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第26話 紙片に残された名前

 藤崎絵里を乗せた救急車は、都心から外れた医療施設へ入った。


 正面玄関は使われなかった。


 地下搬入口の扉が閉じてから、救急車の現在位置と搬送記録が初めて登録される。


 施設名を知る者も限定された。


 搬送に関わった救急隊員三名。


 第6部隊。


 そして、受け入れを許可した白羽美月だけだった。


 伊吹透は処置室から離れた待機区画で、壁に埋め込まれた時計を見ていた。


 秒針はない。


 それでも、自分の手首には一秒ごとの残り時間がある。


《72時間事案》

《作戦期限まで 68:47:05》


 これは、伊吹の残刑時間ではない。


 第6部隊の正式運用が始まってから、隊員たちの残刑日数は任務中に自然減少しない。手首で減り続けているのは、《先生》が第6部隊へ突きつけた七十二時間の事件期限だった。


 偽装救急車を止めてから三十四分。


 藤崎絵里が一度だけ意識を戻し、伊吹の名を呼んでから、まだ何も分かっていない。


 鎮静薬の種類。


 連れ去った男の身元。


 絵里が握っていた紙。


 なぜ、自分の名前を知っていたのか。


 伊吹は何度も同じ順番で考え、そのたび最初へ戻った。


 向かいの壁にもたれていた真神アキラが、黙ったまま伊吹を見ている。


「何」


「別に」


「言いたいことがあるなら言って」


「言えば、落ち着くのか」


 伊吹は視線を逸らした。


 落ち着くはずがなかった。


 廊下の奥で扉が開く。


 黒瀬が処置区画から戻ってきた。


「呼吸は安定した。短時間作用の鎮静薬が出てる。量は多いが、今のところ後遺症の兆候はない」


 伊吹は立ち上がった。


「意識は」


「戻り始めている。ただし、まだ会わせない」


「分かってる」


「紙も開いていない。本人の所有物か、連れ去った側が持たせたものかを先に確認する」


「誰が確認するの」


「統括官だ」


 伊吹が顔を上げた時、地下搬入口側から複数の足音が近づいてきた。


 先頭にいたのは美月だった。


 管制室で着ていた上着のまま、片手に外部通信を切った端末を持っている。後ろには警備担当と医療記録官が続き、それぞれ別の封筒と記録媒体を運んでいた。


 黒瀬が美月の前へ出る。


「統括官。どうしてここへ」


「第6部隊の回線に異常があります。管制室から指示を送り続ける方が危険だと判断しました」


 美月は歩みを止めなかった。


「第6部隊の管制を、こちらへ移します」


「本部を離れて問題ないのか」


「本部は長官と副長官が指揮しています。私が離れても支障はありません」


「他の部隊は」


「副長官が各統括官へ指示を出しています。私の担当は第6部隊だけです」


 美月が端末を黒瀬へ見せる。


 通信機能は止められ、第6部隊に関わる三つの時刻だけが表示されていた。


 藤崎絵里の搬送時刻。


 副長官から第6部隊へ、久我秀明に関する警戒情報が共有された時刻。


 同じく、相馬冬樹に関する警戒情報が共有された時刻。


「途切れた報告だけで、第6部隊へ指示は出せません」


 美月は黒瀬を見た。


「以後、第6部隊の判断はここで行います」


 黒瀬は周囲の警備配置を確認した。


 反対するためではない。


 統括官がここにいることで増える危険と、得られる判断を測っている。


「ここまでの足は追われてないか」


「車両は二度変えました。管制室を出た記録も、私がここへ着いてから反映しています」


「護衛は」


「連れてきました。ただし、処置区画の内側へは入れません」


 美月は待機区画にいた全員を見た。


「黒瀬は第6部隊の状態を確認してください。灰原は偽装救急車の解析を続行。真神は拘束した男を監視。獅堂は再検査が終わるまで任務から外します」


 廊下の端にいた獅堂鉄平の表情が変わる。


「もう指は動く」


「動くことと、任務へ戻せることは別です」


「現場で止まったのは一度だけだ」


「一度でも止まったから外します」


 美月の声は強くなかった。


 だが、交渉の余地もなかった。


「次に止まるのが、誰かを支えている時かもしれません。検査結果が出るまでは戻しません」


 獅堂は何かを言いかけ、両腕の固定具を見た。


 黒瀬も命令を変えようとはしなかった。


「了解」


 獅堂が答える。


 美月は一度だけ頷き、伊吹へ視線を移した。


「伊吹は私と来てください」


「藤崎絵里に会うの?」


