第17話 全部覚えてる
灯油の匂いは、外で嗅いだ時よりも濃かった。
民間金融相談センター、一階受付。
床は黒く濡れている。
灯りは非常灯だけ。
赤い光が壁に滲み、散らばった書類と倒れた椅子を、血の色に変えていた。
伊吹透は、その中に立っていた。
外ではない。
規制線の後ろでもない。
黒瀬の隣でもない。
建物の中。
三枝蓮司の前。
二年前、自分が壊した家族の息子の前だった。
WRISTが震える。
《人質十三名:全員救出》
《民間人残存:なし》
《伊吹透:建物内》
《主犯:三枝蓮司》
《共犯者:一名》
《可燃物:残存》
《交渉継続》
その表示を見ても、伊吹は安堵できなかった。
人質は全員出た。
それは間違いなく救助だった。
けれど、終わりではない。
床には灯油。
蓮司の手には着火装置。
入口側には、若い共犯の男。
外には仲間たち。
そして伊吹は、もう外にはいない。
三枝蓮司が低く言った。
「閉めろ」
入口側にいた若い男が振り返る。
「蓮司さん」
「閉めろ」
若い男は迷った。
刃物を持つ手が震えている。
だが、蓮司の声には逆らえなかった。
入口の扉が閉まる。
外の赤色灯が細く遮られる。
伊吹の背中に、冷たい音が落ちた。
外との距離が、一枚分だけ遠くなる。
通信越しに黒瀬の声が入った。
『伊吹、聞こえるか』
伊吹は小さく答える。
「聞こえてる」
蓮司の目が、伊吹の左腕に向いた。
「外と話してるのか」
伊吹は隠さなかった。
「繋がっています」
「切れ」
伊吹は首を横に振る。
「切れません」
蓮司の目が細くなる。
「まだ外の連中に守られてるつもりか」
「違います」
「何が違う」
伊吹は左腕のWRISTを見た。
「これは、守るためだけのものじゃない」
首元のNOXが、赤い非常灯を受けて鈍く光る。
「俺たちを縛るものでもあります」
蓮司は吐き捨てる。
「死刑囚の首輪か」
伊吹は頷いた。
「そうです」
「なら、ちょうどいい」
蓮司は伊吹を見据えた。
「全部聞かせろ」
伊吹は黙る。
「外の連中にも、警察にも、そこにいる奴にも、全部聞かせろ」
蓮司の声が震える。
「母さんに何をしたのか」
伊吹は息を吸った。
肺の奥に、灯油の匂いが入る。
吐き気がする。
それでも、逃げる場所はない。
外では、黒瀬玲央が建物を睨んでいた。
扉が閉まった瞬間、獅堂が前へ出ようとした。
黒瀬が手で制する。
「まだだ」
獅堂鉄平は低く唸る。
「全員出たんだろ」
「出た」
「なら、突っ込めばいい」
「灯油がある」
獅堂は歯を噛んだ。
「……分かってるから、腹が立つんだよ」
灰原ナギは端末から目を離さない。
「受付カメラ、生きてる。音声も拾えてる」
映像には、伊吹と蓮司。
入口側の若い共犯者。
床に広がる灯油。
そして蓮司の右手。
着火装置。
灰原は短く言う。
「親指、スイッチ上」
真神アキラの声が内部側面から入る。
『一階裏側にいる。距離は取れる』
黒瀬は即座に返す。
「動くな。合図まで待機」
『了解』
美月の声が通信に重なる。
『伊吹の単独接触は、現時点で極めて危険です。撤収を優先すべきです』
黒瀬は受付の映像を見た。
「撤収できるなら、もうしてる」
『黒瀬』
「今、蓮司は伊吹だけを見てる」
黒瀬は静かに言った。
「その間は、押さない」
美月は沈黙した。
その沈黙は、承認ではない。
だが、停止でもなかった。
受付の中。
蓮司は伊吹へ向かって言った。
「覚えてるんだろ」
伊吹は答えなかった。
「青い傘も、母さんが何を言ったかも、全部」
伊吹の喉が動く。
蓮司は一歩近づいた。
灯油を踏まないように。
その慎重な動きが、逆に恐ろしかった。
彼は本気で火を使うつもりだ。
だが、まだ押していない。
まだ、戻れる場所に立っている。
