第13話 リコード
午前八時五十九分。
第6部隊隊舎の共有スペースには、全員が集まっていた。
誰かが命令したわけではない。
だが、誰も部屋には戻らなかった。
大型モニターは黒いまま沈黙している。
壁の監視カメラは、いつも通りこちらを見ていた。
天井の生体センサーも、床の位置認証ラインも、何一つ変わらない。
ただ、空気だけが違っていた。
伊吹透はソファの背にもたれ、わざとらしく足を組んでいる。
「発表待ちって、合格発表みたいだね」
獅堂鉄平は腕を組んだまま言う。
「死刑囚の合格発表なんざ、聞いたことねえ」
「首の皮一枚つながるかどうかって意味では、かなり近いよ」
「笑えねえな」
「笑えないことを笑えるようにするのが、僕の長所だから」
真神アキラは壁際に立ち、目を閉じていた。
「長所だったのか」
伊吹がそちらを見る。
「真神くん、そこは流して」
「聞こえた」
「聞こえないふりも覚えよう」
「不要だ」
伊吹は肩をすくめた。
その横で、灰原ナギは工具ケースを足元に置き、膝の上で指を組んでいる。
保護フィルムを巻かれた指先は、まだ少しぎこちない。
それでも、彼女は工具ケースから離れなかった。
黒瀬玲央は、部屋の中央に立っていた。
座る気にはならなかった。
落ち着かないわけではない。
ただ、座って待つには、この場所は檻に近すぎた。
午前九時。
全員のWRISTが同時に震えた。
共有スペースの大型モニターにも、白い文字が浮かび上がる。
《第6部隊継続運用評価》
《最終審査結果:承認》
《運用区分:特務救助部隊》
《任務範囲:人質救出/民間人保護/爆発物二次災害対応/高危険区域救助/電子支援》
《統括官:白羽美月》
《隊長:黒瀬玲央》
《副隊長代理:伊吹透》
《刑執行カウント:凍結》
《残刑日数自然減算:停止》
《任務加算:有効》
《違反減算:有効》
《中央管制監視:強化》
《法務省監査ログ:常時転送》
《第6部隊正式運用開始》
誰も、すぐには声を出さなかった。
承認。
正式運用開始。
それは、自由の通知ではない。
刑が消えたわけでもない。
首輪が外れるわけでもない。
だが、元の房に戻される通知でもなかった。
そして、もう一つ。
死刑執行日が、止まった。
伊吹が最初に息を吐いた。
「おお」
獅堂が眉を寄せる。
「何だ、その声は」
「いや、何か、思ったより地味だったなって」
「派手な方が困るだろ」
「ファンファーレくらい鳴るかと」
灰原が小さく言う。
「鳴ったら嫌」
伊吹は笑った。
「たしかに」
真神はモニターを見たまま言う。
「副隊長代理」
伊吹の笑みが止まる。
「そこ拾う?」
「代理と書いてある」
「見えてるよ」
「隊長の次か」
「そういう言い方すると、責任が重くなるからやめよう」
黒瀬は伊吹を見る。
「重いぞ」
「隊長まで」
「正式に表示された」
伊吹はモニターを見る。
《副隊長代理:伊吹透》
彼はしばらくその文字を見ていた。
いつもの軽口が、少し遅れて出る。
「詐欺師に副隊長代理って、人選としてどうなの?」
黒瀬は答える。
「人を見る目はあるんだろ」
「騙す目だけどね」
「なら、騙される前に気づけ」
伊吹は少しだけ笑った。
「無茶言うなあ」
その時、共有スペースの扉が開いた。
白羽美月が入ってくる。
黒い制服。
硬い表情。
手には端末を持っている。
全員が自然にそちらを見た。
美月は立ち止まり、短く告げた。
「通知の通り、第6部隊の継続運用が正式に承認されました」
伊吹が軽く手を上げる。
「拍手は?」
「不要です」
「ですよね」
美月は端末を操作する。
大型モニターに、追加条件が表示された。
《継続運用条件》
《一、全任務における統括官承認制の維持》
《二、武装権限の事前承認制継続》
《三、民間人との不要接触禁止》
《四、隊員間通信ログ常時記録》
《五、中央管制による観察レベル引き上げ》
《六、統括官判断ログの即時監査転送》
《七、刑執行カウント凍結はリコード所属期間中に限る》
獅堂が低く言った。
「条件だらけだな」
美月は答える。
「当然です」