「まだ決めていません。先に、あなたがどこまで覚えているか確認します」


「統括官」


 黒瀬が呼び止めた。


「伊吹を見た瞬間、藤崎絵里がどうなるか分からない」


「分かっています。だから私が判断します」


 黒瀬は伊吹を見る。


「命令があるまで、自分から話すな」


「了解」


 美月は処置室とは反対側の小部屋へ入った。


 伊吹も後に続く。


     ◇


 机の上には、白百合ファンド事件の資料が置かれていた。


 電子記録ではない。


 美月が管制室から持ち出した、当時の捜査資料の複写だった。


 藤崎良子。


 被害額、二千八百万円。


 入金日は八年前の七月十八日。


 死亡日は、その十一日後。


 伊吹は椅子へ座らず、資料を見下ろした。


「覚えていますか」


「覚えてる」


 伊吹は資料へ視線を落としたまま答えた。


「藤崎良子さん。顧客番号はSF‐二一〇七。最初の入金が八百万円。その後、三回に分けて合計二千八百万円。最後に振り込んだのは、娘の進学用に残していた金だった」


 美月は資料を開き、伊吹の言葉と照合した。


 番号も、入金回数も一致している。


「本人と話しましたか」


「直接の担当じゃなかった。でも、返金を求めてきた電話の録音を聞いた」


「何と言っていましたか」


「娘が来月十歳になる。あの子のための金だから、元金だけでも返してほしい。返してくれたら警察には行かない。誰にも言わないって」


 八年前に録音された声を、伊吹は言い淀まずに再現した。


 騙した相手を、忘れたことはない。


 顔を見ていない者もいる。


 直接言葉を交わしていない者もいる。


 それでも、名前と奪った額、最後に残した言葉は全て覚えていた。


 忘れられなかったのではない。


 忘れることだけは、自分に許さなかった。


「その録音を聞いて、あなたは何をしましたか」


 伊吹の喉が詰まる。


「対応終了にした」


 美月の表情は変わらなかった。


「意味を説明してください」


「返金しない。以後の電話は担当につながない。接触が続くなら、家族へ投資のことを伝えると警告する」


「あなたが決めたのですか」


「会議にいた全員で決めた。でも、承認した中に僕もいた」


 部屋の空気が重くなる。


 伊吹は言い訳を探さなかった。


 今さら、自分一人の判断ではなかったと言っても意味がない。


 止められる位置にいた。


 声を聞いた。


 そのうえで、金を返さない側へ署名した。


「それなら、藤崎絵里さんがあなたの名前を知っていても不思議ではありません」


 美月が資料を閉じる。


「捜査記録には、白百合ファンド側の担当者名を本人へ伝えた形跡はありません。ただ、藤崎良子さんが別に調べていた可能性はあります」


「あの紙に、僕の名前が?」


「まだ開いていません」


「どうして」


「藤崎さんが握ったまま離さないからです」


 伊吹は顔を上げた。


「意識、戻ったんじゃないの」


「短い時間だけです。紙へ触れようとすると抵抗します。医療班は、無理に奪わない方がいいと判断しました」


「じゃあ、僕に何をさせるつもり?」


「今は、何もさせません。そのための確認です」


 美月は伊吹の正面に立った。


「謝るのか、許しを求めるのか、知っていることを全て話そうとするのか。藤崎さんを前にしたあなたが、何をするか分かりません」


「しない」


「今はそう言えます。ただ、本人を前にして同じとは限りません」


 伊吹は反論できなかった。


「藤崎さんを保護したのは、あなたを裁かせるためでも、証言を取るためでもありません。回復が先です。会わせるのは、本人が望んだ時だけです」


「統括官も同席するの?」


「同席します」


 迷いのない答えだった。


「黒瀬も同席します。どちらかが続けられないと判断した時点で、面会を終えます」


「了解」


 美月は扉へ向かった。


 開く直前、伊吹が呼び止める。


「統括官」


 美月が振り返る。


「もし、絵里が僕を拒んだら」


「会わせません」


「そうじゃなくて」


 伊吹は言葉を選んだ。


「僕がここにいること自体を拒んだら、第6部隊から外す?」


 美月はすぐには答えなかった。


「藤崎さんに、あなたの処遇を決めさせることはしません」


「でも――」


「被害者へ新しい責任を負わせないでください」


 伊吹の言葉が止まる。


「あなたを第6部隊に残すかどうかまで藤崎さんに決めさせれば、その結果まで藤崎さんに背負わせることになります。藤崎さんが決めるのは、あなたに会うか、何を話すか。それだけです」


