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グランとセシルが、大広間に戻ると、主役の不在をよそに宴は盛り上がりを見せていた。
やがて、祝宴の進行役から、貴賓の登場が告げられた。正面の観音開きの扉が開けられ、現れた人物に列席者の間からどよめきが起きた。
―― 『蒼の大地』リュイファ帝国前皇帝ウィ―フォン・ヒイロ・リュイファ
深い群青色に銀の縁取りのされたマントを纏い正装であらわれた姿は、老いてもなお、その威厳を放っていた。ゆっくりと歩みを進める先にいるのは、先ほど名乗りを交わしたばかりの孫のセシルと黒の皇帝グラン。
両脇に道を開けた列席者の垣根を通り、二人の前に辿り着いた蒼の古老は、白い髪と瞳を持つ孫を見つめると、何も言わずしっかりと抱きしめた。
それだけで十分だった。
大広間に歓声と拍手が巻き起こる。
「セシリエス殿下万歳」「ローダン帝国万歳」「リュイファ帝国万歳」
誰彼ともなく、叫んでいた。
セシルは、溢れる涙を抑えることが出来なかった。そのセシルの背中を優しくさするウィ―フォンの目からも涙が溢れていた。
この少し前、テラスでセシルたちが顔を会わせていたとき、その場に宰相イオリも現れた。
宰相イオリは、前皇帝ウィ―フォンにセシルの為にも祝宴に顔を出してほしいと請い、ウィ―フォンは、「この老躯が、孫のセシルの役に立つなら」と、引き受けたのだ。
その時、祖父でもある蒼の古老は、セシルに言った。
「実はのぉ、初めはお前の祝宴にケチでもつけてやろうと思って隠れてやって来たのだ。だが、お前の心根に負けてのぉ……。フィオナは、良い孫に育ててくれた」
「……えっと、そんな」
照れ隠しに視線を伏せたセシルだが、顔を上げると真っ直ぐに年老いた祖父を見つめた。
「……あの……、俺、森で母さんと一緒に暮らして幸せでした。いろんなことがあったけど、母さんの子で幸せでした」
その言葉に、ウィ―フォンは、うんうんと何度も頷いた。
リュイファ帝国前皇帝の登場で、宴は、祝いのムードが一気に高まった。列席者も次々と二人の前に偽りのない祝いの言葉を述べに現れた。
グランは、今度こそセシルを逃すまいとセシルの腰をしっかりと抱き寄せた。
周囲には、千人もの客をもてなすためにセシルが見たこともない料理が並んでいる。
二人は、挨拶を交わしながら大広間を回り、今日の為に用意された豪華な御馳走も味わった。
セシルの好みを知り尽くしたグランは、片手ではセシルの腰を掴み、空いた手で、料理をつまみセシルの口に運んだ。
「……グ、グラン、みんな見てるから……」
「それが、どうだというのです。兄上が、どこぞの者と楽しげに踊っている時、私は、勤めに励んでいたのです」
「だって、あれはさ……」
セシルが、答えに窮していると、一人の女性に声を掛けられた。年の頃は、二十代半ばか。大きな瞳に可憐な姿は、魅力的だ。
一瞬、グランの瞳が、険呑な気を孕んだが、後ろに夫らしき人物を認めると眼差しは緩められた。
女性の声は、見た目を裏切らず愛らしかった。
「声を掛ける無礼をお許しください。私、男爵家エレ―ヌ・ボウェ・トティーにございます。セシリエス殿下に、一言お礼を申し上げたく……」
「俺に、……礼ですか?」
「はい。私の兄は、殿下の親衛隊班長を仰せつかるオルゲムント・ソフィーレ・フルールです」
「えっ、えええええっ」
セシルは、今日、二度目の驚愕の声を上げた。
何しろ、目の前の女性と厳ついオルゲムントが、結びつかない。
今、オルゲムントは、セシルの親衛隊班長として隊長ドモンと共に壇上の長椅子の後ろに直立不動で控えている。
ちらりとその顔を覗きみ比べてみても似ているところを見つけられない。
セシルの驚愕をよそにオルゲムントの妹は、続けた。
「兄は、オルグ兄さんは、五年前、私のせいでフルール一族を追われたのです。その後、会うことも便りも、一切ありませんでした。しかし、先日、5年ぶりに手紙が来たのです」
「手紙が?」
「はい。……『全ての過去に感謝する』と……」
―― 全ての過去に感謝する ――
たった十文字の言葉。しかし、その十文字は、これまで自分の身に起きた良いことも悪いことも全て、また、またその過去で形作られた自分自身をも受け入る事が出来たと伝えているのだろう。
「オルグ兄さんは、今、とても幸せなのだと思います。これもセシリエス殿下のおかげです。ありがとうございました」
そう言うと、オルゲムントの妹は、深く頭を下げ去って行った。
オルゲムントの妹を見送ったセシルは、再びグランに捕まったまま自分を祝う宴を楽しんでいた。アルコールが苦手なセシルに、グランは、生の葡萄の実を入れた果実水を差し出した。
「兄上、これは、兄上の為に特別作らせたものです」
「ありがとう、グラン。とても美味しい」
「セシリエスと名付け、我が帝国の名品とする予定です」
「ブッ……。それは、かなり恥ずかし過ぎるっていうか……」
噴出したセシルは、慌てて口を拭った。
「……あれ?」
「兄上、どうなさいました?」
「グラン、ちょっとだけ離して」
「だから何を?」
「知り合いがいたんだ」
「知り合いですと?」
グランは、怪訝そうに眉を寄せた。
帝都に来て日が浅く、皇宮に閉じ込め、否、皇宮で保護していた兄に知り合いなどいるはずがない。
グランが、僅かに気を抜いた隙に、セシルは、知り合いに向かい、行ってしまった。