「自由になったわけじゃねえか」
「なっていません」
美月は全員を見る。
「あなたたちは今後も、死刑確定者です。NOXによる制御対象であり、隊舎外への自由移動は認められません。任務時以外の外出も、従来通り禁止です」
伊吹が小さく言う。
「夢も希望もない説明」
「現実です」
灰原がモニターを見ながら言った。
「でも、死刑日は止まる」
美月は灰原を見る。
「正式運用中に伴ない、残刑日数の自然減少は停止します」
伊吹が目を細めた。
「つまり、リコードにいる間は死刑日が近づかない?」
「そうです」
伊吹は軽く笑った。
「急に希望が出てきた」
美月はすぐに続ける。
「ただし、刑が消えたわけではありません。部隊の運用停止、除隊、重大違反、または中央判断によって凍結が解除された場合、残刑日数はその時点の残数から再び進行します」
獅堂が低く言う。
「檻の中にいれば、処刑台は止まるってわけか」
美月は否定しなかった。
「任務成功による加算は有効です。違反による減算も有効です」
灰原がぽつりと言った。
「止まるけど、減らされることはある」
「はい」
伊吹が薄く笑う。
「優しいんだか、性格悪いんだか」
黒瀬はモニターを見た。
「性格は悪いだろ」
美月は答えない。
それは、制度そのものへの評価だった。
死刑日は止まる。
だが、首輪は残る。
生きる時間は止められたのではない。
管理された。
黒瀬はその違いを、はっきり理解していた。
灰原がモニターを見ながら言った。
「でも、任務には出る」
美月は灰原を見る。
「はい」
灰原は少しだけ目を伏せた。
「爆弾もある?」
「任務内容によります」
「電子支援も?」
「正式任務範囲に含まれました」
灰原の目が、少しだけ動いた。
伊吹が横から言う。
「ナギちゃん、国家公認ハッカー?」
灰原は即答する。
「違う」
「でも、電子支援って」
「ハッキングじゃない。電子侵入、設備解析、遠隔制御支援」
「ほぼハッキングじゃん」
「違う」
美月が言う。
「灰原ナギの電子侵入権限は、任務対象施設および敵性機器に限定されます。NOX、WRIST、中央管制、残刑日数システムへの干渉は一切認められません」
灰原は短く答えた。
「分かってる」
「違反した場合は、重大違反として扱います」
「やらない」
伊吹が灰原を見る。
「やれない、じゃなくて?」
灰原は伊吹を見返す。
「やらない」
その声は静かだった。
やれないとは言わなかった。
黒瀬はそこを聞き逃さなかった。
だが、美月も同じだった。
美月は少しだけ灰原を見て、それ以上は問わなかった。
真神が聞く。
「制圧任務は」
「第6部隊の主目的ではありません。あなたたちの任務は救助です」
「殺すな、か」
美月は一瞬だけ黙る。
「救える状況を壊さないでください」
真神は目を細めた。
「言い方を変えただけだな」
「必要なら、何度でも変えます」
真神はそれ以上、言わなかった。
黒瀬は美月に聞いた。
「次の任務予定は」
「現時点ではありません」
「待機か」
「はい。正式運用に伴い、訓練計画と装備再点検を実施します」
伊吹が肩を落とす。
「結局訓練か」
黒瀬が言う。
「不満か」
「不満しかない」
「なら丁度いい」
「何が?」
「口を動かす余裕がある」
伊吹は嫌な顔をした。
「隊長、すぐ訓練に結びつけるのやめない?」
「副隊長代理だろ」
「その言葉、もう嫌いになりそう」
獅堂が鼻を鳴らす。
「早いな」
美月は端末を閉じた。
「正式運用にあたり、各隊員の役割を再確認します」
モニターに、隊員ごとの項目が表示される。
《黒瀬玲央:現場指揮/救助判断/部隊統制》
《伊吹透:交渉/心理誘導/避難統制/副隊長代理》
《灰原ナギ:爆発物処理/設備解析/電子侵入/遠隔制御支援》
《真神アキラ:狭所救助/近接制圧/負傷者搬出》
《獅堂鉄平:防護/避難路確保/重装備運用》
伊吹は自分の項目を見て、少しだけ黙った。
交渉。
心理誘導。
避難統制。
その文字は、地下街で使った声を思い出させる。
同時に、もっと古い何かにもつながっているようだった。
黒瀬はそれに気づいた。
