第15話 覚えていない
旧都心第三区は、朝になっても夜の匂いが残っていた。
古い雑居ビル。
狭い道路。
剥がれかけた看板。
シャッターの下りた店舗。
その一角だけが、赤色灯で染まっている。
民間金融相談センター。
四階建ての古いビル。
一階のガラスには、内側から段ボールが貼られていた。
入口前の床は、黒く濡れている。
雨ではない。
灯油だ。
黒瀬玲央は出動車両を降りた瞬間、匂いでそれを理解した。
鼻の奥に、重く残る油の匂い。
火が入れば、逃げ場は一気に消える。
「灰原」
「うん」
灰原ナギは防煙マスクを首に下げ、電子侵入端末を起動した。
小型画面に周辺の電波状況が走る。
古い監視カメラ。
警察の臨時通信。
ビル内の弱い無線。
不安定な館内ネットワーク。
灰原は眉を寄せる。
「古い。だけど生きてる」
「使えるか」
「壊れてる方が多い。でも、監視カメラ二台と電子錠の一部は拾える」
「館内放送は」
「たぶん有線。侵入できるかは中を見ないと分からない」
黒瀬はうなずいた。
「分かった」
獅堂鉄平は大型シールドを肩にかけ、建物の入口を見ている。
左肩にはまだ医療パッチが貼られていた。
それでも、視線は揺れていない。
「臭えな」
「灯油だ」
「やっぱりか」
獅堂は低く吐き捨てた。
「火をつける気満々じゃねえか」
真神アキラは周囲の路地を見ていた。
「裏口は」
黒瀬は警察の規制線の奥を見る。
「確認する」
伊吹透は、少し遅れて車両を降りた。
いつもの軽さはない。
笑ってもいない。
ただ、建物を見ていた。
古い四階建てのビル。
その一階の奥に、三枝蓮司がいる。
二年前に自分が騙した女の息子。
伊吹は小さく息を吐いた。
「灯油の匂い、強いね」
黒瀬は横目で見る。
「いけるか」
「今さら聞く?」
「今だから聞いてる」
伊吹は黒瀬を見る。
ほんの少しだけ、口元を上げた。
「いけるよ」
黒瀬はその顔を見た。
「その顔はやめろ」
伊吹の笑みが止まる。
「便利だね、その警告」
「便利だから使う」
「手厳しい」
「必要なら何度でも言う」
伊吹は肩をすくめた。
「了解、隊長」
警察の現場指揮官が近づいてきた。
四十代後半ほどの男。
顔には疲労が濃く出ている。
夜通しこの場にいた顔だった。
男は白羽美月を確認し、次に黒瀬たちを見る。
首元のNOXに、一瞬だけ視線が止まった。
「……特務公安庁の支援部隊ですか」
美月が答える。
「表向きは、警察特殊救助班として扱ってください」
「了解しました」
男は黒瀬を見る。
「現場指揮、桐谷です。昨夜から交渉を続けていますが、犯人は一切譲りません」
黒瀬は短く聞いた。
「人質の状態は」
「確認できているだけで十三名。昨夜の時点では全員生存。ただし、今朝から二名の反応が弱い。高齢の相談者と、女性職員です」
「犯人は何人だ」
「主犯の三枝蓮司。もう一人、若い男が確認されています。ただし、上階に協力者がいる可能性もあります」
「武器は」
「刃物を確認。銃器は未確認。灯油缶が少なくとも四つ。簡易着火装置らしきものを主犯が持っています」
灰原が反応する。
「簡易着火装置?」
桐谷は端末を見せた。
警察が外部から撮影した拡大画像。
男の手元。
黒い小型ライターのようなものに、配線がつながっている。
灰原は画面を覗く。
「ただのライターじゃない。スイッチ式にしてる」
「爆発物か」
黒瀬が聞く。
灰原は首を振る。
「爆弾とは限らない。でも可燃物があるなら十分」
桐谷が続ける。
「主犯は伊吹透との通話を要求しています。こちらの交渉官には応じません」
美月が言う。
「通話回線をこちらへ」
「すでに準備しています。ただし、犯人は本人確認を要求しています」
伊吹が静かに言った。
「どうやって?」
桐谷は伊吹を見る。
「二年前の通話録音を持っているようです。声と、当時の会話内容で確認すると」
伊吹は薄く息を吐いた。
「念入りだね」