「ズシーヨさーん」
大勢の客が、ごった返している中では、声を張り上げなければ聞こえない。セシルは、手を振りながら声をあげた。
驚いたのは、帝都まで共に旅をしたズシーヨだ。一斉に自分に視線が集まり、咄嗟に人の影に隠れるが、セシルは、容赦なかった。
「ズシーヨさーん、俺です。白です。白ですよ」
ズシーヨの顔から、一気に血の気が引く。セシルの後には、鋼の皇帝がいた。
弾むように現れたセシルは、ズシーヨの手を両手で掴むとぶんぶんと振った。
「ズシーヨさん、お久しぶりです。俺、ずっと会いたかったんです。また会えるなんて、本当にうれしいです」
「……」
満面の笑みを湛えるセシルの後ろで、鋼の皇帝が口を開いた。
「兄上、この者は?」
わかりきっているだろうに、皇帝は、その兄に問うた。
「グラン、ズシーヨさんは、旅の中でいろんな事をいっぱい教えてくれたんだ。俺、田舎者だし、世間知らずだから」
ズシーヨの顔はさらに青くなる。
「グラン、知ってる?安い芝居は、お決まりの展開なんだ」
「……お決まりの展開?」
グランは、固まるしかないズシーヨを向いた。
「ズシーヨ、我が兄が世話になった。それから、重要な任務ご苦労であった」
「いえ、もったいなきお言葉。私は、ただ兄の指示に従ってまでのこと」
「ズシーヨさん、お兄さんがいたんですね」
グランとズシーヨが、同時にセシルを見る。
「兄上、ズシーヨの兄は、宰相を務めるイオリです」
「え、ええええっ」
セシルは、今日、何度目かの驚きの声をあげた。
グランは、一瞬片手で顔を覆った。ズシーヨも宰相イオリも共に名乗っていたはずだ。しかし、そこから何かを察するなどという芸当は、この兄には無理なことだった。
グランは、改めてセシルの警戒を強める事を密かに誓った。
宴は、そろそろ終焉の時を迎える。楽隊も最後の曲を演奏するようだ。グランは、給仕をつかまえると、何事か命じた。
セシルの耳に馴染みの曲が、届く。
「……グラン、この曲……」
グランは、先刻、薔薇の貴公子アランがしたように、胸に手を当て跪いた。
「セシリエス・シドウ・ロウダン、私と一曲踊って頂きたい」
「えっ、でも、グランは、踊れないんじゃ……」
「踊れないのでは、ありません。踊る相手がいなかったのです。私が踊る相手は、あなたただ一人。どうか、一曲願います」
「は、はい」
グランは、セシルの手をとると、大広間の中央に歩みを進めた。
初めて、公の場で踊る皇帝に、皆、目を見開き、驚きの声をあげた。
グランは、愛しい兄の背に手を当て、セシルは、おずおずとグランの肩に手を当てた。まさか、兄弟で踊るとは、思ってもみなかった。
ステップを踏み始めると、グランは、セシルの体を引き寄せた。
「ちょっと、グラン近すぎだよ」
「兄上、あの公爵と踊っているときは、もっと密着しておられました」
「そ、そんなことないよ」
セシルは否定するが、体は更に引き寄せられた。
おそらく誰かと踊るなど久しぶりだろうに、グランのステップもリードも完ぺきだった。くるりと廻されたセシルは、自然と笑顔になった。
「グラン、こんなにダンスが上手いなんて思わなかった」
「ありがとうございます。兄上、また、踊って下さいますか」
「もちろんだよ」
グランは、本当は、兄にあの公爵とどちらが上手いかと問いたかったが止めた。
この二人の時間に、名を出すのも嫌だった。
次に、くるりとセシルを廻すと、グランは、セシルの耳元に囁いた。
「兄上、蒼の皇子と二人きりでテラスで何をされていたのですか?」
「えっ、えっと……そうだ。外交だよ」
セシルは、咄嗟に叔父リュードの言葉を思い付いた。他国の皇子と話をしていたのだから、嘘ではない。セシルにしては上出来だ。
「ほう、外交ですか。外交する時は、跪かれ、手を握られるのでしょか?」
当然グランのもとには、様子は元より、セリフの一つ一つまで報告が入っている。
「み、見てたの?」
「いえ」
グランも嘘は、ついていない。
動揺し、ステップが疎かになるセシルを、グランは巧みにリードした。
「……こ、交渉してたんだ」
「交渉ですか?それで兄上は、その交渉を受けられると?」
「ま、まさかっ」
つい声が大きくなった。
セシルは、思っていた。蒼の皇子ティーリウは、見知らぬ土地で不安だったのだと。だから、セシルと親しくなったことを勘違いしたのだと。
若いティーリウは、やがて立派な皇族になり、相応しい妃を迎えるはずだ。
大切な従兄弟を、一時の気の迷いで狂わしてはいけない。
セシルにとって皇子ティーリウは、どこまで行ってもかわいい弟のような存在だ。
もちろんグランも、そんなことは分かっているのだが、いささか面白くない気持ちを治めるため、かわいい兄をいじめてみた。
「そうですか。わかりました。交渉は、決裂したのですね」
「うん。……あ、ちょっとグラン」
グランは、セシルをふわりと抱き上げ舞った。
いつの間にか、踊っているのは、二人だけだった。
そして、踊るグランとセシルの世界も二人だけだった。
皇帝でも、殿下でもない。一人の人間、グランとセシルだった。
グランが、言った。
「愛しています」
「……グランどうしたの?急に」
「兄上、あなたの心も体も全て私の物だ」
「……え?」
「私の伴侶として、一生あなたを離さない。絶対離さない」
戸惑うセシルの唇は、グランの唇で塞がれた。