 美月は扉を開いた。


「あなたの処遇は私が決めます。現場判断は黒瀬が行います。藤崎さんの役目ではありません」


 扉が閉じたあとも、その言葉だけが残った。


     ◇


 廊下へ出た美月を、黒瀬が待っていた。


「どうだった」


「藤崎良子さんの声も、被害額も、返金拒否に関わったことも覚えています」


「会わせるのか」


「藤崎さんが望めば会わせます」


 黒瀬は処置室の観察窓へ目を向けた。


「本人が判断できる状態か、医療班の確認が先だ」


「分かっています」


 美月は端末を開いた。


「その前に、副長官から共有された第2部隊と第4部隊の報告を確認します」


 第6部隊に必要な部分だけが表示される。


「久我秀明は、横浜拘置支所にいませんでした」


「移送されたのか」


「今日の十七時十二分。上級審の追加審理に伴う身柄移送として、外へ出されています。ただし、裁判所にも移送先とされた拘置施設にも記録がありません」


「偽造命令か」


「支所側が受け取った文書は本物です。発行元の電子記録だけが消えています」


 先生が拘置支所の中まで自由に動かしているわけではない。


 本物の手続きへ偽の目的を混ぜた。


 正規の人間が、正規の車両で、久我を外へ運び出した。


 気づいた時には、どの命令が最初に偽られたのかさえ分からない。


「第2部隊は、移送車の経路を追っています。次に第4部隊です」


 御影療養所の見取り図が表示された。


「閉鎖されていた建物に、最近まで人がいました。寝具、保存食、医療廃棄物。少なくとも三日前までは使われています」


「相馬冬樹は」


「見つかっていません。ただし、地下に新しく塞がれた区画があります。第4部隊が確認中です」


 三人の証言者。


 一人は救出。


 一人は移送中に行方不明。


 一人は八年前に閉鎖された施設から消えている。


 記録媒体が示した場所へ部隊を向かわせた時点で、すでに全員が動かされていた。


 黒瀬が言う。


「先生は、記録媒体を見つける時刻まで読んでいた」


「そこまでは断定できません」


「少なくとも、見つけた後に動いたんじゃない」


「はい」


 美月は三つの時刻を並べた。


 藤崎絵里を乗せた偽装救急車が動き始めたのは、第6部隊が記録媒体を解析する前。


 久我の移送は、さらにその前。


 相馬のいた痕跡は三日前に途切れている。


「私たちを見てから動いたのではありません。先に状況を作り、どれを見つけても追うしかないようにしています」


「その間に、本命を動かす」


「本命が三人の中にいるとも限りません」


 美月は端末を閉じた。


「第2部隊と第4部隊は任務を継続しています。私は第6部隊に残ります。藤崎さんの保護も続けます」


「この先も現場に残るつもりか」


「必要なら残ります」


「単独で動けば、統括官の位置を追われた時に第6部隊までつながる」


「管制室に戻っても、第6部隊の回線が漏れているなら同じです」


「なら、俺たちと動いてくれ」


 美月が黒瀬を見る。


「第6部隊の車両を臨時管制に使う。灰原が通信を分離する。俺が現場を見る。統括官は第6部隊だけを見てくれ」


「第6部隊だけで追うには、範囲が広すぎます」


「もう追うしかない」


 黒瀬の視線が、処置室へ向く。


「藤崎絵里は伊吹を知っていた。久我と相馬も白百合につながってる。もう一人助けて終わる話じゃない」


 美月は数秒考えた。


「分かりました。次の移動から、第6部隊の車両に乗ります」


「警護配置はこっちで決める」


「現場のことは任せます」


 それだけで役割は決まった。


 処置室の扉が開いた。


 医療班の一人が出てくる。


「藤崎絵里さんの意識が戻りました」


 美月と黒瀬が同時に振り返る。


「会話はできますか」


「短時間なら。ただ、かなり混乱しています」


「紙は」


「まだ握っています。伊吹透という人を連れてきてほしいと、繰り返しています」


 廊下の奥で待つ伊吹には、まだ聞こえていない。


 美月は観察窓から処置室を見た。


 ベッドの上で、絵里が身体を起こそうとしている。


