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第14話 嘘つきの名前

翌朝。


第6部隊リコード隊舎の食堂には、いつも通りの朝食が並んでいた。


白いトレー。


薄い味噌汁。


焼き魚。


小鉢。


栄養だけは計算されている食事。


味までは、あまり計算されていない。


伊吹透(いぶきとおる)は、その味噌汁をひと口すすって、いつも通りの顔をした。


「うん。今日も安心の薄さ」


獅堂鉄平(しどうてっぺい)が向かいで眉を寄せる。


「文句があるなら食うな」


「文句を言いながら食べるのが人生だよ、獅堂さん」


「面倒な人生だな」


「まあね」


伊吹は笑った。


いつも通りに。


軽く。


薄く。


何もなかったように。


黒瀬玲央(くろせれお)は、その笑い方を見ていた。


昨日の夜。


共有スペースで伊吹のWRISTに表示された任務候補。


旧都心第三区。


民間金融相談センター。


特殊詐欺関連。


参考関係者、伊吹透。


それは、まだ正式任務ではなかった。


だが、何もない通知ではない。


中央管制が、わざわざ伊吹の名を照合した。


その時点で、何かはすでに動いていた。


黒瀬は箸を置いた。


「伊吹」


「何、黒瀬ちゃん」


「寝たか」


「もちろん」


伊吹は即答した。


早すぎる。


黒瀬は少しだけ目を細める。


「何時間」


「そこ聞く?」


「聞いてる」


伊吹は味噌汁を見下ろした。


「三時間くらい?」


灰原(はいばら)ナギが端の席から言う。


「嘘」


伊吹がそちらを見る。


「ナギちゃん、朝から厳しい」


「目の下。あと声」


「声?」


「いつもより高い」


伊吹は少しだけ笑った。


「すごいね。爆弾だけじゃなくて人間の不具合も分かるんだ」


「分かりやすいだけ」


真神(まがみ)アキラが無表情で言う。


「寝てないのか」


「みんなして僕の睡眠に興味持ちすぎじゃない?」


「答えろ」


「真神くんまで厳しい」


伊吹は肩をすくめた。


「少し寝たよ」


黒瀬は言った。


「任務候補の件か」


空気が少し止まった。


伊吹の笑みは消えなかった。


だが、箸を持つ指が一瞬だけ止まった。


獅堂が顔を上げる。


「任務?」


灰原も視線を向ける。


伊吹は軽く笑う。


「まだ候補だよ。出るかどうかも決まってない」


黒瀬は言う。


「中央から隊長端末にも転送された」


「便利だね、隊長端末」


「特殊詐欺関連。参考関係者、伊吹透」


獅堂の表情が変わる。


「お前絡みか」


「かもしれない」


「何をした」


伊吹は笑ったまま答えた。


「いろいろ」


獅堂の声が低くなる。


「茶化すな」


伊吹はその声を受けても、表情を崩さなかった。


「茶化してる方が話しやすいこともあるんだよ」


真神が言う。


「聞かれたくないだけだろ」


「うん」


伊吹はあっさり認めた。


「聞かれたくない」


食堂が静かになる。


伊吹は味噌汁を置いた。


「でも、どうせ任務になったら出るよ。僕が喋らなくても、中央は資料を出す。美月ちゃんは説明する。みんなは僕の過去を知る」


灰原が小さく言う。


「嫌なの」


伊吹は少しだけ目を伏せた。


「嫌だね」


その声は、いつもの軽さではなかった。


次の瞬間、WRISTが一斉に震えた。


食堂の壁面モニターが起動する。


白い文字が並ぶ。


《緊急任務通達》

《特務公安庁中央管制より通達》

《事件発生:前日十八時三十七分》

《警察交渉継続:約十四時間》

《交渉状況:膠着》

《第6部隊リコード待機命令解除準備》


伊吹はモニターを見た。


その顔から、笑みが消えた。


次の表示が続く。


《発生事案:旧都心第三区立てこもり》

《場所:民間金融相談センター》

《状況:人質あり/犯人複数の可能性》

《関連情報:特殊詐欺被害者支援施設》

《未確認情報:爆発物または可燃物持ち込みの疑い》

《警察交渉官:対応継続中》

《犯人要求:伊吹透との通話》

《救助優先度:最優先》


獅堂が低く言う。


「来たな」


白羽美月(しらはみつき)の声が食堂に入った。


『全員、作戦室へ。昨夜の任務候補が、正式支援要請に移行しました』


伊吹は笑わなかった。


「来ちゃったね」


作戦室。


中央の卓上に、旧都心第三区の地図が展開されていた。


新東京の再開発から取り残された区域。


古いビル。


細い道路。


違法改築された雑居施設。


その一角に、赤い印が表示されている。


《民間金融相談センター》

《地上四階建て》

《一階:受付/相談窓口》

《二階:面談室》

《三階:資料保管室》

《四階:職員区画》

《地下:小規模電源設備》


美月が説明を始める。


「前日十八時三十七分、旧都心第三区の民間金融相談センターで立てこもり事案が発生しました。警察が夜通し交渉を継続していましたが、状況は膠着。午前八時四十二分、特務公安庁へ正式な支援要請が入りました」


黒瀬は地図を見る。


「人質は」


「施設内には職員、相談者、警備員を含む十三名が取り残されています。うち二名は体調不良を訴えている可能性があります」


「犯人は」


「少なくとも二名。主犯格と見られる男が交渉を主導しています。正確な人数は不明です」


灰原が聞く。


「可燃物は?」


「一階受付付近で灯油缶のような容器が複数確認されています。犯人は床に可燃物を撒いたと主張。爆発物の有無は未確認です」


灰原の目が細くなる。


「火をつけられたら、煙で上も詰む」


「はい」


真神が静かに言う。


「制圧なら早い」


美月は真神を見る。


「今回の優先は人質保護と交渉です。犯人の刺激は避けます」


真神は答えない。


美月は端末を操作する。


画面が切り替わる。


《関連事件:二年前・広域投資詐欺事件》

《通称:白百合ファンド事件》

《被害者数:一万二千人以上》

《被害総額:推定四百七十億円》

《死者:自殺/医療中断死/事件後死亡を含め多数》

《資金流出先:反社会組織および国外不明口座》

《主犯格一部逮捕》

《中核実行者:伊吹透》

《参考関係者:伊吹透》


作戦室の空気が変わった。


伊吹は画面を見たまま、笑わなかった。


黒瀬は伊吹を見る。


美月は少しだけ間を置いた。


「伊吹透」


「はい」


伊吹の声は軽くなかった。


美月は言う。


「あなたは、この広域投資詐欺事件に中核実行者として関与していましたね」


「してたよ」


伊吹はすぐに答えた。


誰も口を挟まない。


伊吹は画面を見たまま続ける。


「表向きは投資案内の営業担当。実際は、被害者に電話をかけて、説明会に誘導して、面談して、契約書に判を押させる役」


獅堂が伊吹を見る。


その目には怒りがあった。


伊吹はそれに気づいている。


それでも、続けた。


「人を安心させる説明が要るんだ。老後資金の相談。家族に迷惑をかけたくない不安。今だけの優遇。元本保証に見える資料。危ない言葉は使わない。全部、合法に聞こえるようにする」


