第22話 止まる病院
東央医療センターまで、通常なら二十分。
第6部隊の車両は、緊急走行でその半分を走っていた。
車内の作戦画面には、病院の立体図が浮かんでいる。
地上十四階、地下二階。病床数は四百二十六。入院患者は四百八名。当直を含めれば、百人を超える職員が建物の中にいる。
集中治療室。
新生児集中治療室。
手術室。
透析室。
酸素供給設備。
非常用電源。
病院には、止まれば死ぬものが多すぎた。
「主電源は落ちてない」
灰原ナギが、膝の上の端末を操作したまま言う。
「けど、非常用電源に切り替えられてる系統がある」
「主電源が生きているのにか」
黒瀬玲央の声は低い。
「うん。切替命令が院内の設備制御網に入ってる。停電じゃない。誰かが、止める場所を選んでる」
画面の中で、病院の一部が赤く染まった。
《十二階・西病棟》
《監視カメラ:停止》
《電子錠:閉鎖》
《ナースコール:通信不良》
《エレベーター:停止》
《非常階段防火扉:施錠》
《患者管理端末:一部遮断》
「十二階西病棟」
灰原が言った。
伊吹透の視線が、表示に張りつく。
「……沙羅のいる階だ」
通信に入っていた白羽美月が、資料を確認する。
『水城沙羅は十二階西病棟、特別個室一二〇七に入院中です』
獅堂鉄平が、画面を睨んだ。
「沙羅一人を閉じ込めるために、病棟ごとか」
『十二階西病棟には患者三十一名、職員六名。自力歩行が困難な患者は十九名です』
「酸素投与中は」
『確認中です』
黒瀬は伊吹を見る。
「水城沙羅について話せ」
伊吹は一度だけ息を吐いた。
「僕より三つ上。白百合ファンドにいた」
「お前を入れた人間か」
「そう」
伊吹は、窓の外へ目を向けた。
夜の街が、赤い回転灯に濡れて流れていく。
「沙羅は勧誘役だった。相手の欲しいものを探すんじゃない。何から逃げたいかを見つける」
「お前は何から逃げていた」
黒瀬は短く問うた。
伊吹は少し黙った。
「家」
それ以上は言わなかった。
「沙羅は組織の中で、お前より上だった」
「うん」
「先生と接触していた可能性は」
「高い」
伊吹は否定しない。
「ある日、消えた。先生に逆らったらしいって噂だけ残して」
「死んだと思った理由は」
「先生に逆らった人間は、戻らないから」
車内が静かになる。
伊吹は自分の手を見た。
「僕が知ってる限り、一人も」
灰原が画面を拡大した。
「もう一つある」
病院の地下二階が、濃い赤に変わる。
《地下二階・旧医療記録庫》
《使用電力:急増》
《登録設備:なし》
「旧記録庫?」
獅堂が眉を寄せた。
「病院を止めるための中継器か、設備に命令を送るための制御盤か。どっちにしても、外から全部を触ってるわけじゃない」
灰原は首を横に振った。
「侵入元は病院の中。誰かが、あそこへ物理的に機械を持ち込んでる」
黒瀬は画面を見たまま言う。
「優先を決める」
全員の視線が向く。
「第一、生命維持設備を守る」
「第二、患者の避難路を開ける」
「第三、水城沙羅を保護する」
伊吹が尋ねた。
「沙羅は三番?」
「今は」
黒瀬の返答に迷いはない。
「一人だけを追って、病院全体を落とすわけにはいかない」
伊吹は窓の外を見た。
東央医療センターの白い建物が、前方に見えてくる。
外見上、火も煙もない。
それでも、幾つもの階で照明が落ちていた。
「先生は、そこを見てる」
「何を」
「僕らが、誰を先に切り捨てるか」
黒瀬は答えなかった。
代わりに、車両の扉が開いた。
冷たい夜気と、救急車のサイレンが流れ込む。
「降りる」
正面玄関には、患者と職員が溢れていた。