だが、今は聞かない。
伊吹はすぐに笑って言った。
「僕だけ肩書きが怪しいね。心理誘導って、ほぼ詐欺じゃない?」
美月が答える。
「使い方によります」
「統括官、それ怖いこと言ってるよ」
「事実です」
「僕の才能が国家公認されたみたいで嫌だな」
真神が言う。
「嫌ならやめればいい」
伊吹は笑ったまま返す。
「やめたら死刑台がまた動き出すだけだからね」
その言葉で、空気が少しだけ沈む。
伊吹は自分で言ったくせに、目を逸らした。
黒瀬はモニターを見る。
正式運用開始。
刑執行カウント凍結。
その文字が、まだ白く残っている。
リコード。
救助部隊。
死刑囚の救助部隊。
矛盾だらけの名前だ。
だが、その名前で、二つの現場から人を連れて帰った。
美月は言った。
「本日より、第6部隊は正式部隊として扱われます」
誰も返事をしなかった。
美月は続ける。
「ただし、これは信頼ではありません」
伊吹が小さく笑う。
「言うと思った」
美月は伊吹を見ない。
「成果に基づく運用判断です」
黒瀬は短く言う。
「それでいい」
美月は黒瀬を見る。
「あなたはいつも、それでいいと言いますね」
「事実だからな」
「不満はないのですか」
「ある」
美月の目がわずかに動く。
黒瀬は続けた。
「だが、不満で現場は動かない」
美月は少しだけ黙った。
「……そうですね」
その返事は、以前よりも少しだけ柔らかかった。
伊吹がそれを聞き逃さない。
「あれ、今ちょっといい雰囲気?」
美月の声が冷える。
「違います」
黒瀬も言う。
「違う」
「二人で否定しなくても」
獅堂が低く笑った。
真神は興味なさそうに目を閉じる。
灰原だけが、モニターの《リコード》という文字を見ていた。
「リコード」
小さく呟く。
黒瀬は聞いた。
「何だ」
「記録し直す、みたい」
伊吹がそちらを見る。
「お、ナギちゃん文学的」
「違う。意味の話」
「分かってるよ」
灰原はモニターを見たまま言った。
「消すんじゃなくて、上書きでもなくて、もう一度記録する」
黒瀬は黙って聞いていた。
灰原の指先が、工具ケースの取っ手を軽く叩く。
「そういう名前なら、悪くない」
伊吹が笑う。
「ナギちゃんが褒めた」
「褒めてない」
「ほぼ褒めてた」
「違う」
獅堂が言う。
「悪くねえなら、それでいいだろ」
灰原は少しだけ考えた。
「うん」
美月はそのやり取りを見ていた。
表情は硬いままだった。
だが、目だけが少し違っていた。
その時、モニターの隅に新しい表示が出た。
《法務省監査室:通信接続》
美月が端末を見る。
「監査室からです」
黒瀬は画面を見た。
通信が開く。
映像はない。
音声だけ。
橘修司の声が、共有スペースに流れた。
『正式運用承認を確認しました』
美月が答える。
「白羽です。監査室からの通知を受領します」
橘の声は落ち着いている。
『第6部隊について、法務省監査室は継続して監査を行います。NOXログ、武装承認、処分申請、任務記録は常時確認対象です』
伊吹が小声で言う。
「歓迎されてないね」
橘は聞こえていたように言った。
『歓迎ではありません。監査です』
伊吹は小さく肩をすくめる。
「耳いいなあ」
橘は続ける。
『ただし、監査とは処分のためだけに存在するものではありません』
黒瀬は黙って聞いた。
橘の声は、以前と同じだった。
面会室でも、廊下でも、同じ声だった。
『記録は、あなた方を縛ります。同時に、あなた方を守る場合もあります』
美月が少しだけ目を伏せる。
昨日、自分が言った言葉と重なる。
橘は言う。
『第6部隊が正式運用となった以上、あなた方の行動はすべて記録されます。何を救ったのか。何を壊したのか。誰が承認し、誰が拒否したのか』
少し間が空いた。
『それを軽く考えないでください』
黒瀬が口を開く。
「橘」
美月が横を見る。
だが、止めなかった。
橘が返す。
『何でしょう、黒瀬玲央』
「記録すれば、変わるのか」
『すぐには変わりません』
「だろうな」
『ですが、記録がなければ何も残りません』
黒瀬は黙る。
橘は続けた。
