第16話 青い傘
三枝蓮司の親指が、着火装置のスイッチに乗った。
一階受付の床には、灯油が広がっている。
壁際には、空になりかけた灯油缶。
怯えて座り込む人質たち。
その全てが、灰色の監視カメラ映像の中で揺れていた。
灰原ナギの声が、通信に飛ぶ。
『親指、押し込み準備』
黒瀬玲央は叫んだ。
「伊吹!」
伊吹透は動けなかった。
目の前の入口。
段ボールで塞がれたガラス。
その隙間の奥で、三枝蓮司がこちらを見ている。
「覚えてないなら」
蓮司の声は低かった。
怒鳴り声ではない。
だからこそ危なかった。
「思い出させてやる」
着火装置を握る手が、わずかに上がる。
一階の人質たちが息を呑む。
伊吹の喉が動いた。
「待って」
蓮司の親指が止まる。
「何を待つ」
「火をつけたら、あなたも死ぬ」
蓮司は笑った。
乾いた笑いだった。
「分かってる」
伊吹は何も言えなかった。
蓮司は続ける。
「勘違いするなよ。俺は一人ずつ燃やしたいわけじゃない」
一階受付の奥で、人質の誰かが小さく泣いた。
「火をつけたら、ここにいる全員が終わる。俺もだ」
蓮司の目が、伊吹を刺す。
「だから、その前に選ばせてやる」
伊吹の表情がわずかに動いた。
「選ぶ?」
蓮司は言った。
「母さんが選ばされたみたいにな」
黒瀬の視線が鋭くなる。
蓮司は着火装置を握ったまま、一歩前へ出た。
「家族に相談するか。お前を信じるか」
伊吹は動かない。
「母さんは、お前を信じた」
蓮司の声が震えた。
怒りだけではない。
悲しみと、悔しさと、行き場のない後悔が混ざっていた。
「だから今度は、お前が選べ」
獅堂鉄平が低く言う。
「そういう復讐かよ」
黒瀬は短く答える。
「伊吹を引きずり込む気だ」
蓮司は伊吹を見たまま言う。
「母さんは一人だった」
伊吹の指が、わずかに動く。
「俺に相談しなかった。誰にも守られてなかった。お前の言葉を信じるしかないと思わされた」
蓮司の声が低くなる。
「だから今度は、お前が一人で来い」
伊吹は息を吸った。
「蓮司さん」
「その名前で呼ぶな」
「人質を外へ出してください」
「交渉するな!」
蓮司の怒号が響いた。
一階受付の人質たちが肩を震わせる。
もう一人の若い男が、刃物を持ったまま入口側に立っていた。
蓮司ほど覚悟が決まっていない。
その顔には、恐怖がある。
灰原が通信で小さく言う。
『若い方、動きが鈍い。主犯ほど乗ってない』
黒瀬は答える。
「見ておけ」
『見てる』
蓮司は伊吹へ向かって叫んだ。
「母さんのことを覚えてるのか、覚えてないのか、どっちだ!」
伊吹は答えなかった。
答えられなかった。
黒瀬は伊吹の横顔を見る。
ここへ向かう車内で、白羽美月が問うた。
三枝久美子を覚えていますか。
伊吹は答えた。
覚えてない。
あの時の顔。
今の顔。
どちらも同じだった。
嘘をつく時の顔。
だが、今の伊吹は、その嘘を保てていない。
蓮司は着火装置を掲げた。
「覚えてないなら、今すぐ思い出せ」
「人質は関係ない」
伊吹は絞り出すように言った。
「あなたの母親を騙したのは、その人たちじゃない」
「お前が言うな!」
蓮司が近くの机を蹴った。
古い書類が床に散らばる。
人質の女性職員が悲鳴を上げた。
黒瀬は即座に周囲へ指示を出す。
「獅堂、遮蔽維持。伊吹の前に出すぎるな」
「分かってる」
「灰原、内部状況」
灰原は端末に視線を落とした。
「再集計する」
「何?」
「四階反応、違った」
黒瀬の目が動く。
「人じゃないのか」
「職員端末。電源につながったまま残ってるだけ。生体反応はない」
美月の声が通信に入る。
『昨夜、四階から通報した職員が一名いました。その後、通信途絶。所在不明です』
灰原は一階の粗い映像を拡大した。
受付奥。
壁際に座らされた人質の中に、職員証を首にかけた女性がいた。
顔を伏せている。
手を縛られている。
灰原が短く言う。
「たぶん、この人」
黒瀬は映像を見る。
