氷のレッスン室【前編】
「……はぁ」
校舎の長い廊下を歩きながら、本日何度目になるか分からない息を吐き出す。
手元のスマホ画面には、さっき理事長から送りつけられてきたメッセージと、スタジオの部屋番号が表示されていた。
『本日16時より第3レッスンスタジオ。氷海氷華の自主練に立ち会うこと。逃げたら全校放送で君の経歴を朗読する』
「脅迫でしか命令できないのかよ、あのジジイ…」
しかしまあ。文句をつぶやいても、事態が良くなるわけじゃない。
俺はただ、平穏に3年間を過ごして卒業証書が欲しかっただけだ。目立ちたくもないし、芸能界のゴシップや人間関係に巻き込まれるのも御免だった。
それなのに、入学初日から学園の一番の有名人の担当サポートだなんて、面倒くさい以外の何物でもない。
(しかもこいつ以外にも複数人いるんだよな…)
俺は軽く絶望した。
レッスン棟の3階。
周囲から漏れ聞こえる歌声やダンストラックの重低音を通り抜け、俺は『第3スタジオ』と書かれたスライドドアの前に立った。
ドアの小さなガラス窓から中を覗くと、広い鏡張りの空間で、一人の少女がひたすらステップを踏み込んでいた。
長く美しい黒髪が、馬の尻尾となり動くたびに綺麗な軌道を描いて揺れる。
入学式で見せたあの圧倒的な立ち姿のまま、彼女は一切の手抜きなしで汗を流していた。
(……ほんと、よくやるよな)
ノックを二回。
返事を待たずに、俺はドアを少しだけ開けて声をかけた。
「失礼しまーす……」
音の止まったスタジオに、俺の気の抜けた声が響く。
軽やかに跳躍していた少女——氷海ひうみ 氷華ひょうかがピタリと動きを止め、こちらを振り返った。
吸い込まれそうなアイスブルーの瞳が、じっと俺を射抜く。
俺の体は息の根を止められたように固まる。
タオルで首元の汗を拭いながら、彼女はゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
一歩近づくたびに、ピリッとした緊張感が伝わって来る。
流石は人気グループ『Aisis』の絶対的エース。ただそこに立っているだけで、周りの空気を自分のペースに引き込む独特のオーラがあった。
「……遅いわね」
開口一番、氷華から返ってきたのは氷のように冷たい声だった。
「三分と四十秒の遅刻。理由を聞かせてもらおうかしら」
「いや、指定された時間は16時でしょ? 今15時59分だけど……」
「プロの世界で5前行動は常識よ。ジャストに現れるなんて、準備も意識も足りていない証拠。時間を守れない人間とまともな仕事ができるとは思えないわ」
(うわ……噂通り、めちゃくちゃめんどくさい……)
俺は心の中で深く溜息をついた。
彼女は胸元のシルバーのエンブレム——サポート科の校章を冷酷な視線で見下ろしてくる。
「あなたが今日から私の専属サポートを担当する……久瀬くぜくん、だったかしら」
「久瀬湊。よろしく、氷海さん」
「挨拶は結構よ。単刀直入に言うけれど——私はあなたを私のパートナーとして認めるつもりはないわ」
一切の躊躇もない、完全な拒絶。
正直、近いことを言われると想像していたので驚きはない。
「私に必要なのは、スケジュール管理と衣装の手配を完璧にこなすマネージャーであって、同世代の素人による『演技指導』なんて求めていない。理事長からの特例だからって、調子に乗らないで頂戴」
「……あ、そう。了解」
(実際俺に演技の指導やらなんやらはできんしな)
あっさりと頷いてみせると、突っかかる気満々だった様子の氷華が、わずかに毒気を抜かれたように目を見開いた。
「……え?」
「いや、俺も無理にサポートなんてしたくないし。正直、早く帰って部屋でゴロゴロしたいんだよね。『久瀬は使えなかった』って理事長に報告してくれて構わないよ。じゃ、お疲れ様でした」
俺がそう言って足をくるりと翻し、ドアノブに手をかけると、後ろから「待ちなさい!」と鋭い声が飛んできた。
「何なの、その態度は……!?」
振り返ると、氷華が真っ赤……とまではいかないが、不快感を隠そうともせずにこちらを睨みつけていた。
「あなた、サポート科の生徒としての誇りや責任感はないの!? 学園の特例で私の担当に選ばれたんでしょう!?」
「いや、俺は別に望んで選ばれたわけじゃないし……。断ったら留年させるぞって脅されただけだからさ」
(招待をバラすぞって脅されたこと言うわけにはいかないからな。)
「はあ……!?」
氷華は呆れたように呆然とし、それから心底蔑むような溜息を吐いた。
「……呆れた。理事長もどういう風の吹き回しか知らないけれど、こんな無気力な人間を私のパートナーにするなんて、どうかしているわ」
「俺もそう思う。だから、お互いのためにこの話は無かったことに——」
「ダメよ」
氷華は腕を組み、冷ややかな瞳で俺を制した。
「一度決まった学園の決定を、理由もなく突っぱねたら私の評価にも関わるわ。……いいでしょう。あなたがどれだけの『サポート』ができるのか、ここで証明してみせなさい。もし何の役にも立たないと私が判断したら、正式に担当変更を申請するわ。クビあにする口実を得るのを楽しみにしてるわ。」
「えぇ……面倒くさいなぁ……」
俺が露骨に嫌そうな顔をすると、氷華の額に青筋がピクッと浮かぶのが見えた。
「分かったらもう少しシャキッとしなさい! 私の練習を見るくらい、できるでしょう!?それとも、そんなことすらできないの?」
スタジオの壁際に置かれたパイプ椅子を指差される。
断って逃げ出したら、そのまま理事長へ報告されて面倒なことになりそうだ。
俺は諦めて「はーい……」と気のない返事をし、言われた通りパイプ椅子に腰を下ろした。
「じゃあ、どうぞ。見てるから好きにやって」
「……フン。後悔させないで頂戴」
氷華は大型モニターのタッチパネルを操作し、曲のトラックを再生した。
スタジオ内に、重厚なピアノとストリングスが織りなすドラマチックな音楽が響き渡る。
来月開催されるという、大型ドラマのオーディション課題曲兼、演技パートの音源らしい。
音楽が始まると同時に、氷華の表情が一瞬で『プロ』のそれに変わった。
(……へえ)
俺は肘を突き、頬杖をつきながら、彼女のパフォーマンスを見つめ始めた。