 医療班に止められながらも、右手だけは胸元から離さない。


 その中に、折り畳まれた紙がある。


「本人へ確認します」


 美月は処置室へ入った。


     ◇


 藤崎絵里は、近づく足音に肩を震わせた。


 美月はベッドから二歩離れた場所で止まる。


「白羽美月です。あなたを保護した第6部隊の統括官です」


 絵里の視線が、美月の顔から扉へ動く。


「伊吹透は」


「ここにいます。ただし、あなたが本当に会いたいのか確認するまで入れません」


「会いたい」


 声は掠れていた。


「会いたい理由を、聞いてもいいですか」


 絵里は握っていた紙を胸元へ寄せた。


「お母さんが、残したから」


「その紙ですか」


 絵里が頷く。


「見せてもらえますか」


 指が強く閉じる。


「取らないで」


「取りません。あなたが持ったままで構いません」


 美月はそれ以上近づかなかった。


 絵里は美月の手元を見た。


 武器も端末も持っていないことを確かめるように、何度も視線を動かす。


「伊吹透は、死刑囚なんですか」


 美月は答える前に、医療班へ目を向けた。


 会話を続けられる状態か確認し、許可を得る。


「そうです」


「白百合ファンドにいた?」


「いました」


「お母さんのお金を取った?」


「組織の中で、返金しない判断に関わっていました」


 隠さなかった。


 伊吹を守るために事実を薄めれば、絵里はもう誰の言葉も信じなくなる。


 絵里の目に涙は浮かばなかった。


 代わりに、呼吸が少しずつ速くなる。


「それでも、会いますか」


「会う」


「無理に話す必要はありません。顔を見てやめても構いません。途中で出ていってほしくなったら、私が止めます」


「逃げないようにして」


 美月の表情がわずかに変わる。


「伊吹を、ですか」


「違う」


 絵里は首を振った。


「私が、逃げないように」


 その言葉に、美月はすぐ答えられなかった。


 八年間、母親が残した名前を握ってきた。


 会えば何を聞くのか。


 何を言えばいいのか。


 その日を想像し続けたとしても、実際に扉の向こうへ本人がいる恐怖は別のものだった。


「逃げても構いません」


 美月は言った。


「今、会わなくても構いません。今日会えなくても、それはあなたのせいではありません」


 絵里が初めて、美月の目をまっすぐ見た。


「でも、あの人はもうすぐ死ぬんでしょ」


 美月の呼吸が止まる。


 伊吹のLAST DAYを、絵里が知っている。


 その情報は、母親が八年前に残せるものではない。


「誰から聞いたのですか」


 絵里の視線が揺れた。


「救急車に乗せた人」


「何と言われましたか」


「伊吹透に会えるって。会って、紙を渡せって」


「そのためについていったのですか」


「違う。部屋に入ってきた。起きた時には車の中だった」


 絵里は胸元の紙を見る。


「でも、この紙のことを知ってた」


「中身も知っていたのですか」


「分からない」


「開いたことはありますか」


「ない。お母さんに、伊吹透へ会うまで開けるなって言われたから」


 八年前に書かれた名前。


 三日前に消えた相馬冬樹。


 今日、正規の手続きで連れ出された久我秀明。


 そして、伊吹の残り時間まで知っている何者か。


 別々に見えた情報が、紙一枚へ集まり始めていた。


 美月は扉の外にいる黒瀬へ合図を送った。


「伊吹を連れてきます。黒瀬と私も残ります。それでいいですか」


 絵里は答えず、紙を握り直した。


 やがて、小さく頷く。


 美月は処置室の扉を開いた。


 廊下の奥で、伊吹が立ち上がる。


 黒瀬がその隣へ移動した。


「統括官」


「藤崎さん本人が、会うことを望んでいます」


 美月は伊吹を見る。


「入る前に、一つだけ約束してください」


「何?」


「聞かれたことにだけ答えてください。許しを求めない。自分から触れない。私か黒瀬が止めたら、すぐに部屋を出てください」


「了解」


「それから」


