第25話 救命を装う者
美月が示した分岐まで、残り四分。
装甲救命車両は、夕方の車列を縫うように東へ進んでいた。
赤色灯も、サイレンも使っていない。
偽装救急車がこちらの動きを把握している可能性を捨てきれない以上、接近を知らせるものは一つでも減らす必要があった。
灰原ナギは紙の地図へ二本の経路を書き込み、車載端末に届く道路映像だけを切り替えていた。
「一つ目は片側一車線。先に踏切がある。二つ目は物流倉庫の間を抜けて環状線に出る」
「救急車のままなら、どっちを使う」
黒瀬の問いに、灰原はすぐには答えなかった。
「目立たず逃げるなら二つ目。でも、先生がこっちの追跡を読んでるなら一つ目を選ぶ」
「理由は」
「踏切の先で道が三方向に分かれる。列車が通れば、後ろだけ止められる」
車内回線から、美月の声が入った。
『今、物流倉庫側の映像を確認した。該当車両は映ってない』
「見落としは」
『大型車の陰に入った可能性まで確認した。少なくとも、分岐を通過した形跡はない』
残るのは一つ目。
踏切へ向かう細い道だった。
灰原が地図へ指を置く。
「この先に、高架工事で幅が狭くなってる区間がある。大型車同士はすれ違えない」
黒瀬が運転席へ指示を出した。
「踏切の手前へ回れ。追いついても接触するな」
車両が左へ傾く。
最後列で、伊吹透は何も言わず前方を見ていた。
藤崎絵里が乗せられている。
その事実だけが、閉ざされた車内で何度も繰り返される。
十七歳。
母親を失った時は九歳。
母親の金を奪った組織に、自分がいた。
直接会っていない。勧誘したのも自分ではない。
そんな区別に意味があるのは、責任から逃げる側だけだった。
伊吹のWRISTに数字が浮かぶ。
《69:34:11》
残り時間を閉じようとした時、前方の真神アキラが振り返った。
「忘れるな。おまえは待機だ」
「分かってる」
「分かってる顔じゃねえ」
「今、僕が出れば邪魔になる。それくらいは分かってる」
真神は伊吹を見たまま、右手の保護材を締め直した。
「だったら、生きてるかどうかも分からねえうちから、自分の罪を数えるな」
伊吹は答えなかった。
真神も、それ以上は言わなかった。
前方の画面が切り替わる。
踏切から二百メートル手前の固定カメラ。
片側一車線の道路を、白い救急車が走っていた。
赤色灯は消えている。
一般車両と同じ速度で、何事もなかったように車列へ紛れていた。
『見つけた』
美月の声がわずかに強くなる。
『現在、踏切の西百八十メートル。第6部隊との距離は一・四キロ』
「中の様子は見えるか」
『後部は遮光されてる。運転席は一人。助手席には誰もいない』
「救急隊員が一人で搬送していることになるな」
『少なくとも前には一人しかいない』
黒瀬は道路状況を確認した。
偽装救急車の前には乗用車が三台。
後ろには配送車と路線バス。
ここで強引に止めれば、絵里だけでなく周囲の車両まで巻き込む。
「踏切は」
『一分二十秒後に警報が鳴る。遮断時間は推定五十二秒』
追いつくより先に、遮断機が下りる。
偽装救急車が踏切を越えれば、こちらだけが止められる。
伊吹にも、灰原が言った意味が分かった。
偶然ではない。
車両を動かした時刻も、通る経路も、列車の時間まで組み込まれている。
先生は第6部隊の位置を直接見ているわけではない。
追跡するならどこを通るか、どれだけ時間がかかるかを先に計算している。
美月が言った。
『踏切の東側から、別の救急車が近づいてる』
灰原の手が止まる。
「本物か」
『車両番号は登録と一致。乗員も三名。別件搬送を終えて署へ戻る途中』
黒瀬が前方画面を見た。
「その車両へ直接つなげるか」
『できる。でも、目的を伝えれば記録が残る』
「構わない。人命に関わる緊急停止だけ要請しろ。相手の車両には近づかせるな」
数秒後、東側から来た本物の救急車が減速した。
踏切を越えた先、工事用の仮設柵で狭くなった区間。その中央へ、斜めに車体を止める。
道幅は塞がれた。
偽装救急車からは、まだ見えない。
直後、踏切の警報が鳴り始めた。
前を走っていた三台が順に線路を越える。