伊吹はそれを見ていた。
蓮司は叫ぶ。
「答えろ!」
若い共犯の男が肩を震わせる。
伊吹は、その男を一瞬だけ見た。
まだ若い。
刃物を握っているのに、目は怯えている。
蓮司に引っ張られてここまで来た顔だった。
伊吹は蓮司へ視線を戻す。
「覚えています」
その一言で、受付の空気が変わった。
外の通信も、静まり返った。
蓮司の顔が歪む。
「やっぱりな」
伊吹は続けた。
「三枝久美子さん」
蓮司の目が赤くなる。
「六十二歳」
伊吹の声は震えていた。
だが、止まらなかった。
「最初の電話は、五月十二日。午後三時四十六分」
蓮司の呼吸が荒くなる。
「五月十八日、俺は久美子さんの家に行きました」
伊吹の目の奥に、雨の日の玄関が戻ってくる。
古い家。
濡れた傘。
磨かれた靴箱。
小さな仏壇。
「玄関に、青い傘がありました」
蓮司の手が震えた。
「骨が少し曲がっていた。久美子さんは、それを玄関の右側に立てかけていた」
伊吹は唇を噛む。
「仏壇には、亡くなった旦那さんの写真がありました」
蓮司の目が見開かれる。
「線香の匂いがした」
伊吹の声が低くなる。
「久美子さんは、息子に迷惑をかけたくないと言いました」
蓮司の顔が歪む。
「俺は」
伊吹は言葉を飲みかけた。
だが、飲み込まなかった。
「そこにつけ込みました」
受付に沈黙が落ちる。
伊吹は続ける。
「息子さんに相談すれば、止められるかもしれません。今はまだ説明しない方がいい。先に手続きを済ませれば、安心させてあげられます」
蓮司の呼吸が荒くなる。
「俺が、そう言いました」
伊吹は自分の手を見た。
二年前、契約書を差し出した手。
判を押す位置を示した指。
送金用紙を確認した目。
全部、覚えている。
「久美子さんは、迷っていました」
蓮司の目から、涙が滲んだ。
「何度も、あなたに電話しようとしていました」
蓮司が小さく息を呑む。
伊吹は続ける。
「そのたびに、俺が止めた」
蓮司の顔が怒りで赤くなる。
「お前……」
「俺が止めました」
伊吹は逃げなかった。
「息子さんに余計な心配をかけたくないなら、今はまだ話さない方がいい。全部終わってから、安心して報告しましょう」
蓮司の歯が鳴る。
伊吹の声が、さらに低くなる。
「そう言って、久美子さんに判を押させました」
若い共犯の男が、刃物を握ったまま硬直している。
その顔にも、怒りではない何かが浮かんでいた。
恐怖。
後悔。
自分たちが今、何をしているのかへの理解。
伊吹は続ける。
「最後の送金にも付き添いました」
蓮司が叫ぶ。
「やめろ」
伊吹は止まらない。
「久美子さんは、銀行の前で一度立ち止まりました」
「やめろ!」
「本当に大丈夫ですか、と聞きました」
蓮司が着火装置を握る手に力を入れる。
灰原の声が外で鋭くなる。
『右手、再加圧』
黒瀬は低く言う。
「まだ動くな」
獅堂が歯を食いしばる。
伊吹は蓮司を見た。
「俺は言いました」
蓮司の目が血走る。
伊吹は、自分が一番言いたくなかった言葉を口にした。
「大丈夫です。これは、ご家族を守るための手続きです」
蓮司が叫んだ。
「黙れ!」
着火装置を握る手が跳ねる。
その瞬間、若い共犯の男が一歩出た。
「蓮司さん!」
蓮司の動きが止まる。
男は自分でも驚いた顔をしていた。
だが、叫んでいた。
「今、人質はもういない!」
蓮司が振り向く。
「黙ってろ」
「もういないんだ!」
若い男の声が震える。
「俺たち、もう誰も殺してない!」
蓮司の顔が怒りで歪む。
「黙れって言ってるだろ!」
若い男は刃物を持ったまま後ずさる。
だが、目は伊吹ではなく蓮司を見ていた。
「俺、ここまでやるつもりじゃなかった」
蓮司が一歩近づく。
「今さらか」
「だって、人質まで殺したら」
男の声が崩れる。