「四階から連れてこられたか」
「うん。四階にはもういない」
灰原の端末に表示が出る。
《人質残数:十二名》
《一階:八名》
《二階:四名》
《四階反応:職員端末による誤検知》
《四階生体反応:なし》
黒瀬は即座に判断した。
「救助対象は一階と二階に絞る」
『了解』
灰原は続ける。
「二階は犯人に見られてない。階段は一階奥から死角。音を出さなければ動かせる」
「導線は」
「職員用扉を開ければ、裏側の廊下から非常階段へ出せる」
「使えるか」
「古い。でも、まだ動く」
黒瀬は頷いた。
「館内放送は」
「見つけた。すぐには無理。外からだと遠い」
「どれくらい」
「三分」
「二分でやれ」
「……やってみる」
「無理はするな。三分以内で確実に」
灰原は少しだけ目を細めた。
「最初からそう言って」
黒瀬は視線を入口に戻す。
「真神」
『裏口側に着いた』
通信越しに真神アキラの声が入る。
静かで、息も乱れていない。
『搬入口あり。内側から棚。隙間はある』
「入れるか」
『俺だけなら』
「まだ大きく動くな。蓮司の注意がこっちにある間に、二階導線を確認しろ」
『了解』
美月が言う。
『黒瀬、強行突入は禁止です』
「分かっている」
『伊吹を入口より前に出さないでください』
黒瀬は伊吹を見る。
伊吹は入口の奥を見たまま動かない。
「分かっている」
蓮司の声が再び響く。
「伊吹透」
伊吹は顔を上げる。
「はい」
「母さんの家に来たこと、本当に覚えてないのか」
伊吹はまた黙った。
蓮司が笑う。
「言えないんだな」
伊吹の表情は動かない。
蓮司は続けた。
「玄関に青い傘があった。母さんが使ってた傘だ。安物の、骨が曲がった傘だ」
伊吹の目がわずかに揺れた。
「お前が来た日、雨だった」
蓮司の声は震えている。
「俺は仕事でいなかった。母さんは一人だった」
伊吹は、何も言えない。
「後から聞いた。親切な人だったって。丁寧に話を聞いてくれたって。親父の仏壇にも手を合わせてくれたって」
蓮司の目が赤くなる。
「母さんは、嬉しそうだった」
伊吹の手が、わずかに握られる。
黒瀬はそれを見る。
「息子に迷惑をかけないようにしたいんですって、母さんはお前に言った」
蓮司が一歩下がる。
「お前は何て答えた?」
伊吹は黙る。
「答えろよ」
伊吹は息を吸う。
「……分かりません」
蓮司の表情が消えた。
完全に。
怒りすら消えた顔だった。
「そうか」
その声に、黒瀬は嫌なものを感じた。
蓮司は若い男に向かって言う。
「一人、前に出せ」
若い男が戸惑う。
「蓮司さん、でも」
「出せ」
若い男は奥の人質へ近づいた。
女性職員が泣きながら後ずさる。
その足元には灯油が広がっている。
蓮司は伊吹を見たまま言う。
「お前は、母さんに選ばせた」
伊吹の表情がわずかに動く。
「家族に相談するか。お前を信じるか」
伊吹は黙っている。
「母さんは、お前を信じた」
蓮司の声が低くなる。
「だから今度は、お前が選べ」
黒瀬の視線が鋭くなった。
蓮司は言った。
「一人で中へ来るか」
着火装置を握る手が上がる。
「そこで見ているだけで、誰かが傷つくのを見るか」
伊吹の顔から血の気が引いた。
黒瀬は即座に通信を開く。
「灰原、着火装置を止められるか」
「無理。回路が独立。外から切れない」
「電波は」
「使ってない。手元スイッチ」
「真神」
『まだ距離がある。棚を越えれば音が出る』
「待て」
黒瀬は歯を噛む。
火をつけられれば終わる。
だが、今突入しても終わる。
伊吹は入口へ向かって一歩出ようとした。
黒瀬が腕を掴む。
「動くな」
「でも」
「中には入るなと言った」
「今、止めないと」
「勝手に動いて止まる相手じゃない」
伊吹は黒瀬を見る。
その目には焦りがある。
恐怖もある。
そして、自分の嘘で状況が悪くなったことへの痛みがあった。
黒瀬は低く言う。
「半端な嘘は、相手を余計に追い詰める」
伊吹の顔が歪む。
黒瀬は続けた。