灰原は黙っている。


真神も何も言わない。


伊吹は少し笑った。


笑おうとして、失敗した顔だった。


「僕は、それが上手かった」


獅堂が低く言う。


「それだけか」


伊吹は獅堂を見る。


「何が」


「電話で騙しただけか」


伊吹は少しだけ黙った。


それから、首を横に振った。


「違う」


作戦室が、さらに静かになる。


伊吹は言った。


「家にも行った。説明会も開いた。契約書も持っていった。銀行や送金手続きに付き添ったこともある」


獅堂の顔が険しくなる。


伊吹は続ける。


「家族に相談しようとする人には、止める言葉を用意した」


「何て言った」


獅堂の声は低い。


伊吹は答えた。


「今話すと、止められるかもしれません。家族のために準備していることを、誤解されるかもしれません。先に手続きを済ませて、安心させてから話しましょう」


獅堂の拳が握られる。


「最低だな」


「うん」


伊吹は否定しなかった。


「最低だよ」


美月が静かに続ける。


「裁判では、伊吹透が被害者を家族、警察、支援機関から切り離し、財産を奪う最終実行役だったと認定されています」


モニターに、裁判記録の要約が表示される。


《認定事項》

《被害者宅訪問》

《契約書署名誘導》

《家族への相談妨害》

《送金手続き補助》

《被害者資産情報の組織共有》

《返金要求者への引き延ばし対応》

《死亡被害の予見可能性あり》

《重大致死経済犯罪:中核実行者》


美月は続けた。


「伊吹透は直接殺人には関与していません。しかし、詐欺被害による多数の自殺、医療中断死、家庭崩壊、事件後死亡を予見しながら組織的詐欺を継続したとして、重大致死経済犯罪特別処罰法により死刑判決を受けています」