「俺たちが憎んでた奴らと同じになる」
蓮司の表情が止まった。
伊吹も、男を見る。
蓮司が低く言う。
「同じ?」
「人の人生を壊して、平気でいる奴らが憎かったんだろ」
若い男の目に涙が浮かぶ。
「だったら、ここで殺したら駄目だろ」
蓮司は男を睨んだ。
「お前に何が分かる」
男は言い返せなかった。
刃物を持つ手が震えている。
外で、灰原が呟く。
『共犯者、動揺。刃物保持不安定』
黒瀬は映像を見た。
若い男の刃物は、もう人に向いていなかった。
腕が下がっている。
視線は蓮司と伊吹の間を揺れている。
真神の声が低く入る。
『共犯の背後に回れる』
黒瀬は即座に返す。
「まだ動くな」
『了解』
「蓮司に気づかせるな。合図まで待機」
『分かった』
若い男は、刃物を握ったまま立ち尽くしていた。
だが、その目はもう戦う目ではなかった。
伊吹の言葉を聞いていた。
蓮司の涙を見ていた。
自分たちが何をしようとしているのか、ようやく理解し始めていた。
蓮司は気づいていない。
伊吹だけを見ている。
母の名前を口にした男を。
自分が殺すべき相手を。
だから真神は動かなかった。
刃物を落とすことはできる。
腕を折ることもできる。
だが、今動けば蓮司が反応する。
床には灯油がある。
着火装置は、まだ蓮司の手の中にある。
黒瀬は言った。
「待て」
真神は答える。
『待つ』
受付の中で、蓮司は伊吹へ向き直った。
「お前のせいだ」
伊吹は頷いた。
「はい」
「お前が母さんを壊した」
「はい」
「お前が俺をこうした」
伊吹はすぐには答えなかった。
その沈黙に、蓮司の顔が歪む。
「違うって言うのか」
「違うとは言えません」
伊吹は静かに言った。
「でも、今ここで誰かを殺す選択をしているのは、あなたです」
蓮司の目が見開かれる。
「俺のせいにするのか」
「違います」
伊吹は首を横に振った。
「俺の罪は、俺のものです」
一歩、伊吹は前へ出た。
黒瀬の声が飛ぶ。
『伊吹、位置を維持しろ』
伊吹は小さく言う。
「すみません」
黒瀬の声が低くなる。
『謝るなら戻ってからにしろ』
伊吹は蓮司から目を離さなかった。
「俺が久美子さんを騙しました」
蓮司の手が震える。
「俺が、あなたから母親を奪うきっかけを作りました」
伊吹の声は震えていた。
「それは、俺の罪です」
蓮司は黙る。
「でも、ここで火をつけるかどうかは、あなたの選択です」
蓮司の顔が歪む。
「説教するな」
「説教じゃない」
伊吹は言った。
「止めたいんです」
「俺を?」
「はい」
蓮司は笑った。
「人質がいなくなったからか」
「違います」
「じゃあ何だ」
伊吹は息を吸った。
「あなたを、殺人犯にしたくない」
蓮司の表情が凍った。
外の黒瀬も、動きを止める。
伊吹は続けた。
「俺が壊した人を、これ以上壊したくない」
蓮司の目が揺れる。
「……ふざけるな」
「ふざけていません」
「今さら助ける側に立つな」
「立てません」
伊吹は即答した。
「俺は助ける側の人間じゃない」
その言葉に、灰原が端末を見たまま小さく息を止めた。
伊吹は続ける。
「俺は、あなたの母親を騙した側です」
蓮司が歯を食いしばる。
「でも、今ここであなたが人を殺したら」
伊吹は蓮司を見た。
「久美子さんが守ろうとしたあなたまで、戻れなくなる」
蓮司の顔が崩れかける。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
怒りの奥に、子どものような顔が見えた。
母親を失った息子の顔。
蓮司はすぐにそれを怒りで塗りつぶした。
「母さんの名前を出すな」
「すみません」
「謝るな!」
「すみません」
「謝るなって言ってるだろ!」
蓮司が叫び、近くの椅子を蹴った。