「覚えているなら、使い方を間違えるな」
伊吹は答えない。
蓮司が叫ぶ。
「どうした、伊吹透! 選べよ!」
若い男が女性職員の腕を掴んだ。
女性が抵抗する。
灰原が早口で言う。
『右手、まだスイッチ上。押してない。でも力が入ってる』
獅堂がシールドを構え直す。
「隊長」
「まだだ」
「一歩で間に合う距離じゃねえ」
「分かってる」
黒瀬は伊吹を見た。
「言え」
伊吹は息を止める。
「何を」
「お前が言えることだ」
「言えば、余計に怒る」
「もう怒ってる」
伊吹は目を閉じた。
蓮司の怒鳴り声。
女性職員の泣き声。
灯油の匂い。
古いビル。
青い傘。
雨の日の玄関。
仏壇。
三枝久美子。
覚えている。
全部。
覚えているのに、伊吹は言わない。
まだ言えない。
全部を言えば、蓮司は壊れる。
自分も壊れる。
だから、伊吹は一つだけ選んだ。
「久美子さんは」
蓮司の動きが止まった。
伊吹の声は静かだった。
「あなたに、迷惑をかけたくないと言っていた」
蓮司の顔が固まる。
伊吹は続けた。
「息子さんは真面目に働いている。自分の老後のことで足を引っ張りたくない。だから、自分で何とかしたい」
蓮司の目が揺れる。
「それを」
伊吹は言葉を絞り出す。
「俺は、利用した」
蓮司の呼吸が止まる。
若い男も、女性職員の腕を掴んだまま動きを止めた。
黒瀬は伊吹を見ていた。
伊吹はまだ、全ては言っていない。
だが、さっきまでの「覚えていない」とは違う。
蓮司が低く言う。
「覚えてるじゃねえか」
伊吹は黙った。
「やっぱり覚えてるじゃねえか!」
蓮司の叫びが建物の中で反響する。
人質たちが震える。
蓮司は着火装置を持ったまま、入口に近づいた。
「何が覚えてないだ」
伊吹は何も言わない。
「何が一万二千人だ」
蓮司の声が震える。
「母さんは、数字じゃない」
伊吹は顔を上げた。
「分かっています」
「分かってない!」
「分かっています」
「分かってたら騙すな!」
その言葉が、伊吹の胸を刺した。
伊吹は、答えられなかった。
蓮司は笑った。
泣きそうな顔で笑った。
「そうだよな。分かってたんだよな」
伊吹は動かない。
「分かってて、家に来たんだよな」
蓮司の声が低くなる。
「分かってて、母さんに判を押させたんだよな」
伊吹は何も言わない。
言えない。
蓮司は言った。
「だったら、俺の復讐は間違ってない」
伊吹は顔を上げる。
「違う」
「違わない」
「人質は関係ない」
「俺の人生も関係なかった!」
蓮司が叫ぶ。
「お前にとって、母さんの人生も、俺の人生も、関係なかっただろ!」
伊吹は息を飲む。
その通りだった。
関係ないふりをした。
知らないふりをした。
数字の後ろに人がいることを知っていて、見ないようにした。
だが、蓮司が握る着火装置は下がらない。
黒瀬はそのわずかな間を見逃さなかった。
「灰原」
『見てる。右手の力、少し落ちた』
「館内放送は」
『入れる』
「使えるか」
『一方通行。短くなら流せる。二階に届く』
黒瀬は即座に判断した。
「二階人質へ避難指示。音量は最小。蓮司に気づかれにくく」
『できる』
美月の声が重なる。
『館内放送使用を承認。避難誘導目的に限定』
灰原は指を走らせた。
古い回線が鳴る。
建物の中、二階面談室付近。
小さな館内スピーカーから、かすれた音が流れた。
『二階の方へ。聞こえたら返事はしないでください』
それは灰原の声だった。
短く、感情を抑えた声。
『職員用扉を開けます。立てる人は、近くの人を支えてください。非常階段には出ないでください。音を立てずに、廊下の奥へ』
二階の映像はない。
見えるのは、灰原の端末に走る古い配線図と、電子錠の反応だけだった。
だが、そこには確かに人がいる。
助けを待っている人間がいる。
灰原の指が一瞬止まりかける。
黒瀬が言った。
「灰原」
「分かってる」
灰原は、すぐに端末へ視線を戻した。
「二階職員扉、解除する」
電子音。