消防車、警察車両、救急車。外来患者を誘導する職員の声。停電した区画から運び出された患者のベッドが、廊下からロビーへ並んでいる。
病院は壊れていない。
だが、内部では確実に、命を支える順番が崩れ始めていた。
WRISTに基本装備の承認が流れる。
《防弾防刃装備:承認》
《防煙マスク:携行》
《低出力スタンバトン:承認》
《通常拘束具:承認》
《小型偵察ドローン:承認》
《救助ワイヤー:承認》
《灰原ナギ:院内設備接続/限定承認》
《獅堂鉄平:救助用大型シールド/承認》
《真神アキラ:狭所進入装備/承認》
『表向きは警察特殊救助班として扱われます』
美月の声が通信に入る。
『病院職員への説明は最小限に。まず患者を守ってください』
四十代後半の男が、こちらへ駆け寄ってきた。
胸元の職員証には、施設管理部長・安西直人とある。
「救助班の方ですか」
「現場の責任者は」
「私です。安西と申します」
「状況を」
安西は汗を拭う暇もなく答えた。
「二十分ほど前、十二階西病棟の電子錠が一斉に閉まりました。直後に院内ネットワークの一部が切断され、非常用電源が勝手に稼働しています」
「発電機は」
「正常です。ただ、負荷配分だけが変えられている。使っていないはずの地下二階に、異常な電力が流れているんです」
「旧医療記録庫ですね」
灰原の言葉に、安西が目を見開く。
「なぜ分かるんですか」
「見えてるから」
灰原は入口脇の設備接続盤に端末を繋いだ。
「許可を」
『限定承認します』
美月が即答する。
『生命維持設備の保全を最優先にしてください』
端末の中で、複雑な配線図が立ち上がる。
灰原は数秒、黙って画面を追った。
「主電源は問題なし。非常用発電機も壊れてない」
「では、なぜ照明が」
「電気が消えてるんじゃない。地下二階へ吸われてる」
その直後、安西の端末が警告音を鳴らした。
《集中治療室・電圧低下》
《人工呼吸器系統:非常用電源へ移行》
獅堂の表情が変わる。
「俺が行く」
「獅堂、集中治療室。患者搬送が必要なら手を貸せ」
「分かった」
「灰原、電力を戻せ」
「今やってる」
「真神、十二階への経路確認」
「了解」
真神アキラが、無言で非常階段へ向かう。
「伊吹は俺と来い」
黒瀬は中央のエレベーターホールを指した。
「十二階への道を作る」
エレベーターはすべて停止していた。
表示灯も消え、非常階段の防火扉には赤い警告が浮かんでいる。
《アクセス拒否》
安西が職員カードをかざす。
反応はない。
「管理者権限まで弾かれている……」
「灰原」
黒瀬が通信を開く。
「中央階段を開けられるか」
『集中治療室の電力を戻してから』
「何秒」
『二十』
「十五でやれ」
『無茶言わないで』
「できるか」
灰原は一拍だけ黙った。
『やる』
病院の照明が、一度だけ瞬いた。
通信の向こうで、獅堂の声が響く。
『人工呼吸器、主電源復帰確認! 患者搬送は止める!』
『維持できるのは五分程度』
灰原の声は硬い。
『地下二階の装置が、また負荷を引っ張ろうとしてる』
非常階段のロックが外れた。
黒瀬が扉を押し開ける。
「真神、先行しろ」
「了解」
真神が階段を駆け上がる。
黒瀬と伊吹も続こうとした瞬間、院内の照明が一斉に落ちた。
非常灯だけが赤く点る。
次の瞬間、天井の非常通報スピーカーから雑音が流れた。
『第6部隊へ』
院内の誰もが、その声を聞いた。
患者も、職員も、ロビーにいる家族も。
灰原が即座に叫ぶ。
『私は触ってない! 放送系統は病院の制御から切り離されてる!』
ノイズの向こうで、加工された声が続く。