椅子が灯油の上を滑る。
金属音が響く。
若い共犯の男がびくりと震えた。
灰原が言う。
『着火装置、まだ保持。押してない』
美月の声が続く。
『黒瀬、突入判断は』
黒瀬は映像を見ていた。
蓮司は揺れている。
共犯も揺れている。
伊吹は中にいる。
灯油は残っている。
判断を間違えれば、全て燃える。
黒瀬は低く答えた。
「まだだ」
『黒瀬』
「伊吹が止めてる」
美月は沈黙した。
その言葉は、危険な信頼だった。
だが、記録に残る判断だった。
受付の中。
蓮司は伊吹を睨んだ。
「全部覚えてるんだな」
伊吹は答える。
「はい」
「忘れたことはない?」
「ありません」
蓮司の声が震える。
「じゃあ、何で」
伊吹は黙る。
「何で、覚えてたのに騙した」
その問いは、怒号ではなかった。
むしろ、静かだった。
静かすぎて、伊吹は逃げられなかった。
「家に来て」
蓮司は言う。
「仏壇を見て」
伊吹の顔が歪む。
「母さんの話を聞いて」
「はい」
「俺の話も聞いてたんだろ」
「はい」
蓮司の声が震える。
「それでも騙したのか」
伊吹は目を伏せなかった。
「騙しました」
蓮司の目から涙が落ちた。
「何でだよ」
伊吹は、すぐには答えられなかった。
嘘ならいくらでも出てくる。
組織に命令された。
断れなかった。
自分も追い詰められていた。
相手も信じたかった。
誰かがやった。
俺だけじゃない。
いくらでも言える。
だが、それは全部、自分を軽くするための言葉だった。
伊吹は言った。
「金になったからです」
蓮司の顔が止まった。
伊吹は続けた。
「俺は、それで生きていました」
声が震える。
「人の不安を見つけて、欲しい言葉を言って、信用させて、金を動かした」
若い共犯の男が、息を呑む。
伊吹は続ける。
「久美子さんがあなたを大事に思っていたことも分かっていました」
蓮司は黙る。
「だから使いました」
伊吹の声がかすれる。
「あなたを大事に思っていたから、相談できなかった」
「……」
「あなたを大事に思っていたから、迷惑をかけたくなかった」
「……」
「俺は、そこを使いました」
蓮司の手が震える。
伊吹は言った。
「許されるとは思っていません」
蓮司は笑った。
泣きながら笑った。
「当たり前だ」
「はい」
「お前なんか、許せるわけないだろ」
「はい」
伊吹は頷いた。
「許さなくていいです」
蓮司の目が揺れる。
伊吹は続ける。
「恨んでいい」
「……」
「俺の名前を、死ぬまで恨んでいい」
「……」
「でも、あなたが人を殺す必要はない」
蓮司の呼吸が荒くなる。
「俺を殺したいなら」
伊吹は一歩前へ出た。
「俺を見てください」
黒瀬が外で低く言う。
「伊吹」
伊吹は止まらない。
「その人じゃない」
伊吹は若い共犯の男を見た。
「外の人でもない」
そして、蓮司を見る。
「俺です」
蓮司の親指がスイッチに沈みかける。
灰原が鋭く叫ぶ。
『押し込み準備!』
真神の声が入る。
『共犯、まだ待機。刃物は下がってる』
黒瀬は一瞬で判断した。
「維持。まだ動くな」
『了解』
蓮司は伊吹を睨んだ。
「お前を殺せば、終わると思ってた」
伊吹は答える。
「終わりません」
「知ったような口を」
「終わらないことだけは分かります」
蓮司の目が揺れる。
伊吹は続けた。
「あなたが俺を殺しても、久美子さんは戻らない」
「黙れ」
「俺が死んでも、あなたが楽になる保証はない」
「黙れ」
「でも、あなたがここで押したら」
伊吹は着火装置を見る。
「あなたは戻れなくなる」
蓮司は叫んだ。
「戻る場所なんかない!」
その声は、悲鳴だった。
伊吹は黙る。
蓮司は続ける。
「母さんはいない! 金も戻らない! 家も売った! 親戚には責められた! 俺が気づかなかったからだって!」