WRISTに表示が浮かぶ。
《二階職員扉:解錠》
《二階人質導線:確保中》
同時に、真神の声が通信に入った。
『裏口から入った。二階へ向かう』
黒瀬は短く返す。
「音を出すな」
『了解』
真神は影のように動いた。
裏路地の搬入口から入り、棚の隙間を抜ける。
古い床板が軋みかけた瞬間、足の置き場を変え、音を殺す。
二階の廊下に出る。
薄暗い。
下から上がってくる灯油の匂いが、空気を重くしていた。
面談室の前に、四人がいた。
中年の男性職員。
若い相談者の女性。
床に座り込んだ高齢の男。
腕を押さえた警備員。
誰も声を出せない。
声を出せば、一階に気づかれる。
真神は口元に指を立てた。
静かに。
それだけで、四人の目に涙が浮かんだ。
外では、伊吹が蓮司と向き合っている。
「あなたの復讐の相手は、俺です」
一階の蓮司の視線は、伊吹に固定されている。
その隙に、二階では真神が高齢の男を支え起こした。
男の足は震えていた。
歩けない。
真神は迷わず背を向ける。
『一人、歩行困難』
黒瀬が答える。
「背負えるか」
『問題ない』
真神は男を背負った。
残る三人に、低く言う。
「俺の足元だけ見ろ。走るな。止まるな」
四人が動き出す。
その先で、獅堂が二階非常口の下に回り込んでいた。
錆びた外階段。
細い踊り場。
大人数が一気に降りれば危ない。
獅堂はシールドを階段下に立てかけ、片手を上げた。
「こっちだ。慌てるな」
最初に若い女性が降りてくる。
足を踏み外しかけた。
獅堂が片腕で受け止める。
「大丈夫だ。下見るな。俺を見ろ」
女性は震えながら頷いた。
次に警備員。
腕から血が出ている。
獅堂はすぐに止血パッドを押し当てる。
「押さえとけ。まだ歩けるな」
警備員は息を荒げながら頷く。
三人目の男性職員は、降りた瞬間に膝をついた。
「すみません、すみません……下に、まだ……」
獅堂は低く言った。
「謝るな。あんたは出た。次を出す」
最後に、真神が高齢の男を背負って降りてきた。
外階段が小さく軋む。
真神は足を止めず、音を逃がすように一段ずつ降りた。
獅堂が高齢の男を受け取り、救急隊員へ押し渡す。
「頼む!」
救急隊員が駆け寄る。
四人が規制線の外へ運ばれていく。
若い女性が振り返り、震える声で言った。
「下の人たちも……お願いします……」
獅堂は一瞬だけ目を伏せた。
それから、短く答えた。
「ああ。必ず出す」
WRISTに表示が走る。
《二階人質四名救出》
《救出者:職員二名/相談者一名/警備員一名》
《二階人質:全員救出》
《残人質:一階八名》
蓮司は気づいていない。
伊吹だけを見ていた。
青い傘。
雨の日の玄関。
三枝久美子。
伊吹が少しずつ吐き出す記憶に、蓮司の意識は縫い止められている。
その間に、二階の四人は外へ出た。
声もなく。
足音もなく。
誰にも気づかれずに。
伊吹の言葉が、初めて人を騙すためではなく、誰かを逃がす時間を作っていた。
美月の声が低く入る。
『二階四名、救出確認』
伊吹の耳にも、その通知は届いた。
四人。
助かった。
自分が蓮司の前に立っている間に。
自分が嘘を吐きかけ、言葉を選び損ね、それでも立っている間に。
本当に、人が外へ出た。
伊吹の喉が震えた。
ほんの一瞬、顔が崩れそうになる。
だが、蓮司の目がまだこちらを見ている。
伊吹はその震えを飲み込んだ。
今、喜ぶ時間ではない。
まだ一階に八人いる。
そして、蓮司は着火装置を握っている。
伊吹は蓮司を見た。
「蓮司さん」
蓮司は睨む。
「呼ぶな」
「あなたの復讐の相手は、俺です」
「そうだ」
「なら、あの人たちを外に出してください」
蓮司が笑う。
「また交渉か」
「はい」
「お前、本当に詐欺師だな」
伊吹は頷いた。
「そうです」
蓮司の顔が歪む。
伊吹は続けた。
「でも今、あなたに差し出せるものは、それしかない」
「何を」
「俺自身です」
黒瀬の目が鋭くなる。
獅堂が低く唸る。
「伊吹」