桐谷の表情がわずかに強張る。
この男も、伊吹の罪を知っている。
警察資料を見たのだろう。
伊吹が何をしたか。
誰に何をさせたか。
なぜ死刑囚になったか。
それでも、今は伊吹を使うしかない。
その顔だった。
黒瀬は桐谷に聞いた。
「建物内の配置は」
桐谷が端末を操作し、簡易見取り図を表示する。
「一階受付に主犯、人質八名。二階面談室付近に人質四名。四階職員区画に一名が隠れている可能性があります。三階資料保管室は未確認」
「なぜ一名だけ四階に」
「昨夜、職員がトイレに隠れたと通報してきました。その後、通信途絶。犯人に見つかっているかどうかは不明です」
黒瀬は地図を見る。
「灰原、四階の確認は」
「監視カメラが死んでる。外部カメラから窓は見えるけど、中は無理」
「電子錠は」
「一階裏口と二階職員用扉だけ。四階は古い物理鍵」
真神が言う。
「裏口から入れるか」
桐谷が答える。
「裏路地側に搬入口があります。ただし、内側から棚で塞がれている可能性があります。警察が接近した時、犯人が人質を傷つけると警告しました」
黒瀬は真神を見る。
「待機だ」
真神はうなずく。
「分かった」
獅堂が低く言う。
「人質を出す出口は」
桐谷は建物右側を指した。
「一階正面、裏口、二階非常階段。ただし、非常階段は錆びています。大人数の避難には向かない」
獅堂は建物を見上げる。
「古いな」
黒瀬は言った。
「古い建物ほど、燃えると早い」
灰原が端末を見ながら言う。
「中の電源、まだ生きてる。照明も一部生きてる。監視カメラ一台、受付奥を拾えそう」
美月が即座に言う。
「灰原ナギ。任務対象施設に限定し、監視カメラへの電子侵入を承認します。警察基幹システムへの干渉は禁止」
「分かってる」
灰原は指を動かした。
端末の画面にノイズが走る。
数秒後、粗い映像が浮かんだ。
一階受付。
画質は悪い。
画面の端に、人質が座らされているのが見える。
床は黒く濡れていた。
灯油。
壁際に灯油缶。
その前に、男が立っている。
三枝蓮司。
髪は乱れ、目は血走っている。
手には小型の着火装置。
もう一人の若い男が、入口側で刃物を持っている。
灰原は画面を拡大した。
「主犯の右手。スイッチ。配線は床の容器に伸びてる」
黒瀬が聞く。
「押せば?」
「火花か加熱線。灯油に直接火が入るか、布に着火するか。どっちにしても危ない」
獅堂が顔をしかめる。
「取り上げる距離じゃねえな」
真神が静かに言う。
「切れる位置でもない」
黒瀬は伊吹を見る。
「まず喋るしかない」
伊吹は画面の中の三枝蓮司を見ていた。
「そうだね」
美月が端末を操作する。
「交渉回線を開きます。ただし、伊吹の発言は全て記録されます。中央管制、警察交渉官、私が同時に確認します」
伊吹は頷く。
「了解」
「伊吹」
美月の声が少し硬くなる。
「犯人を刺激する発言、虚偽の約束、身柄・刑・金銭補償に関する独断発言は禁止します」
伊吹は薄く笑った。
「詐欺師に嘘をつくなって?」
「はい」
「厳しい仕事だ」
美月は表情を変えない。
「必要なら交渉担当から外します」
伊吹は少しだけ目を伏せた。
「分かってる」
黒瀬が言う。
「伊吹」
「何」
「嘘で楽をするな」
伊吹は黒瀬を見る。
その目に、いつもの軽さはなかった。
「楽じゃないよ」
「なら、なおさら使うな」
伊吹は少し黙った。
「了解、隊長」
回線が開いた。
ノイズ。
短い電子音。
そして、男の荒い呼吸が聞こえた。
『……誰だ』
桐谷が小さく合図する。
伊吹はマイクに向かった。
「三枝蓮司さん」
相手の呼吸が止まった。
『その声……』
伊吹は続ける。
「伊吹透です」
数秒、何も聞こえなかった。
次の瞬間、怒号が回線を割った。
『やっと出たか!』
人質の悲鳴が混じる。
『やっと出てきたな、伊吹透!』
伊吹は目を閉じない。
「聞こえています」
『覚えてるか』
黒瀬の視線が伊吹に向く。