 美月は閉じかけた扉を押さえた。


「藤崎さんは、あなたのLAST DAYを知っています」


 伊吹の顔から血の気が引く。


「どうして」


「連れ去った側から聞かされています。ただし、紙にあなたの名前を書いたのは藤崎良子さんです」


 扉の向こうで、絵里が待っている。


 伊吹は自分の手首を見た。


《72時間事案》

《作戦期限まで 68:31:19》


 残された時間を隠すことは、もうできない。


 母親の死を知らなかったとは言えない。


 自分が直接奪ったのではないとも言えない。


 言えるのは、八年前に自分が何を選んだかだけだった。


 黒瀬が先に処置室へ入る。


 美月が続き、伊吹の前で一度立ち止まった。


「ここからは、私が同席します」


 励ます言葉ではなかった。


 伊吹を守るという意味でもない。


 絵里が傷つけられないように。


 伊吹が逃げないように。


 起きることの全てを、自分の判断として引き受ける者の言葉だった。


 伊吹は頷き、処置室へ入った。


 ベッドの上で、藤崎絵里が顔を上げる。


 二人の視線が初めて重なった。


 絵里の右手には、八年前から開かれていない紙がある。


「あなたが、伊吹透?」


「うん。僕が伊吹透だよ」


 絵里はしばらく伊吹を見た。


 怒りも、恐怖も、確かめるような目の奥に押し込められている。


「お母さんの声を、覚えてる?」


「覚えてる」


 伊吹は逃げずに答えた。


「返してほしいって言ってた。来月十歳になる娘のために残したお金だから、元金だけでも返してほしいって」


 絵里の指が止まる。


 伊吹は続けなかった。


 覚えていることを並べても、償いにはならない。


 あの声を聞きながら返金を拒んだ事実は、何一つ変わらない。


 絵里は伊吹の顔を見たまま、紙の端へ指をかけた。


「じゃあ、これを読んで」


 八年間閉じられていた折り目が、ゆっくりと開き始めた。


     ◇


 紙は、何度も開かれた跡ではなく、長く握り締められた跡だけを残していた。


 折り目の内側に、短い文章がある。


 伊吹は、声に出して読まなかった。


 最初に読むべきなのは、自分ではないと思った。


 だが絵里は、開いた紙を見下ろしたまま動かなかった。


「読んで」


 もう一度、同じ言葉を口にする。


 伊吹は美月を見る。


 美月は絵里へ確認した。


「伊吹に、声に出して読ませてもいいのですね」


 絵里が頷く。


 伊吹は、紙に書かれた文字を追った。


「絵里へ」


 最初の二文字で、声が止まりそうになる。


 それでも続けた。


「あなたが悪かったことは、一つもありません」


 絵里の指が、シーツを掴んだ。


「お母さんが選んだことも、これから起きることも、あなたが代わりに背負う必要はありません」


 一行だけ空いている。


「許したくない人を、許さなくていい」


 伊吹はそこで一度、息を吸った。


「伊吹透という人に会えたら、この紙の裏を見せてください」


 文章は、そこで終わっていた。


 絵里は泣かなかった。


「お母さん、自分が死ぬって分かってたの」


 伊吹は答えを探さなかった。


「分からない」


「知ってたんじゃないの」


「僕には、分からない」


 知っているふりをすることはできた。


 藤崎良子が追い詰められていたこと。白百合ファンドに返金を拒まれ、娘へ投資の事実を伝えると脅されていたこと。


 それらを並べれば、もっともらしい答えは作れる。


 だが、それは絵里の母親の最期を、また自分たちの都合で決めることになる。


「じゃあ、どうしてあなたの名前を書いたの」


「たぶん、僕が白百合で顧客記録を扱ってたと知ったからだ」


「たぶん?」


「本当の理由は、お母さんにしか分からない」


 絵里は伊吹を睨んだ。


「謝らないの」


 伊吹の喉が狭くなる。


「謝りたい」


 逃げずに答えた。


「でも、今ここで謝ったら、僕が言いたいことを言って楽になるだけだ。あなたが聞きたいことには全部答える。出ていけと言われたら出ていく。でも、許してほしいとは言わない」