偽装救急車も速度を落とさない。
最後の一台が通過した直後、遮断機が下り始めた。
白い車体は反対車線へはみ出し、降りかけた遮断棒の下へ突っ込んだ。
屋根に棒が当たり、赤い破片が宙へ飛ぶ。
偽装救急車は踏切を抜けた。
だが、その先には本物の救急車が道を塞いでいる。
ブレーキランプが点灯した。
車体が大きく揺れ、工事用の柵へ接触する。
完全には止まらなかった。
偽装救急車は左側の歩道へ前輪を乗り上げ、本物の救急車と建物の隙間へ無理に入り込もうとした。
『黒瀬、止まらない』
「見えている」
踏切が、第6部隊の直前で閉じた。
警報音。
線路を列車が横切る。
隔てられた向こう側で、白い車体がゆっくりと本物の救急車を押していた。
黒瀬は後部扉へ向かう。
「灰原、車内から搬送対象を確認。真神は俺と来い。獅堂はここで待機」
「俺も動ける」
獅堂鉄平が立ち上がった。
「両腕へ衝撃を受けたら後退する条件だ。あの車両をこじ開ける役には出せない」
「なら足は使える」
「逃げた人間がいた場合だけ追え。車体には触るな」
獅堂は一度だけ固定具を見て、頷いた。
「伊吹は残れ」
黒瀬は確認するように言った。
「命令を変えるまで、外へ出るな」
「了解」
後部扉が開く。
黒瀬、真神、灰原、獅堂が車外へ降りた。
伊吹だけが残された。
列車が通過し、遮断機が上がり始める。
第6部隊の車両はすぐに踏切を越え、二台の救急車から距離を取って止まった。
偽装救急車の運転手が、ようやく後退へ切り替える。
逃げるつもりだった。
獅堂が走る。
運転席側へ回り込むより早く、扉が開いた。
灰色の救急服を着た男が飛び降りる。
帽子とマスクで顔を隠し、右手には小さな金属製の筒を握っていた。
男は獅堂を見なかった。
開いた運転席から後部へ手を伸ばし、仕切り扉の脇へ筒を押し込もうとした。
「後ろへ入れるな!」
黒瀬の声が飛ぶ。
獅堂が男の右腕を蹴り上げた。
金属筒が路上へ落ちる。
男は体勢を崩しながらも逃げず、今度は腰のポケットへ手を入れた。
獅堂が踏み込む。
だが、掴む直前に両腕の動きが止まった。
固定具の下で筋肉が引きつり、指が閉じない。
東央医療センターで受けた損傷が消えたわけではない。
男がそれに気づき、獅堂の胸元を突き飛ばす。
獅堂の身体が車体へ当たりかけた。
その肩を真神が引く。
同時に、黒瀬が男の進路へ入った。
腰のポケットから抜かれたのは、注射器だった。
黒瀬は手首を外へ払い、肘を折り曲げる。
注射器が落ちる。
男は反対の手で黒瀬の喉を狙ったが、真神が背後から肩を押さえ、路面へ伏せさせた。
「動くな」
真神が右手を使わず、膝と左腕だけで男を固定する。
黒瀬は落ちた注射器と金属筒を蹴って遠ざけた。
「獅堂、下がれ」
「まだ――」
「条件を超えた。下がれ」
獅堂は動かない両手を見た。
歯を食いしばり、車体から離れる。
灰原はすでに偽装救急車の後部へ回っていた。
扉には外側から鍵がかかっている。
窓は黒いフィルムで覆われ、中は見えない。
「車内から反応がある」
灰原が携帯型の探査器を扉へ当てる。
「一人。脈拍は速い。呼吸はある」
「開けられるか」
「鍵だけなら。でも、扉に配線が入ってる」
黒瀬は運転手を押さえたままの真神を見る。
「後部の仕掛けを解除できるか聞け」
真神が男の肩へ力を加える。
「扉を開けたら何が起きる」
男は答えなかった。
「中には十七歳の子がいる。おまえが運んだんだろ」
男の呼吸だけが荒くなる。
黒瀬は男の救急服を確認した。
所属章は印刷。
名札はなく、襟元にも識別番号がない。
正規の救急隊員ではない。
だが、ただ雇われただけの人間にも見えなかった。
逃げるより先に、後部へ金属筒を入れようとした。
藤崎絵里を運ぶことより、追いつかれた時に何をするかまで命じられている。
灰原が配線を追う。
「扉の接点から車内へつながってる。開閉を検知するだけじゃない」
「起爆装置か」
「火薬の反応はない。ただ、酸素ボンベが一本積まれてる」
救急車の中に酸素ボンベがあること自体は不自然ではない。
だが、東央医療センターで先生が使った方法を、誰も忘れていなかった。