伊吹の顔が歪む。
「俺が、もっと早く気づいてれば」
蓮司の声が崩れる。
「母さんは死ななかったんじゃないかって」
伊吹は息を止めた。
蓮司は着火装置を握りながら、泣いていた。
怒りでは隠しきれないものが、そこにあった。
復讐の底にあったのは、自分への責めだった。
母親を救えなかった息子の後悔だった。
伊吹は静かに言った。
「あなたのせいじゃない」
蓮司の目が燃えた。
「お前が言うな!」
「言う資格がないのは分かっています」
伊吹は声を震わせた。
「でも、それだけは言わせてください」
蓮司は息を荒げる。
伊吹は言った。
「久美子さんがあなたに相談できなかったのは、あなたを信じていなかったからじゃない」
蓮司の顔が止まる。
「あなたを大事にしていたからです」
「黙れ」
「俺がそれを利用した」
「黙れ!」
「あなたのせいじゃない」
蓮司の手が震える。
着火装置が小さく揺れる。
「あなたが気づけなかったんじゃない」
伊吹の声が震える。
「俺が、気づかせなかった」
蓮司の目から涙が落ちた。
伊吹は続けた。
「家族に相談させなかった」
「……」
「警察に行かせなかった」
「……」
「返金を求める機会も、止めました」
伊吹は唇を噛む。
「俺が、逃げ道を塞いだ」
蓮司の膝が、わずかに落ちかける。
だが、彼は踏みとどまった。
「じゃあ」
蓮司は低く言った。
「やっぱり、お前を殺すしかない」
伊吹は目を閉じなかった。
「それであなたが止まれるなら」
黒瀬が外で叫ぶ。
『伊吹!』
伊吹は続けた。
「俺は逃げません」
蓮司の目が見開かれる。
「でも」
伊吹は一歩前へ出た。
「火はつけないでください」
蓮司が着火装置を握る。
「俺だけを見てください」
蓮司は泣きながら笑った。
「綺麗なことを言うな」
「綺麗じゃない」
伊吹は答えた。
「俺が言っているから、綺麗にはなりません」
蓮司の口元が震える。
「でも」
伊吹は静かに言った。
「あなたは、まだ誰も殺していない」
沈黙。
非常灯の赤。
灯油の匂い。
外の警察無線。
伊吹の呼吸。
蓮司の震える手。
その全てが、細い糸の上に乗っていた。
蓮司は着火装置を見た。
それから、伊吹を見た。
「母さんのことを」
声が掠れる。
「忘れるな」
伊吹は即答した。
「忘れません」
蓮司の目が歪む。
「嘘つくな」
伊吹は首を横に振る。
「嘘じゃない」
一拍。
伊吹は言った。
「忘れたことは、一度もありません」
蓮司の顔が崩れた。
その瞬間、彼の親指がスイッチからわずかに離れた。
灰原が叫ぶ。
『親指、離れた!』
黒瀬が即座に動いた。
「真神、共犯確保。獅堂、入口。灰原、照明!」
『了解』
『承認します!』
美月の声が重なる。
しかし、その瞬間。
蓮司の顔が再び歪んだ。
「でも、許さない」
伊吹は頷く。
「はい」
「許せない」
「はい」
蓮司は泣きながら、着火装置を握り直した。
「許せるわけないだろ!」
親指が、再びスイッチへ戻る。
WRISTが警告音を鳴らした。
《着火リスク:最大》
《即時介入推奨》
伊吹は動かなかった。
蓮司だけを見ていた。
逃げない。
嘘も使わない。
ただ、自分の罪の前に立っていた。
黒瀬の声が飛ぶ。
「突入!」
その瞬間、真神が動いた。
若い共犯の背後から腕を取り、刃物を握る手首だけを正確に押さえる。
男は抵抗しなかった。
抵抗できなかったのではない。
もう、抵抗する理由を失っていた。
刃物が床に落ちる。
金属音が、赤い非常灯の下に小さく響いた。
真神は男を床に伏せさせる。
「動くな」
若い男は震えながら頷いた。
「……殺すつもりじゃ、なかった」
真神は短く返した。
「それを証明するのは、ここからだ」
赤い非常灯の中で、最後の判断が下された。