『東央医療センターでは、毎日、命の優先順位が決められている』
『誰を先に処置するか』
『誰に機械を回すか』
『誰が待つのか』
伊吹の足が止まる。
黒瀬は振り返らなかった。
『今夜も同じだ』
『集中治療室。十二階。地下二階』
『すべてを同時には守れない』
「起点は地下二階か」
黒瀬が問う。
『そう』
先生は、初めて短く答えた。
『あそこにあるのは、病院を壊すための機械ではない。病院に、何を見捨てるかを決めさせるための機械だ』
「くだらない」
黒瀬は階段を上り始める。
『くだらない?』
「患者に理由は関係ない」
『では、全員を救え』
声が消える。
同時に、灰原の端末に新しい警告が現れた。
《十二階西病棟》
《医療用酸素濃度:上昇》
《換気設備:停止》
《発火危険:高》
安西の顔から血の気が引いた。
「酸素配管が漏れている……?」
「病棟ごとの遮断弁は」
「十二階西病棟の配管室です。ただし、入口と反対側にある。病室から遠い」
『酸素投与中の患者は九名』
美月が告げる。
『病棟内の予備ボンベは六本です』
「三本足りない」
黒瀬が言う。
獅堂が通信に入った。
『集中治療室の予備を四本持てる』
「集中治療室は」
『主電源が戻った。専用の予備系統もある。四本なら出せる』
「持って十二階へ上がれ」
『了解』
『灰原ナギ、集中治療室の電力維持を継続してください』
美月の声に、灰原は短く答える。
『やる』
先生の声が、再び院内に流れる。
『酸素を止めれば、患者は苦しむ』
『止めなければ、火花一つで病棟が燃える』
『水城沙羅は、その中にいる』
「分かってる」
伊吹が呟いた。
『救う順番を選べ、伊吹透』
黒瀬が足を止めた。
「選ばない」
赤い非常灯の下で、黒瀬は天井のスピーカーを見上げる。
「必要なものを運ぶ。止めるものを止める。それだけだ」
『時間が足りない』
「足りるように動く」
先生は答えなかった。
十二階へ続く階段を、黒瀬と伊吹は駆け上がる。
七階。
八階。
九階。
息が上がる。
けれど、立ち止まる理由はなかった。
十二階の非常階段前では、真神が待っていた。
「西病棟内に人影」
「職員か」
「分からない」
扉の小窓の向こう。
赤い非常灯に照らされた廊下の奥に、白衣の人物が立っている。
右手には小型端末。
左手には銀色の筒。
動かない。
『十二階の職員六名のうち、五名は病室に避難しています』
美月が伝える。
『残る一名は、看護師長代理の柊木茉莉です』
安西が資料を送る。
《柊木茉莉》
《家族:長女一名》
《長女所在:私立青藍女子高等学校》
すぐに、作戦画面に別の表示が重なった。
《青藍女子高等学校》
《警戒対象四十八地点の一つ》
伊吹の表情が固まる。
「脅されてる」
『娘を助けたければ、病棟を閉じろ』
先生の声が流れる。
『水城沙羅を渡せ』
柊木の肩が震えた。
銀色の筒を握る手も震えている。
人を傷つけるために生まれた手には見えなかった。
だが、娘を守るためなら、人は何だってできる。
《発火危険予測 残り時間:06:38》
「伊吹」
黒瀬が言う。
「話せるか」
伊吹は小窓の向こうを見た。
以前の自分なら、すぐに答えを作った。
娘は助かる。
警察が保護した。
大丈夫だ。
まだ何ひとつ確認できていなくても、相手が欲しがる言葉を選んだ。
「警察の到着は」
『最短で七分』
美月の返答に、伊吹は一度だけ目を閉じた。
間に合わない。
少なくとも、今ここではそう言うしかない。
「分かってる」
伊吹は扉越しに声を張った。
「柊木さん!」
白衣の人物が、びくりと顔を上げる。
「来ないで!」