高濃度酸素。
わずかな火花。
閉ざされた空間。
灰原は探査器の表示を切り替えた。
「ボンベの弁は閉じてる。車内酸素濃度も正常。ただし、扉を開けた時に弁へ電流が流れるようになってる」
「開ければ酸素が出る?」
「それだけじゃない。別の線が担架の下へ入ってる」
灰原は車体の下へ伏せ、床面を確認した。
「発熱線。量は少ないけど、酸素が回れば燃える」
追いつかれた時だけ、救急車は棺へ変わる。
扉を開けるのは救助する側だ。
助けようとした行為そのものが、藤崎絵里を殺す引き金になる。
伊吹は車内の画面越しに、その会話を聞いていた。
今すぐ外へ出たい衝動が、何度も身体を押した。
それでも、座席から立たなかった。
自分ができることと、したいことは違う。
黒瀬が命じたのは、待つことだった。
灰原は床下の配線を見たまま言う。
「電源を落としても駄目。独立した電池がある。車体の下から切るには時間がかかる」
「中の容体は」
「脈拍百三十二。呼吸数は落ちてきてる。薬を入れられてる可能性が高い」
時間をかければ安全に開けられる。
だが、その間に絵里の呼吸が止まるかもしれない。
美月が回線越しに言った。
『扉の検知方式を見せて』
灰原が小型カメラを配線へ向ける。
『磁気式の接点に見える。扉が車体から離れた瞬間に切り替わる』
「そう。接点を閉じたまま固定できれば、扉だけ開けられる」
『固定したことを別の回路が拾う可能性は?』
「そこまで入ってるかは分からない」
『運転手が最初に落とした金属筒を確認して』
黒瀬が路上の筒へ視線を向ける。
透明な保護袋に入れ、灰原の近くへ運んだ。
灰原は外側から観察した。
「磁石が入ってる」
『解除具だと思う。追いつかれた時、あの男はそれを後部へ差し込もうとした』
「殺すためじゃないのか」
『殺すだけなら、運転席から作動させればいい。わざわざ車外へ出て後部へ入れようとしたのは、扉を開けずに接点を切り替える必要があったからだと思う』
灰原は金属筒の形と、扉脇の隙間を見比べた。
「一致する」
「使えるか」
「使える。でも、正しい向きが分からない」
裏表を誤れば、その瞬間に回路が切り替わる可能性がある。
真神が男の顔を路面から上げさせた。
「向きを言え」
男は口を閉ざしたままだった。
黒瀬がしゃがみ込み、男の視線に入る。
「黙っていれば、自分だけは助かると思っているのか」
男の目が、初めて黒瀬を見た。
「助かる?」
掠れた声だった。
「最初から、そんな話はされていない」
男は笑わなかった。
諦めたようにも見えなかった。
ただ、決められていたことを確認するように言った。
「あの子が生きて着けば、それで終わるはずだった」
「どこへ運ぶ予定だった」
「知らない」
「誰の指示だ」
「知らない」
「その筒の向きは」
男の目が、地面に置かれた金属筒へ動いた。
それだけで十分だった。
灰原が向きを変えるたび、男の瞳がわずかに追う。
黒瀬は二度目で止めた。
「今の向きだ」
灰原も男の反応を見ていた。
「同意する」
筒を扉脇の隙間へ差し込む。
奥で、小さな金属音がした。
探査器の表示から一つの通電反応が消える。
「接点が固定された」
「他の回路は」
「変化なし」
灰原は扉の鍵を外した。
数センチだけ開く。
酸素弁は動かない。
発熱線にも電流は流れなかった。
扉をさらに開く。
薄暗い車内に、担架が一台固定されていた。
藤崎絵里は、白いシーツの上で目を閉じていた。
制服ではない。
灰色のスウェットと紺色のズボン。片方の靴が脱げ、足首には擦れた跡がある。
口元に酸素マスクが当てられているが、チューブは途中で切られていた。
左腕には点滴針。
吊り下げられた透明な袋には、薬剤名が書かれていない。
灰原が先に車内へ入り、呼吸と瞳孔を確認する。
「生きてる。鎮静薬が入ってる可能性がある。点滴を止める」
ラインを閉じ、携帯測定器を指へ装着する。
「酸素飽和度九十一。呼吸が浅い」
外で待機していた本物の救急隊員へ、黒瀬が合図を送った。
だが、灰原は担架の固定を外そうとして手を止めた。