美月も端末を見る手を止めた。
蓮司の声は震えていた。
怒りだけではない。
十四時間、火と人質と憎しみを抱えていた声だった。
『三枝久美子。俺の母さんだ。覚えてるか』
伊吹は一拍置いた。
黒瀬は、その沈黙を聞いた。
灰原も、獅堂も、真神も、誰も動かない。
伊吹は静かに答えた。
「……覚えていません」
黒瀬の眉がわずかに動いた。
蓮司の息が、回線の向こうで荒くなる。
『覚えてない?』
伊吹は言う。
「被害者は多かった。全員を覚えているわけじゃない」
その言い方は、冷たい。
意図的に冷たくしている。
犯人と距離を作るため。
自分を守るため。
あるいは、何かを隠すため。
蓮司の声が低くなった。
『そうか』
嫌な沈黙。
次の瞬間、監視カメラの映像で、蓮司が近くの女性職員の髪を掴んだ。
女性が悲鳴を上げる。
獅堂が一歩前に出かける。
黒瀬が手で制した。
蓮司が叫ぶ。
『覚えてないのか! お前が家に来たんだぞ!』
伊吹は目を逸らさない。
『母さんの家に来た! 玄関で靴を揃えて、仏壇に頭を下げた! 息子さんのためですって言った!』
蓮司の声が割れる。
『母さんは、お前を信じたんだ!』
女性職員が泣いている。
蓮司の手には着火装置。
灰原が小さく言う。
「右手、力入ってる」
美月が低く言う。
「伊吹、刺激しないでください」
伊吹は小さく息を吸った。
「三枝さん」
『その名前で呼ぶな!』
蓮司が怒鳴る。
『お前が呼ぶな!』
伊吹は口を閉じた。
蓮司は続ける。
『覚えてないなら、思い出させてやる』
監視カメラの映像で、蓮司が机の上の古い端末を蹴った。
そこに小型スピーカーがつながっている。
ノイズ。
古い録音。
そして、若い伊吹の声が流れた。
『大丈夫です。これは、ご家族を守るための手続きです』
伊吹の表情が、ほんのわずかに崩れた。
黒瀬はそれを見た。
録音の中の伊吹は、今より少し若い。
声は柔らかい。
安心させるために整えられた声。
『息子さんに迷惑をかけたくない。そのお気持ちは、よく分かります』
録音の向こうに、女性の声が入る。
小さく、不安そうな声。
『本当に、息子には……』
『はい。今のうちに手続きしておけば、むしろ安心させてあげられます』
伊吹は動かない。
だが、指先だけが硬くなっている。
録音が止まった。
蓮司が言う。
『これでも覚えてないのか』
伊吹は、すぐには答えなかった。
美月が警告するように言う。
『伊吹』
伊吹はマイクを見る。
そして言った。
「……覚えていません」
獅堂が伊吹を見た。
怒りに近い視線だった。
灰原も、理解できないという顔をしている。
真神は無表情のまま、しかし目だけが細くなっていた。
黒瀬は何も言わなかった。
今の伊吹の嘘は、薄い。
薄すぎる。
蓮司にも、それは伝わった。
『嘘だ』
伊吹は黙る。
『お前、今も嘘をついたな』
蓮司の声が低くなる。
『母さんにも、そうやって嘘をついたのか』
人質が泣く声。
灯油の匂い。
監視カメラの粗い映像。
すべてが、現場を締めつけていく。
伊吹は言った。
「今は、人質を解放してください」
『話を逸らすな!』
蓮司が怒鳴る。
『お前が母さんから奪ったんだ! 金だけじゃない! 母さんは俺に相談しなくなった! お前を信じて、俺を遠ざけた!』
伊吹の目が揺れた。
蓮司は続ける。
『お前が書類を持ってきた! お前が判を押させた! お前が銀行まで付き添った!』
映像の中で、蓮司は女性職員を突き放し、灯油缶の前に立った。
『なあ、伊吹透』
声が低くなる。
『覚えてないなら、今から覚えろ』
蓮司は着火装置を持ち上げた。
女性職員が悲鳴を上げる。
灰原が即座に言う。
「右手、親指がスイッチに乗った」
黒瀬が言う。
「真神」
「距離がある」
「獅堂」
「正面は無理だ。押した瞬間に燃える」
美月が通信に入る。
『伊吹、時間を稼いでください』
伊吹は小さく息を吸った。