銀色の筒が持ち上がる。
灰原が鋭く言った。
『点火装置の可能性が高い。酸素濃度が上がってる。刺激しないで』
「娘さんのことは聞いてます」
伊吹は続けた。
「警察が学校へ向かっています」
「嘘よ!」
「まだ保護できたとは言えません」
柊木の顔が歪んだ。
黒瀬が伊吹を見る。
伊吹は止まらなかった。
「今、向かってる。それだけです」
「そんなの……何の安心にもならない!」
「分かってます」
「娘を助けて!」
「助けます」
伊吹は、言葉を選んだ。
「でも、助かったとはまだ言えません」
廊下に沈黙が落ちる。
先生の声も、すぐには割り込んでこなかった。
「先生は、何を約束したんですか」
伊吹は問う。
「水城沙羅を渡せば、娘さんを助けるって?」
柊木は泣きながら頷いた。
「約束を守る人だと思いますか」
「……」
「娘さんの写真を送って、あなたにこれを握らせて、患者を燃やさせようとしてる」
伊吹は銀色の筒を見た。
「それが、娘さんを助ける人のやり方ですか」
『伊吹透』
先生の声が低くなる。
伊吹は天井を見なかった。
「僕も同じことをしてきた」
柊木の目が揺れる。
「不安な人間に、大丈夫だって言って。家族を守りたい気持ちを使って。逃げ道がないと思わせて」
伊吹は扉へ手を置いた。
「だから分かる。先生は、娘さんを助けたいんじゃない」
「……」
「あなたに、人を見捨てさせたいだけだ」
先生の声が途切れた。
代わりに、階段の下から重い足音が近づく。
獅堂が、酸素ボンベを二本ずつ両手に抱えて現れた。
息を荒げながらも、四本すべてを運び切っている。
「四本だ!」
黒瀬が扉越しに言った。
「柊木さん。病棟の患者に予備ボンベを回す。九人、全員に足りる」
「本当に……?」
「職員がいないと切替が間に合わない」
黒瀬の声は強い。
「その筒を置け。看護師に戻れ」
柊木の唇が震える。
「私が止めたら、娘が」
「止めなくても、先生は娘を助けない」
黒瀬は一歩、扉へ近づいた。
「今ここで助けられる患者を見捨てるな」
白衣の胸元で、名札が揺れている。
看護師長代理。
脅される前から持っていた役割。
柊木は、ゆっくりと膝を曲げた。
銀色の筒を床に置く。
両手を上げた。
「……酸素投与中の患者は、三〇二、三〇五、三〇七、一二一二、一二一四……」
声が震えている。
それでも、患者の番号を間違えなかった。
「六本を先に西側へ。残りは私が振り分けます」
黒瀬が扉を開ける。
真神がすばやく筒を回収し、配線と起爆部を確認する。
「手動式。遠隔ではない」
「安全化できるか」
「できる」
「頼む」
黒瀬は柊木を見た。
「拘束は後だ。患者のところへ戻れ」
柊木は泣きながら頷いた。
病棟が動き出す。
看護師たちが病室の扉を開け、獅堂が運び込んだ酸素ボンベを受け取る。柊木が流量を指示し、一人ずつ中央配管から携帯ボンベへ切り替えていく。
黒瀬は真神へ向いた。
「配管室」
「了解」
「伊吹は一二〇七」
「沙羅のところへ行く」
「勝手に連れ出すな。状態を確認して、動かせるなら運べ」
「分かってる」
伊吹は走り出した。
特別個室一二〇七の電子錠は、まだ赤い。
「灰原、開けられるか」
『待って』
通信の向こうで、端末を叩く音がする。
『病院の制御に命令を出してるのは地下二階の装置。今、そこから十二階にだけ回線を伸ばしてる』
「開く?」
『開ける。三秒』
赤い表示が消える。
《特別個室一二〇七:解錠》
伊吹は扉を開けた。
病室は暗かった。
ベッド脇のモニターだけが、青白く患者の輪郭を照らしている。
窓際に、水城沙羅がいた。
痩せた肩。