誰も何も言わなかった。


言葉だけではない。


伊吹は、実際に家へ行った。


書類を持っていった。


判を押させた。


金を動かした。


逃げ道を塞いだ。


その事実が、部屋に重く沈む。


伊吹は端末の表示を見た。


「今回の犯人は、その被害者?」


美月は答える。


「可能性が高いです」


モニターに、犯人からの通話記録が表示された。


音声が再生される。


荒い男の声。


『金を返せ! お前ら、相談に乗るふりをして、また騙す気だろ!』


警察交渉官の声。


『落ち着いてください。こちらは警察です。人質を解放して――』


『黙れ! 警察もグルだろ! あいつらを捕まえたって、金は戻らなかった! 母さんは死んだ! 何も戻らなかった!』


音声が乱れる。


次に、別の声。


震えた女の声。


人質らしき声だった。


『助けてください……灯油を……』


男の怒鳴り声が重なる。


『伊吹透を出せ!』


警察交渉官が聞き返す。


『伊吹透?』


『あいつだ! あいつを出せ! あいつが母さんの家に来た! あいつが書類を持ってきた! あいつが、母さんに判を押させた!』


音声が途切れる。


次に、低く震えた声が入る。


『母さんは、あのクズを信じたんだ』


音声が止まった。


作戦室の空気が、重く沈んだ。


伊吹は動かなかった。


獅堂の拳が、さらに強く握られる。


灰原が小さく息を吸う。


真神が伊吹を見る。


黒瀬は美月へ視線を向けた。


「犯人は伊吹を指名している」


「はい」


美月は端末を見る。


「警察交渉官の呼びかけを拒否。要求は伊吹透との通話。伊吹本人であることを確認するため、過去の通話音声と照合すると主張しています」


伊吹が皮肉っぽく言う。


「嫌な準備してるね」


美月は表情を変えない。


「中央管制は、あなたを交渉支援として投入する方針です」


獅堂が声を荒げる。


「待て」


全員が獅堂を見る。


獅堂は美月を睨んだ。


「こいつを犯人にぶつけるのか。被害者遺族かもしれねえ相手に」


美月は答える。


「犯人が要求しています」


「だからって」


獅堂は伊吹を見る。


「お前、行けんのか」


伊吹は笑った。


「行けるよ」


獅堂の顔が険しくなる。


「その顔で言うな」


伊吹の笑みが止まる。


獅堂は低く言った。


「笑って誤魔化す話じゃねえだろ」


沈黙。


伊吹はしばらく黙った。


それから、ゆっくり息を吐いた。


「じゃあ、笑わない」


その顔から、軽さが消える。


伊吹透の顔が、そこにあった。


詐欺師でも、軽口の男でもない。


自分の名前を呼ばれた死刑囚の顔。


「行けるかどうかで言えば、行ける」


伊吹は言う。


「行きたいかどうかで言えば、行きたくない」


誰も声を出さない。


「でも、僕が行かないせいで誰かが燃やされるよりは、まだまし」


美月が言う。


「伊吹を単独で接触させることはありません。通話は統括官管理下、全ログ記録、中央管制および警察交渉官同席。伊吹の発言には必要に応じて制限をかけます」


伊吹が皮肉っぽく言う。


「僕の口にも首輪がつくわけだ」


美月は答える。


「必要であれば」


伊吹は笑わない。


「了解」


黒瀬は美月に聞いた。


「現場投入の編成は」


美月はモニターを切り替える。


《第6部隊リコード任務案》

《黒瀬玲央:現場指揮》

《伊吹透:交渉支援》

《灰原ナギ:監視カメラ/電子錠/館内放送接続》

《真神アキラ:裏口側狭所進入待機》

《獅堂鉄平:避難路確保/人質搬出支援》


灰原が端末を見る。


「施設ネットワークは古い?」


「築四十二年の雑居ビルです。改修記録は不完全。監視カメラは一部ネットワーク化されていますが、内部系統は不明」