「蓮司さん」
『呼ぶなって言っただろ!』
「あなたの目的は、俺への復讐ですか」
蓮司の呼吸が止まる。
「だったら、人質は違う」
『黙れ』
「違うだろ」
伊吹の声は、今度は少しだけ強かった。
「あなたが殺したいのは、俺だ」
蓮司は黙った。
カメラの映像で、着火装置を握る手が震えている。
伊吹は続ける。
「人質を燃やしても、俺は死なない」
『黙れ』
「あなたの母親を騙したのは、その人たちじゃない」
『黙れ!』
「俺だ」
作戦車両の空気が止まった。
獅堂が伊吹を見る。
灰原も。
真神も。
黒瀬は黙って聞いていた。
蓮司の声が震える。
『じゃあ来いよ』
伊吹は目を閉じなかった。
『そこにいるんだろ。警察の後ろで守られてるんだろ』
伊吹は何も言わない。
蓮司は叫んだ。
『来いよ、伊吹透! お前がここに来たら、人質を一人返してやる!』
美月が即座に言う。
『却下です』
伊吹は美月を見ない。
黒瀬も、黙っていた。
蓮司は続ける。
『来ないなら、一人燃やす』
人質の悲鳴。
若い男の犯人が何かを叫ぶ。
監視カメラの映像が乱れる。
灰原が端末を操作した。
「カメラ維持する。音声少し落ちた」
黒瀬が聞く。
「裏口は」
真神が端末を見る。
「狭いが入れる。棚で塞がれているなら時間がかかる」
獅堂が言う。
「正面から突っ込めば、灯油に火が入る」
黒瀬は伊吹を見る。
「伊吹」
伊吹は静かに言った。
「行く」
美月が鋭く言う。
『承認できません』
「一人返すと言った」
『犯人の要求に従えば、あなたが人質になります』
「今も人質は中にいる」
『あなたを失えば交渉手段を失います』
「交渉手段として行くんでしょ」
美月が黙る。
伊吹は続けた。
「僕が正面まで出る。中には入らない。入口前で止まる。それで一人出させる」
黒瀬が聞く。
「罠だな」
「だろうね」
「分かってるのか」
「分かってる」
伊吹は黒瀬を見る。
「でも、今あの人は僕を見てる。人質じゃなくて」
黒瀬は伊吹の目を見た。
そこには恐怖がある。
罪悪感もある。
だが、逃げる顔ではなかった。
黒瀬は美月へ通信を開いた。
「統括官。伊吹を正面規制線内まで出す。建物入口から三メートル手前で停止。獅堂を遮蔽に置く。真神は裏口へ移動。灰原は電子錠と監視カメラを維持。人質一名の解放を条件にする」
『危険すぎます』
「今のままでも燃やされる」
『犯人が伊吹を狙えば』
「獅堂が守る」
獅堂が低く言う。
「守る」
美月は少し沈黙した。
その沈黙の間にも、回線の向こうで蓮司が叫んでいる。
『来い! 伊吹透! 逃げるな!』
伊吹はマイクに向かう。
「行きます」
蓮司の声が止まる。
伊吹は続けた。
「でも、条件があります」
『お前が条件を出すな』
「人質を一人出してください」
『先にお前が来い』
「同時です。俺が入口前に立つ。あなたは一人を外へ出す」
『信用できると思うのか』
伊吹は少しだけ黙った。
それから言った。
「思わなくていい」
蓮司が黙る。
「俺も、あなたに信用してもらえるとは思っていない」
伊吹の声は低かった。
「だから、見える場所に立つ」
蓮司の呼吸だけが聞こえる。
やがて、低い声が返った。
『逃げたら燃やす』
「逃げません」
『撃たせたら燃やす』
「撃たせません」
『嘘なら』
伊吹は一瞬だけ目を伏せた。
「今度は、嘘じゃない」
蓮司は何も言わなかった。
回線はつながったまま。
美月の声が入る。
『伊吹の正面接近を条件付きで承認します』
WRISTに表示が出る。
《伊吹透:正面接近/限定承認》
《停止位置:入口三メートル手前》
《獅堂鉄平:遮蔽支援》
《黒瀬玲央:現場指揮》
《真神アキラ:裏口側待機》
《灰原ナギ:電子侵入継続》
《撤退条件:犯人着火動作/伊吹拘束/通信途絶》
黒瀬は伊吹の肩を軽く掴んだ。
「中には入るな」
「うん」
「勝手に近づくな」
「うん」
「嘘で自分を軽くするな」