短く切られた髪。
顔色は悪い。
けれど、目だけは昔のままだった。
伊吹を見るなり、沙羅は少しだけ口元を動かした。
「久しぶり」
掠れた声だった。
伊吹は、すぐに答えられなかった。
「……死んだと思ってた」
「勝手に殺さないで」
「ごめん」
「謝るなら、もっと早く来ればよかったのに」
棘のある言い方だった。
けれど、伊吹にはそれが救いに聞こえた。
怒る余力がある。
生きている。
「歩ける?」
「無理。数歩なら」
「車椅子を持ってくる」
「待って」
沙羅が伊吹を止める。
ベッド脇の引き出しから、小さく折りたたまれた紙片を取り出した。
「これを持って」
「何」
「橘修司にだけ渡して」
伊吹は紙を受け取る。
そこには短い数字列と、施設名、日時。そして、ひとつの名前が記されていた。
「橘さん?」
「先生は一人じゃない」
沙羅の声が低くなる。
「名前じゃなくて、役割。外で指示を出す人間、金を回す人間、記録を消す人間がいる」
「国家側の人間も?」
「いる」
伊吹は紙片を見る。
「橘さんは」
「まだ、先生の側じゃない。だから渡すなら直接」
「WRISTで送れば」
「駄目」
沙羅は首を振った。
「WRISTの中身が破られてるわけじゃない」
伊吹の表情が変わる。
「じゃあ」
「この病院に置かれた中継器が、近距離の通信と音声を拾ってる。先生は本部の管制を見てるんじゃない。ここで聞こえるものだけを、聞いてる」
その言葉を裏づけるように、天井の隅で小さな赤いランプが灯った。
病室の空調カバーに隠された、小型カメラ。
灰原の声が飛ぶ。
『伊吹、病室に未登録機器を確認! 地下二階からのローカル回線で繋がってる!』
院内放送が鳴った。
『余計なことを話したね、水城沙羅』
沙羅の顔から血の気が引く。
病室のモニターが、勝手に赤い画面へ切り替わった。
《室内酸素濃度:危険域》
《局所発火装置:起動》
「伊吹、出ろ!」
黒瀬の声が通信に響く。
『配管弁を閉じる。だが、残留酸素がある!』
「車椅子!」
伊吹が病室を飛び出す。
廊下に置かれていた車椅子を掴み、戻る。
沙羅を抱え起こそうとした瞬間、彼女が顔をしかめた。
「乱暴」
「今は我慢して」
「昔から、手加減を知らない」
「生きてから文句言って」
車椅子へ移し、伊吹は廊下へ飛び出した。
《発火装置起動まで 00:25》
一方、配管室。
黒瀬と真神の前には、大型の手動遮断弁があった。
弁の根元には、樹脂で覆われた固定具が噛ませてある。
「物理ロック」
真神が呟く。
「火花は出せない」
「救助用の絶縁カッターを使え」
黒瀬が指示する。
真神は腰の装備から、細い手動カッターを取り出した。
金属を叩き切るためのものではない。
固定具の留め具だけを断つための道具だ。
「切る」
一度。
二度。
鈍い音とともに、固定具が外れる。
「回せ」
黒瀬と真神が弁に体重をかける。
固い。
それでも、少しずつ回る。
『酸素圧、低下確認!』
灰原の声が叫ぶ。
『あと十秒で病棟への供給が遮断される!』
病室一二〇七の前。
《00:12》
伊吹が車椅子を押す。
廊下の段差に車輪が引っかかり、沙羅の体が大きく揺れた。
「っ……!」
「ごめん!」
「謝るなら、前見て!」
伊吹は歯を食いしばる。
廊下の先では、獅堂が大型シールドを立てて待っていた。
「こっちだ!」
黒瀬と真神が配管室から飛び出す。
真神が叫ぶ。
「弁、閉鎖完了!」
『残留酸素はまだ高い!』
灰原の声が重なる。
『病室から離れて!』
伊吹は車椅子を押し込む。
沙羅をシールドの後ろへ入れ、自分も覆いかぶさる。