灰原は小さく頷く。


「侵入できるかは見ないと分からない」


美月は言う。


「任務対象施設に限定し、電子侵入を承認します。NOX、WRIST、警察基幹システムへの干渉は禁止」


「分かってる」


伊吹が少しだけ言う。


「ナギちゃん、頼もしいね」


灰原は伊吹を見た。


「茶化してる?」


「少し」


「やめて」


「うん」


伊吹は素直に頷いた。


灰原は少しだけ目を逸らす。


「……できることはする」


その言葉は、いつもの短い返事より少しだけ柔らかかった。


真神が黒瀬に聞く。


「犯人を斬るな、だな」


黒瀬は答える。


「今回は斬る前に喋る」


「喋って駄目なら」


「人質を守る」


真神はうなずいた。


「分かった」


獅堂は伊吹をまだ見ていた。


伊吹が視線に気づく。


「何、獅堂さん」


「逃げるなよ」


伊吹は少しだけ笑った。


「現場から?」


「自分のしたことからだ」


伊吹の表情が止まる。


獅堂は言った。


「俺は、お前が何をしたか全部は知らねえ。聞けば腹が立つかもしれねえ」


「もう立ってる顔だけど」


「立ってる」


獅堂は隠さなかった。


「だが、現場で逃げたらもっと腹が立つ」


伊吹は黙った。


獅堂は続ける。


「人質を助けるために行くなら、最後まで行け」


伊吹は、少しだけ目を伏せた。


「厳しいね」


「優しくする理由がねえ」


「それもそうだ」


伊吹は息を吐く。


「分かった。逃げない」


黒瀬が言う。


「逃げそうなら止める」


伊吹は黒瀬を見る。


「隊長も厳しい」


「隊長だからな」


「便利な言葉だ」


「必要な言葉だ」


伊吹は少しだけ笑った。


今度の笑みは、誤魔化しではなかった。


少しだけ、痛そうだった。


美月は全員を見た。


「任務前承認を行います」


WRISTに表示が流れる。


《任務前基本装備:承認》

《防弾防刃ベスト》

《防煙マスク》

《低出力スタンバトン》

《通常拘束具》

《小型偵察ドローン》

《救助ワイヤー》

《非殺傷制圧装備》

《灰原ナギ:電子侵入端末/限定承認》

《伊吹透:交渉用音声回線/統括官監視下で使用》


美月は続ける。


「殺傷武器の使用は現時点で承認しません。犯人が可燃物を所持している可能性があるため、発砲、火花、強行突入は原則禁止です」


黒瀬は頷く。


「了解」


「黒瀬」


「何だ」


「伊吹の精神状態に問題があると判断した場合、交渉担当から即時外します」


伊吹は黙っていた。


黒瀬は短く答える。


「俺が判断する」


美月は一瞬だけ目を細める。


「統括官判断です」


「現場で見えるのは俺だ」


美月は少し沈黙した。


そして言う。


「異常があれば、即時報告してください」


「分かった」


伊吹が小さく言う。


「本人の意見は?」


黒瀬と美月が同時に見る。


伊吹は両手を上げた。


「冗談。今のは冗談」


灰原が言う。


「冗談に聞こえない」


「今日はみんな厳しい」


真神が短く言う。


「任務だからな」


伊吹は少しだけ目を伏せる。


「そうだね」


美月が端末を閉じた。


「第6部隊リコード、出動準備」


WRISTに白い文字が浮かぶ。


《任務受領準備》

《作戦区域:旧都心第三区・民間金融相談センター》

《任務種別:人質保護/交渉支援/立てこもり対応》

《関連事案:広域投資詐欺事件》

《救助優先度:最優先》

《武装権限:統括官承認制》

《第6部隊リコード出動準備》


作戦室を出る。


廊下を進む。


隊舎の白い壁が、いつもより冷たく見えた。


出動車両へ向かう途中、伊吹が黒瀬の横に並んだ。


「隊長」


珍しく、最初からそう呼んだ。