伊吹は黒瀬を見た。
少しだけ困ったように笑う。
「難しいね」
「やれ」
「了解」
獅堂が大型シールドを構えた。
「俺の後ろにいろ」
伊吹は言う。
「僕が見えないと意味ないよ」
「見える位置で守る」
「頼もしいね」
「茶化すな」
「うん」
灰原が端末から目を離さず言った。
「入口カメラ、維持する。蓮司の右手、ずっと見る」
伊吹は灰原を見る。
「ありがとう」
灰原は返事をしない。
ただ、小さく頷いた。
真神は裏路地へ向かう前に、伊吹へ言った。
「死ぬな」
伊吹は少し驚いた顔をする。
「真神くんがそれ言うんだ」
「死なれると任務が面倒になる」
「そういうことにしておくよ」
真神は背を向けた。
黒瀬は伊吹の横に立つ。
「行くぞ」
伊吹は建物を見た。
民間金融相談センター。
二年前に置き去りにしたものが、その中で燃えかけている。
彼は一歩、規制線の内側へ踏み出した。
警察官たちの視線が集まる。
誰も声をかけない。
伊吹透。
死刑囚。
詐欺師。
被害者遺族に呼ばれた男。
その全部を背負って、伊吹は灯油の匂いへ近づいていく。
建物の入口。
段ボールの隙間から、暗い目がこちらを見ていた。
三枝蓮司。
伊吹は立ち止まった。
入口から三メートル。
WRISTが振動する。
《停止位置到達》
《交渉回線:接続中》
伊吹はマイクを通さず、建物へ向かって声を出した。
「三枝蓮司さん」
中から怒鳴り声が返る。
「その名前で呼ぶな!」
伊吹は逃げなかった。
「伊吹透です」
沈黙。
灯油の匂いが濃くなる。
段ボールの隙間の向こうで、蓮司の顔が歪んだ。
「……来たな」
伊吹は言った。
「来ました」
「母さんは来るなって言った」
伊吹の表情が、ほんの少しだけ変わる。
蓮司は続けた。
「お前が帰った後だ。母さん、言ってたよ。あの人は親切だけど、なんでだろう、少し怖いって」
伊吹は黙った。
「それでも信じた。お前が息子さんのためですって言ったからだ」
蓮司の声が震える。
「母さんは、俺じゃなくてお前を信じた」
伊吹は唇を開く。
だが、言葉はすぐに出なかった。
獅堂が低く言う。
「伊吹」
伊吹は小さく頷いた。
「人質を一人、出してください」
蓮司が笑った。
乾いた笑いだった。
「まだ交渉するのか」
「はい」
「詐欺師らしいな」
伊吹は否定しなかった。
「そうです」
その返事に、蓮司の笑いが止まった。
「何だと」
「俺は詐欺師です」
伊吹は言った。
「だから、あなたは俺を信じなくていい」
入口の奥で、人質の一人がすすり泣く。
蓮司はしばらく黙った。
やがて、若い男に何かを命じる。
受付の奥から、一人の老人が押し出された。
足元がふらついている。
高齢の相談者。
息が荒い。
獅堂がすぐに動いた。
「こっちだ」
老人が外へ出る。
警察と救急隊員が駆け寄る。
一人。
確かに、一人出た。
WRISTに表示。
《人質一名解放》
《残人質:十二名》
黒瀬は通信で言う。
「一名確保」
美月の声が返る。
『確認。伊吹、停止位置を維持してください』
だが、入口の奥で蓮司が言った。
「次はお前が答えろ」
伊吹は前を向く。
蓮司は着火装置を握ったまま、暗い入口の奥に立っている。
「三枝久美子を、本当に覚えてないのか」
伊吹は黙った。
黒瀬が、伊吹の横顔を見る。
伊吹は、また嘘を選ぼうとしていた。
その喉が、小さく動く。
「……覚えていません」
蓮司の顔が、壊れたように歪んだ。
「そうか」
その声は、怒鳴り声ではなかった。
もっと低い。
もっと危ない声だった。
「じゃあ、思い出すまで燃やす」
蓮司の親指が、スイッチに乗った。
灰原の声が通信に飛ぶ。
『親指、押し込み準備』
黒瀬が叫ぶ。
「伊吹!」
伊吹の目が、初めて大きく揺れた。
建物の奥で、人質が泣いている。
灯油が床に広がっている。
三枝蓮司が、復讐のために指をかけている。
伊吹は、まだ嘘の上に立っていた。