獅堂がシールドを支える。
次の瞬間。
病室一二〇七の中で、短い破裂音がした。
白い閃光。
室内に残っていた高濃度酸素が、一瞬だけ炎を走らせる。
青白い火が扉の隙間から噴き出し、獅堂のシールドを叩いた。
「くっ……!」
獅堂の腕が沈む。
黒瀬が後ろから支え、真神が周囲の患者を壁際へ下げる。
炎は病室の外へ広がらなかった。
数秒後、スプリンクラーが作動する。
水が落ちる。
焦げた匂いと、消火設備の音。
『局所火災。延焼なし』
灰原の声が、少しだけ震えた。
『十二階西病棟の酸素系統、遮断完了。患者九名、携帯ボンベへの切替も確認』
獅堂がシールドを下ろす。
「全員いるか」
「いる」
黒瀬が答える。
「患者も無事です!」
柊木の声が病棟の奥から響く。
白衣は濡れ、顔には涙の跡が残っている。
それでも彼女は、患者の脈と酸素流量を確認して回っていた。
伊吹は車椅子の前にしゃがむ。
「大丈夫?」
沙羅は濡れた髪を額から払った。
「大丈夫に見える?」
「見えない」
「じゃあ聞かないで」
伊吹は少しだけ笑いかけて、やめた。
沙羅も笑わなかった。
ただ、伊吹の手の中にある紙片を見た。
「なくさないで」
「なくさない」
「橘以外に見せないで」
「分かった」
黒瀬が通信を開く。
「統括官。十二階西病棟、患者三十一名を全員確保。局所火災あり、延焼なし。水城沙羅を保護」
『了解です。消防を十二階へ上げます。避難を継続してください』
その時、院内放送が一度だけ鳴った。
先生の声は、もう先ほどまでのように病院全体を支配しているようには聞こえなかった。
遠い。
地下の暗い場所から、細い線を通して届いているだけだった。
『止められなかったね』
黒瀬は天井を見上げる。
「何を」
『病院は』
灰原の端末が警告を鳴らした。
《地下二階・旧医療記録庫》
《使用電力:病院全体の三十二パーセント》
《内部温度:上昇》
《不明装置:稼働中》
集中治療室、手術室、透析室。
複数の設備に、再び負荷警告が点いた。
「地下二階の装置が、電力を吸ってる」
灰原の声が硬くなる。
「遠隔じゃ止められない。現地で切るしかない」
黒瀬は伊吹を見る。
伊吹は、沙羅の車椅子の手すりを握っていた。
沙羅が、その手を軽く叩く。
「行って」
「でも」
「私は、今度は逃げない」
沙羅は柊木を見る。
柊木は患者の脇で、酸素ボンベを確かめている。
「ここには看護師がいる」
伊吹は一度だけ頷いた。
「戻る」
「期待してない」
「それ、言う?」
「言う」
沙羅の声には、まだ許しはなかった。
でも、拒絶もなかった。
黒瀬が背を向ける。
「地下二階へ行く」
獅堂は濡れたシールドを背負い直した。
真神は絶縁カッターをしまう。
灰原は設備制御を維持しながら、旧医療記録庫の図面を送った。
《地下二階・旧医療記録庫》
《登録設備:なし》
《内部温度:六十二度》
《不明通信:発信中》
『そこが、病院内の中継器と制御装置の起点です』
美月が告げる。
『先生はLAST DAYの中枢にいるわけではありません。ですが、あの装置を放置すれば、病院はまた止められます』
「分かってる」
黒瀬は階段へ向かう。
伊吹は、紙片を胸元へしまった。
橘修司。
国家側の協力者。
先生という役割。
知るべきことは増えた。
けれど、今は病院が先だった。
院内放送から、最後の声が落ちる。
『病院を止めるのは、電気ではない』
『誰かを見捨てる瞬間だ』
黒瀬は足を止めなかった。
「なら、止めさせない」
第6部隊は、病院の最も暗い場所へ向かった。
地下二階。
まだ止まりきっていない病院の底へ。