「待って」
絵里の右手が、シーツの下で何かを握っていた。
指の間から、細い黒い紐が見える。
灰原が手を開こうとすると、意識のないはずの絵里がわずかに抵抗した。
「藤崎絵里。聞こえる?」
返事はない。
それでも、握った手だけは離さない。
灰原は無理に開かず、手ごとシーツの上へ出した。
黒い紐の先に、小さな透明の袋が結びつけられている。
中に入っていたのは、折り畳まれた紙だった。
「今は触らない」
証拠かもしれない。
先生が持たせた罠かもしれない。
灰原は手を保護材で覆い、絵里を担架ごと車外へ運び出した。
本物の救急隊員が呼吸管理を引き継ぐ。
点滴袋も、切断したラインも、全てそのまま回収された。
「搬送先は」
救急隊員が黒瀬に聞く。
「通常の受入照会を使わず、この場で指定する。通信は切ったまま待ってくれ」
黒瀬は美月へ安全な受入先の選定を求めた。
先生が正規の連携情報を拾っているなら、搬送先を登録した瞬間に次の手が動く。
絵里を救急車から出しただけでは、保護したことにはならない。
真神が男を拘束し直す。
「こいつはどうする」
「別車両で収容する。藤崎絵里とは同じ経路を使わせない」
獅堂は少し離れた場所で、まだ動きの戻らない両手を見ていた。
黒瀬は近づいた。
「痛みは」
「ない。それが一番まずいのも分かってる」
「戻ったら再検査だ」
「次は残れって言うんだろ」
「検査結果次第だ」
獅堂は悔しさを隠さなかった。
だが、勝手に偽装救急車へ戻ろうとはしなかった。
それを確認し、黒瀬は装甲救命車両へ向かった。
◇
伊吹は、開いた後部扉の前に立つ黒瀬を見た。
「救出できた?」
「生きている。鎮静薬を入れられていた可能性がある」
胸の奥に張りついていたものが、一度だけ緩んだ。
だが、安心できる状態ではない。
伊吹は外へ出ようとせず、座席に残ったまま聞いた。
「僕が必要なものはあった?」
「今のところはない」
「分かった」
黒瀬はすぐに扉を閉めなかった。
「命令を守ったな」
伊吹は顔を上げた。
「当たり前だよ」
「今のおまえには、当たり前じゃないと思っていた」
否定できなかった。
母親を死なせた側の人間が、娘の救助に何もせず座っている。
そう考えれば、待機は逃げていることと同じに思えた。
だが、外へ出れば救助を乱した。
自分の後悔を優先しなかったことだけが、今できた唯一の行動だった。
「藤崎絵里は、何か持っていた」
黒瀬が続ける。
「紙を握っている。意識が戻ってから、本人の前で確認する」
「先生に持たされたものかもしれない」
「その可能性もある」
「僕の名前が書かれてる可能性も?」
「ある」
黒瀬は曖昧にしなかった。
「それでも、勝手に会わせることはしない。本人が拒めば、おまえは近づけない」
「分かってる」
今度の返事に迷いはなかった。
遠くで、本物の救急車の扉が閉まる。
搬送先はまだ車載記録へ登録されていない。
美月から指定された医療施設名が、紙だけで救急隊員へ渡される。
偽装救急車とは別方向へ、白い車両が動き出した。
その直後だった。
黒瀬の携帯端末に、灰原から音声だけの連絡が入る。
『藤崎絵里の意識が、一瞬戻った』
「状態は」
『また落ちた。呼吸は維持できてる。ただ、その前に名前を言った』
黒瀬は伊吹を見た。
その視線だけで、伊吹には分かった。
「誰の名前」
聞かなくてもいいことを、聞かずにはいられなかった。
回線の向こうで、灰原が答える。
『伊吹透』
車内から音が消えた。
伊吹のWRISTだけが、残り時間を刻んでいる。
《69:21:47》
顔を知らないはずの少女。
直接言葉を交わしたこともない。
それでも藤崎絵里は、意識を失う直前に伊吹の名を呼んだ。
母親を奪った組織の一人としてなのか。
助けを求める相手としてなのか。
それとも、先生から聞かされていたのか。
答えは、彼女が握り続ける紙の中にあるのかもしれない。
救急車はすでに、夕暮れの道の向こうへ消えていた。
伊吹は追いかけなかった。
次に藤崎絵里の前へ立つ時、決めるのは自分ではない。
そのことだけを、今度は忘れなかった。