黒瀬は横を見る。


「何だ」


伊吹は前を見たまま言った。


「僕が変なことを言ったら止めて」


「交渉中か」


「うん」


「嘘か本当か、判断できると思うか」


伊吹は少しだけ笑った。


「黒瀬ちゃんは、僕の嘘にわりと気づくから」


「全部じゃない」


「全部気づかれたら、詐欺師失格だよ」


「もう失格だろ」


伊吹は少し黙った。


それから、小さく言った。


「そうだね」


出動車両の扉が開く。


黒瀬が先に乗り込む。


伊吹は乗り込む前に、一度だけ隊舎を振り返った。


刑執行カウントは凍結された。


死刑日は近づかない。


だが、過去は待ってくれない。


二年前に置き去りにした名前が、今、現場から自分を呼んでいる。


伊吹は息を吸った。


そして、いつもの笑みを作ろうとして。


やめた。


そのまま車両に乗り込む。


扉が閉まる。


車両は旧都心第三区へ向かって走り出した。


窓の外で、街の景色が古くなっていく。


高層ビルの光が減り、細い道路と古い看板が増える。


昨夜から続いていた事件の赤色灯が、朝の街にまだ滲んでいた。


美月の声が車内に入る。


『現場到着まで五分。伊吹、通話前に確認します』


伊吹は目を閉じた。


「はい」


『犯人主導者の名前が判明しました』


車内の空気が少し変わった。


美月は続ける。


三枝蓮司(さえぐされんじ)。三十四歳。二年前の広域投資詐欺事件における被害者、三枝久美子(さえぐさくみこ)の息子です』


伊吹のまぶたが、わずかに動いた。


黒瀬はそれを見た。


美月が問う。


『伊吹。三枝久美子を覚えていますか』


伊吹は目を開けた。


一瞬だけ、答えが遅れた。


ほんの一瞬。


だが、黒瀬には十分だった。


伊吹はいつもの顔に戻す。


「ごめん」


声は軽い。


軽すぎる。


「覚えてない」


黒瀬は伊吹を見た。


灰原も、獅堂も、真神も、何も言わなかった。


美月の声が少し低くなる。


『そうですか』


「一万二千人以上いたんでしょ。全部は無理だよ」


伊吹は笑った。


誰も笑わない。


黒瀬は言った。


「伊吹」


「何、隊長」


「今の顔を覚えておく」


伊吹の笑みが、一瞬だけ止まった。


「怖いなあ」


「怖がっておけ」


伊吹は窓の外を見た。


赤色灯が近づいてくる。


民間金融相談センター。


古い四階建てのビル。


入口周辺には警察車両。


道路には規制線。


建物の一階窓には、内側から貼られた段ボールと、黒く濡れた床が見えた。


灯油の匂いが、まだ車内に届く前から想像できた。


WRISTに、新しい通信要求が表示された。


《警察交渉回線:接続待機》

《犯人側要求:伊吹透との通話》

《接続承認:統括官判断待ち》


美月の声が入る。


『伊吹、あなたは犯人に何を言うつもりですか』


車内の全員が、伊吹を見た。


伊吹は少しだけ黙る。


嘘をつけば、相手は動くかもしれない。


謝れば、相手は怒るかもしれない。


黙れば、人質が燃やされるかもしれない。


伊吹は静かに答えた。


「まず、相手の名前を呼ぶ」


美月が聞く。


『理由は』


伊吹は、窓の外の赤色灯を見たまま言った。


「被害者を、被害者ってまとめて呼ぶと、人はまた数字になる」


黒瀬は伊吹を見た。


伊吹は続ける。


「僕は、それをやった側だから」


車両が止まった。


扉が開く。


熱を持った朝の空気と、古い街の匂いが流れ込んでくる。


伊吹透の過去が、その建物の中で待っていた。


第6部隊リコードの次の現場は、嘘から始まった復讐だった。

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