「私は、許さない」


「うん」


「これからも」


「それでいい」


 絵里はしばらく伊吹を見ていた。


 やがて紙を裏返す。


 裏側には、二つの文字列だけが残されていた。


《SF-2107》


《4-B》


 伊吹の表情が変わった。


 黒瀬がそれを見逃さない。


「知っているのか」


「SF‐二一〇七は、藤崎良子さんの顧客番号だ」


「《4-B》は」


 伊吹はすぐに答えなかった。


 八年前、白百合ファンドの内部画面で見た記号。


 返金を求めてきた被害者の一覧。その氏名や入金額の隣に、意味を知らされないまま付けられていた分類。


「返金審査じゃない」


 伊吹の声が低くなる。


「僕たちは、そう説明されてた。でも違う」


 美月が問う。


「何を分類していたのですか」


「人が、どの言葉で動くか」


 伊吹は紙から目を離せなかった。


「再送金するか。黙るか。誰にも相談できなくなるか。自分を責めて、外へ助けを求めなくなるか」


 絵里の母親は、単に金を奪われたのではない。


 助けを求めた後の反応まで記録されていた。


「四は、家族や職場みたいに、本人以外を材料にされた対象。Bは、危機を同時に見せて、何を選び、何を捨てるかを見る区分だ」


 美月が外部通信を切った端末を取り出し、灰原へ閉鎖回線をつないだ。


「灰原。先生が送ってきた四十八地点の元データを確認してください。《4-B》と一致する識別情報はありますか」


 数秒後、灰原の声が返る。


『ある。全地点の座標データに同じタグが入ってる。意味が分からなくて保留にしてた』


 黒瀬の目が鋭くなる。


「四十八地点全部が、《4-B》の対象か」


「違う。紙の《4-B》は、藤崎良子さんに付けられた分類だ。でも、四十八地点のタグは、同じやり方を僕たちに使うって意味だ」


 黒瀬が重ねる。


「四十八地点は」


 伊吹は顔を上げた。


「選ばせるための材料だ」


「対象は」


「僕たちだ」


 伊吹は画面に並ぶ地名を見た。


「全部を攻撃する必要はない。本当に壊す場所を混ぜて、僕たちに選ばせる。誰を助けて、誰を捨てるか」


 誰を助けるか。


 どこを捨てるか。


 救助に向かった部隊が、どの情報を信じ、どの犠牲を受け入れるか。


 四十八地点で観測されているのは、狙われた人々だけではない。


 選択を迫られる第6部隊も、観測対象だった。


「実際に攻撃される場所は、いくつですか」


「白百合の手順が変わってなければ、三つ」


「断定できますか」


「断定はできない。でも、四十八全部を同じ危険度で追うより、調べるべきものがある」


「何を見ればいい」


 黒瀬の問いに、伊吹は答えた。


「金だ。脅すだけの場所には、情報しか要らない。本当に壊す場所には、装置と人間と侵入経路が要る」


 閉鎖回線の向こうで、灰原がすぐに応じた。


『もう始めてる。四十八地点と、白百合から消えた資金を照合する。偽装救急車の部品も重ねる』


 灰原の返答は短かった。


 端末上で、四十八の地点が並ぶ。


 一つずつ、過去三か月以内の不審な物品購入、保守担当者の身分偽装、設備図面への接触記録が重ねられていく。


 四十五地点には、個人情報と脅迫材料しかなかった。


 残る三地点だけに、物が動いている。


 非常電源制御基板。


 交通信号中継器の複製認証鍵。


 危険物区画へ持ち込まれた、出所不明の遠隔発火装置。


 灰原が三件を画面へ固定した。


《実行地点候補:03》


《城南小児医療センター》


《首都環状線・青海海底トンネル》


《湾岸第七码頭・危険物保管区》


 美月が時刻を確認する。


《72時間事案》


《作戦期限まで 68:24:12》


 まだ六十八時間あるのではない。


 三つの場所では、すでに準備が始まっている。


 絵里が、紙を握ったまま尋ねた。


「これで、誰か助かるの」


 伊吹は、簡単に約束していい言葉ではないと知っていた。


 それでも、今だけは視線を逸らさなかった。


「助ける」


「あなたが?」


「僕一人じゃない」


 伊吹は、黒瀬と美月を見た。


「第6部隊で助ける」


 絵里は伊吹を許さなかった。


 母親を奪った罪も、二千八百万円を返さなかった判断も、何一つ消えていない。


 それでも、紙から手を離した。


 美月が証拠袋を差し出す。


 絵里自身の手で、八年間閉じられていた紙がその中へ入れられた。


 許しではない。


 罪を軽くするための証言でもない。


 次に奪われるはずだった命へつながる、一本の経路だった。


 黒瀬が処置室の扉を開く。


「統括官」


 美月は三地点を見た。


「第6部隊を、七十二時間事案の実行阻止へ移行します」


「了解」


 黒瀬が伊吹へ視線を向ける。


「行けるか」


 伊吹は、絵里に答えを求めなかった。


 許されていないから残るのか。


 許されなかったから死ぬべきなのか。


 その判断を、被害者へ押しつけることはもうしない。


「行ける」


 第6部隊《リコード》が動き出す。


 四十八の名前から、三つの実行地点へ。


 誰を見捨てるか選ばされる前に、全てを救う道を探すために。

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