伊吹は黒瀬を見ない。
「一階の人質を全員出してください」
蓮司の目が細くなる。
「その代わり?」
伊吹は息を吸った。
「俺が中に入る」
空気が止まった。
黒瀬が即座に言う。
「伊吹」
伊吹は振り返らない。
美月の声が通信に入る。
『承認できません』
伊吹は通信を聞きながらも、蓮司だけを見ていた。
蓮司はゆっくり笑う。
「やっと分かったか」
伊吹は黙る。
「母さんは一人だった」
蓮司は言った。
「外で誰かに守られてたわけじゃない。誰かが止めてくれる場所にもいなかった」
着火装置を握る手が下がる。
「お前も一人で来い」
黒瀬は伊吹の腕を掴んだ。
「行かせない」
伊吹は小さく言った。
「一階の八人が出る」
「お前が入れば、次はお前が人質だ」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
伊吹は黒瀬を見た。
その顔には、いつもの軽さはなかった。
「ここで誰かが死んだら、蓮司くんは殺人犯になる」
黒瀬の目が止まる。
伊吹は続けた。
「僕は、人質を助けたい」
少し間を置く。
「でも、それだけじゃない」
黒瀬は黙って聞いた。
「蓮司くんを、殺人犯にしたくない」
伊吹の声は震えていた。
だが、逃げてはいなかった。
「僕が壊した人を、これ以上壊したくない」
黒瀬は伊吹の目を見る。
そこには恐怖がある。
罪悪感もある。
だが、嘘はなかった。
少なくとも、今の言葉には。
蓮司が叫ぶ。
「どうした! また外の連中の後ろに隠れるのか!」
伊吹は前を向いた。
「一階の人質を全員出してください」
蓮司は言う。
「先にお前が入れ」
伊吹は首を横に振る。
「それはできない」
蓮司の顔が歪む。
「まだ交渉する気か」
「違います」
伊吹は言った。
「あなたを信じたいから、先に人質を出してください」
蓮司の表情が固まる。
伊吹は続けた。
「あなたは、まだ誰も殺していない」
蓮司の手が震えた。
「黙れ」
「まだ戻れる」
「黙れ」
「俺が言っても、説得力はない。でも、あなたはまだ押してない」
蓮司は歯を食いしばる。
「お前に何が分かる」
「分かりません」
伊吹は即答した。
「あなたの苦しみを、分かったふりはしません」
蓮司の目が揺れる。
伊吹は続ける。
「でも、久美子さんがあなたに迷惑をかけたくないと言ったことは覚えています」
「また母さんの名前を――」
「あなたを大事にしていたから、そう言った」
蓮司の顔が歪む。
伊吹はすぐに言い直す。
「そう決めつける資格は、俺にはない」
蓮司が黙る。
「でも、俺が聞いた言葉は覚えています」
伊吹の声が静かになる。
「息子には迷惑をかけたくない」
「……」
「あの子は真面目だから、私のことで無理をする」
蓮司の呼吸が乱れた。
「だから、私が自分で何とかしたい」
伊吹は唇を噛む。
「俺は、その気持ちを利用した」
蓮司の手が震える。
「あなたを大事に思っていた気持ちを、俺は金に変えた」
一階の人質たちが息を呑む。
若い共犯の男も、刃物を持ったまま動けない。
伊吹は続ける。
「だから、俺を恨んでいい」
蓮司の目が赤くなる。
「でも、その人たちを巻き込んだら」
伊吹は一階の人質を見る。
「久美子さんが守ろうとしたあなたまで、戻れなくなる」
蓮司は叫んだ。
「黙れ!」
だが、着火装置は押されなかった。
伊吹は逃げなかった。
「人質を出してください」
沈黙。
長い沈黙。
風の音。
警察無線のざわめき。
灯油の匂い。
蓮司の荒い呼吸。
やがて、蓮司は若い男へ言った。
「出せ」
若い男が驚いた顔をする。
「蓮司さん」
「一階の奴らを、全員出せ」
「でも」
「出せ!」
若い男は刃物を下ろし、人質たちへ向かった。
一階の人質たちは、最初は動けなかった。
本当に外へ出ていいのか分からない。
蓮司は着火装置を握ったまま、伊吹を睨んでいる。
「逃げたら押す」
伊吹は頷いた。
「逃げません」
黒瀬が低く言う。
「伊吹」