『人は、記録のないものを簡単に消します。存在しなかったことにする。命令も、拒否も、救助も、罪も』
黒瀬の目が細くなる。
『だから残してください。あなた方が何をしたのかを』
灰原が小さく言った。
「失敗も?」
橘は少しだけ間を置いた。
『はい。失敗もです』
灰原は工具ケースを見る。
橘は続ける。
『失敗を隠せば、次に同じことで人が死にます』
灰原は返事をしなかった。
だが、その言葉は届いていた。
橘の通信は最後に、美月へ向けられた。
『白羽統括官』
「はい」
『あなたの承認ログも、今後より重くなります』
「承知しています」
『迷うことは、罪ではありません』
美月の表情が一瞬だけ固まった。
橘は静かに言った。
『迷った上で、記録に残る判断をしてください』
美月は答える。
「……承知しました」
通信が切れた。
共有スペースに、短い沈黙が落ちる。
伊吹が息を吐く。
「監査室長、話が重い」
獅堂が言う。
「軽い監査室長なんざ嫌だろ」
「それはそう」
真神が黒瀬を見る。
「訓練は」
伊吹が目を見開く。
「今の流れで?」
真神は平然としている。
「正式運用なら、必要だろ」
黒瀬はうなずく。
「訓練室へ行く」
伊吹は天井を仰いだ。
「やっぱりそうなるんだ」
獅堂が立ち上がる。
「肩慣らしだ」
灰原も工具ケースを持ち上げる。
「私はドローンと侵入端末の点検」
「ナギちゃん、それ訓練室でやる意味ある?」
「ある」
「何が?」
「気分」
伊吹は少し驚いた顔をする。
「ナギちゃんが気分って言った」
「言ってない」
「言ったよ」
「記録してないなら言ってない」
伊吹は黒瀬を見る。
「隊長、今の記録されてる?」
黒瀬は言った。
「されてるだろ」
伊吹は笑う。
「じゃあ言ったね」
灰原は不満そうに黙った。
美月がため息をつく。
「訓練は許可します。ただし獅堂は肩の負荷制限、灰原は指先の精密作業を二十分以内、真神は近接訓練の強度を下げてください」
伊吹が自分を指さす。
「僕は?」
「発声訓練」
「何それ」
「昨日の避難誘導で喉に負担がかかっています。医療担当から指示が出ています」
「まさかの喉ケア」
真神が言う。
「喋りすぎだ」
伊吹は真神を指さす。
「それ二回目」
「事実だ」
共有スペースの空気が、少しだけ緩む。
美月はそれを見ていた。
制御対象。
死刑確定者。
危険資源。
父の言葉は、まだ耳に残っている。
君の役目は、彼らを理解することではない。
制御することだ。
美月は端末を握る指に、少しだけ力を入れた。
理解することと、制御することは、同じではない。
だが、理解せずに制御できるのか。
それもまた、分からなかった。
訓練室へ向かう黒瀬たちの背中を見ながら、美月は小さく息を吐いた。
その日の午後。
第6部隊の正式運用開始は、外部には公表されなかった。
ニュースでは、新東京第七地下街の爆発事故について報道が続いている。
『警察特殊救助班と消防による迅速な対応で、地下街に取り残された二十七名全員が救助されました』
画面には、救助された避難者の映像が流れている。
顔にはぼかしが入っている。
声も加工されていた。
『大きな盾を持った人が、天井を支えてくれて……その下を通りました』
獅堂は共有スペースのテレビを見て、露骨に顔をしかめた。
伊吹がにやりとする。
「大きな盾の人」
「見るな」
「見てるのはテレビだよ」
「消せ」
「照れてる?」
「消せ」
灰原がリモコンを取って音量を下げた。
テレビの中では、別の避難者が話している。
『声が聞こえたんです。走らないで、前の人だけ見てって。あの声がなかったら、たぶん押し合いになってました』
伊吹は一瞬だけ黙った。
黒瀬はそれを見た。
伊吹の顔には、いつもの軽い笑みが戻っている。
だが、目の奥だけが少し違う。
伊吹はすぐに言った。
「僕の声、全国デビュー?」
真神が言う。
「加工されている」
「夢がないなあ」
テレビでは、次の証言が流れた。
『爆発するって聞いて、もう駄目だと思った。でも、誰かが止めてくれたんです』
灰原は画面を見なかった。
工具を並べる手だけが、わずかに止まる。
