。」

「入ってない。」

「入ってたって。」

「覚えてない。」

「私は覚えてる。」


 照明を少しだけ暗くする。部屋全体が柔らかな橙色に包まれ、カーテンの隙間からは月明かりが細く床へ伸びていた。

二人並んで布団へ入る。少し窮屈なはずなのに、不思議と違和感はなかった。


「狭い。」

「幸せ。」

「感想が違う。」

「会えなかった分補充してるから。」

「知らない。」


チミカは小さく笑い、そのまま天井を見上げる。


「明日か。」

「うん。」

「大丈夫。」


 その言葉は励ますようでも、言い聞かせるようでもなかった。ただ夜の静けさへ溶け込むように、穏やかに部屋へ落ちる。


「受かってても、受かってなくても、チミナは私の自慢の妹さんだから。」

「……うん。」


 カーテンが風に揺れる。窓の外では雲がゆっくりと月を隠し、部屋は少しだけ暗くなった。


「おやすみ。」

「おやすみ。」


返事が聞こえて間もなく、規則正しい寝息が隣から聞こえ始める。

その音を聞きながら目を閉じると、静かな夜だけがゆっくりと更けていった。

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