伊吹は小さく答える。
「大丈夫とは言わない」
黒瀬は黙る。
「でも、行く」
一階の入口が開く。
最初に職員証を下げた女性が出てきた。
四階から連れてこられていた職員。
足元がふらついている。
獅堂がすぐに受け止める。
「こっちだ。走るな」
次に、若い相談者の男。
泣きながら出てくる女性。
腕を押さえた警備員。
中年の職員。
年配の相談者。
最後に、肩を震わせる若い職員。
一人ずつ。
一階から外へ。
灯油の匂いの中から、人が出てくる。
獅堂が全員を警察と救急隊へ押し渡す。
「人数確認!」
警察官が叫ぶ。
「一、二、三、四、五、六、七、八!」
WRISTに表示が走る。
《一階人質八名解放》
《二階人質四名救出済》
《人質十三名:全員救出》
《民間人残存:なし》
その表示を見た瞬間、伊吹の顔がわずかに崩れた。
全員、出た。
人質は全員、外へ出た。
自分が嘘を捨てきれないままでも。
全部をまだ言えていなくても。
それでも、人は助かった。
伊吹の肩が小さく震える。
だが、終わりではない。
蓮司はまだ中にいる。
着火装置も、灯油も、残っている。
若い共犯の男も、入口付近で刃物を握ったままだ。
蓮司が言った。
「入れ」
伊吹は頷いた。
黒瀬が腕を掴む。
「一人では行かせない」
蓮司が怒鳴る。
「外の連中は入れるな!」
伊吹は黒瀬を見る。
「隊長」
黒瀬は答えない。
伊吹は言った。
「戻る前提で行く」
黒瀬の目が細くなる。
「当然だ」
「蓮司くんを止める」
「お前も戻る」
「分かってる」
黒瀬はしばらく伊吹を見た。
そして、低く言う。
「通信は切るな」
「うん」
「勝手に奥へ行くな」
「うん」
「死ぬな」
伊吹は少しだけ笑った。
今度は、誤魔化しではなかった。
「それ、真神くんにも言われた」
「なら二回目だ」
伊吹は小さく頷く。
「了解、隊長」
美月の声が通信に入る。
『伊吹透の内部接触は承認できません』
黒瀬は答えた。
「統括官。人質は全員出た。ここからは犯人の着火阻止と伊吹の回収を優先する」
『内部接触は危険です』
「分かっている」
『黒瀬』
「伊吹を見失わない位置で対応する」
美月は沈黙した。
やがて、苦い声で言う。
『……伊吹透、内部接触を限定承認します』
WRISTに表示が浮かぶ。
《伊吹透:内部接触/限定承認》
《目的:犯人交渉継続》
《民間人人質:全員救出済》
《黒瀬玲央:即応待機》
《灰原ナギ:設備制御継続》
《真神アキラ:内部側面待機》
《獅堂鉄平:脱出路確保》
《撤退条件:通信途絶/着火動作/伊吹拘束》
伊吹はその表示を見た。
死刑囚。
詐欺師。
交渉支援。
副隊長代理。
どの名前でも、今は足りない。
今から入るのは、自分が壊した人間の前だ。
伊吹は一歩踏み出した。
入口の中から、蓮司が見ている。
「一人で来い」
伊吹は答えた。
「行きます」
黒瀬が最後に言った。
「伊吹」
伊吹は振り返る。
黒瀬は短く言う。
「嘘で戻ろうとするな」
伊吹は少しだけ目を伏せた。
「うん」
そして、顔を上げる。
「本当のことで戻る」
黒瀬は何も言わなかった。
ただ、伊吹の腕を離した。
伊吹は民間金融相談センターの入口をくぐる。
灯油の匂いが、一気に濃くなった。
床が黒く濡れている。
奥に、三枝蓮司。
入口側に、刃物を持った若い共犯。
外には、リコードの仲間たち。
だが、伊吹はもう外にはいない。
母が一人で伊吹を信じた場所。
今度は、伊吹が一人で蓮司の前に立つ。
WRISTに表示が浮かぶ。
《人質十三名:全員救出》
《伊吹透:建物内》
《主犯:三枝蓮司》
《共犯者:一名》
《可燃物:残存》
《交渉継続》
蓮司が低く言った。
「ようこそ」
伊吹は逃げなかった。
「話をしよう」
蓮司の目が赤く光る。
「今度は、全部話せ」
伊吹は静かに頷いた。
「分かってる」
覚えていない。
その嘘は、もう使えない。
伊吹透は、初めて自分の言葉で、自分の罪の中へ入っていった。