黒瀬は何も言わない。
止めた。
そう言われることが、今の灰原にはまだ重い。
それでも、その言葉を消すことはできない。
救われた側にとっては、止めてくれたのだ。
テレビの報道は、最後にこう締めた。
『なお、警察は今回の爆発について、テロの可能性も視野に捜査を進めています』
画面が切り替わる。
コメンテーターが何かを話し始める。
伊吹がリモコンを取ってテレビを消した。
「はい、終わり」
獅堂が言う。
「お前が消すのか」
「僕にも照れる権利がある」
真神が短く言う。
「声だけだろ」
「声は人格だからね」
灰原がぽつりと言う。
「詐欺師っぽい」
「ナギちゃん、それ褒めてる?」
「違う」
伊吹は笑った。
だが、その笑みは少しだけ薄かった。
夕方。
黒瀬は一人、訓練室に残っていた。
低出力スタンバトンを手に、型を確認する。
一撃。
防御。
拘束。
押し返す。
離脱。
殺すためではない動き。
止めるための動き。
救うための動き。
言葉にすれば綺麗だ。
だが、現場では泥と煙にまみれる。
動きの途中で、訓練室の扉が開いた。
美月だった。
黒瀬は動きを止める。
「統括官」
「まだ訓練ですか」
「他にすることがない」
「休むことも任務の一部です」
「よく言う」
美月は少しだけ眉を寄せた。
「本気で言っています」
「分かってる」
黒瀬はバトンを下ろした。
美月は訓練室の中へ入る。
「第6部隊の正式運用に伴い、今後は任務頻度が上がる可能性があります」
「だろうな」
「身体だけでなく、判断の消耗も管理対象になります」
「俺たちの消耗まで記録か」
「はい」
「悪趣味だな」
「必要です」
黒瀬は短く笑った。
「その言葉、便利だな」
「便利ではありません。逃げずに言うには、それしかありません」
黒瀬は美月を見る。
以前の美月なら、ただ規則を盾にしているように見えた。
今は少し違う。
規則を盾にしている。
それは同じだ。
だが、その盾の後ろに、自分も立とうとしている。
黒瀬はバトンをケースへ戻した。
「中央は、俺たちをどう見ている」
美月は少しだけ黙った。
「使える部隊」
「だろうな」
「同時に、危険な部隊です」
「それもだろうな」
美月は黒瀬を見る。
「あなたは、それを分かっていて続けるのですか」
「続けるかどうかは、中央が決めた」
「あなたの意思を聞いています」
黒瀬は少しだけ黙った。
自分の意思。
そんなものは、死刑判決を受けた時に、ずいぶん遠くなったと思っていた。
だが、現場では勝手に戻ってくる。
子どもを見れば動く。
閉じ込められた声を聞けば止まらない。
爆弾の前で震える仲間を見れば、声をかける。
黒瀬は言った。
「出る現場があるなら出る」
「それは昨日も聞きました」
「なら同じだ」
美月は視線を落とす。
「あなたは、何のためにですか」
黒瀬は答えない。
美月は続けた。
「残刑日数のためですか。再調査申請のためですか。それとも、助けたいからですか」
黒瀬は美月を見た。
三十日申請。
事件再調査。
自分の冤罪。
そのために動いている。
それは間違いではない。
だが、それだけでもない。
黒瀬は短く言った。
「今は、全部だ」
美月は目を上げる。
「全部」
「日数もいる。申請もいる。助けられるなら助ける。それだけだ」
「矛盾しています」
「してるな」
「それでいいのですか」
黒瀬は少しだけ息を吐いた。
「人間なんて、そんなもんだろ」
美月は返事をしなかった。
父は、迷いを嫌った。
迷いは人を殺すと言った。
だが、迷いのない人間が、本当に人を救えるのか。
美月には、まだ分からない。
黒瀬は言った。
「統括官」
「はい」
「あんたは、俺たちを制御するんだろ」
美月の表情が固くなる。
「そのつもりです」
「なら、ちゃんと見ておけ」
「見ています」
「監視じゃない」
黒瀬は美月を見る。
「判断を間違えた時に止められるくらいには、見ておけ」
美月はしばらく黙った。
その言葉は、挑発ではなかった。
信頼でもない。
だが、役割を渡す言葉だった。
美月は静かに答えた。
「分かりました」
黒瀬はうなずく。
それで会話は終わった。
その夜。
隊舎の照明が夜間モードに切り替わった頃、伊吹は共有スペースに一人でいた。
テレビは消えている。
テーブルには、飲みかけの水。
WRISTの画面には、今日の正式運用通知がまだ残っていた。
《副隊長代理:伊吹透》
《役割:交渉/心理誘導/避難統制》
《刑執行カウント:凍結》
伊吹はその文字を見て、小さく笑った。
「心理誘導ね」
自分で言って、嫌な響きだと思った。
嘘をつくこと。
相手の欲しい言葉を出すこと。
不安を読み、隙を探し、信じたいものを見せること。
それが伊吹透の生き方だった。
人を騙して、生きてきた。
昨日は、それで人が動いた。
走らず、押さず、泣きながら進んだ。
声が人を助けた。
その事実が、気持ち悪いほど胸に残っている。
死刑日は止まった。
だが、過去は止まらない。
伊吹はWRISTを閉じようとした。
その瞬間、通知が入った。
通常の隊内通知ではない。
中央管制からの任務予備情報。
伊吹の表情が変わる。
画面に、赤ではなく白い文字が浮かぶ。
《次期任務候補:交渉支援案件》
《事案種別:立てこもり/人質保護/特殊詐欺関連》
《対象施設:旧都心第三区・民間金融相談センター》
《容疑者グループ:未確定》
《関連ワード照合中》
伊吹の指が止まる。
関連ワード。
その下に、さらに一行が表示された。
《照合一致:二年前・広域投資詐欺事件》
《参考関係者:伊吹透》
伊吹は、画面を見つめたまま動かなかった。
いつもの笑みは消えている。
部屋の入口で、足音が止まる。
黒瀬だった。
「伊吹」
伊吹は反射的にWRISTを伏せた。
遅かった。
黒瀬の目には、表示の一部が入っていた。
参考関係者。
伊吹透。
黒瀬は何も聞かなかった。
伊吹は笑う。
いつものように。
軽く、薄く、何でもない顔で。
「何、黒瀬ちゃん。夜のお散歩?」
黒瀬は伊吹を見る。
「その顔、やめろ」
伊吹の笑みが、わずかに固まる。
「どの顔?」
「騙す時の顔だ」
共有スペースの空気が止まった。
伊吹は数秒黙り、それから笑った。
「ひどいなあ」
黒瀬は答えない。
伊吹はWRISTを閉じる。
「まだ任務じゃないよ。候補ってだけ」
「関係あるのか」
「さあ」
「伊吹」
伊吹は立ち上がった。
「関係ない、って言ったら信じる?」
黒瀬は即答しなかった。
伊吹はその沈黙を見て、いつもの調子で肩をすくめる。
「正解。僕でも信じない」
黒瀬は静かに言った。
「話せる時に話せ」
「優しいね」
「命令じゃない」
「だから困るんだよ」
伊吹は共有スペースの出口へ向かう。
すれ違う直前、彼は小さく言った。
「僕はさ、隊長」
黒瀬は振り返る。
伊吹は背中を向けたまま続けた。
「嘘で人を殺したことがある」
黒瀬は黙る。
伊吹は振り返らなかった。
「昨日は、嘘じゃなかったのかな」
その声は、いつもの伊吹ではなかった。
軽くない。
逃げてもいない。
ただ、少しだけ割れていた。
黒瀬は答えた。
「昨日の声で、人は動いた」
伊吹は小さく笑った。
「証言?」
「事実だ」
「そっか」
伊吹は歩き出す。
「じゃあ、今日はそれでいいか」
共有スペースの扉が閉まる。
黒瀬は一人残された。
WRISTが短く震える。
同じ予備情報が、隊長端末にも転送されていた。
《次期任務候補:交渉支援案件》
《特殊詐欺関連》
《参考関係者:伊吹透》
《第6部隊出動可能性:高》
黒瀬は表示を見た。
第6部隊は正式に始まった。
ひばりの森こども園。
新東京第七地下街。
二つの現場を越え、死刑囚たちは救助部隊として記録された。
死刑日は凍結された。
だが、罪は凍らない。
過去も凍らない。
救うたびに、過去が掘り返される。
誰かを助けるたびに、自分が壊したものが戻ってくる。
黒瀬はWRISTを閉じた。
首元のNOXが、冷たく沈黙している。
明日もまだ、彼らは死刑囚だ。
だが、今日から彼らは正式に、第6部隊だった。
檻の中で始まった救助部隊。
罪を消せないまま、人を救う者たち。
その最初の記録が、今、刻まれた。




