綺麗な花だけで作った家
家の中央に。
白い扉が浮かび上がった。
壁に取りつけられているわけではない。
廊下と食堂の境目。
何もなかった空間へ、扉だけが立っている。
白い木。
錆びた取っ手。
下部に残る、焼け焦げたような黒い染み。
夜一は知っていた。
夜明堂の地下温室。
最も奥にある、開かない扉と同じ形だった。
「父さん」
夜一が呼ぶ。
返事はない。
扉の向こうから聞こえた声も、もう消えている。
代わりに。
規則正しい包丁の音がした。
とん。
とん。
とん。
朝食を作る音。
「開けるの?」
マシロが尋ねた。
声は平静だった。
だが。
彼女の髪に咲いていた花々は、すべて閉じかけている。
「開ける」
「危険」
「知ってる」
「答えがあるとは限らない」
「それも知ってる」
マシロは白い扉を見る。
「私の中の全員が、怖がってる」
夜一の手が止まる。
百人以上。
彼女が食べてきた残花。
混ざった記憶。
名前を知らない人生。
そのすべてが、扉の向こうを恐れている。
「なら、ここに残れ」
「嫌」
「危険だと言っただろ」
「危険と答えは同じじゃない」
「今、自分で答えがあるとは限らないと言った」
「限らないだけ」
「屁理屈だな」
「夜一に似た」
「嫌なことを言うな」
マシロは夜一を見る。
「どうして開ける?」
「父親がいる」
「それだけ?」
夜一は答えない。
「私を作った理由を聞く?」
「聞く」
「聞いて、実験だったら?」
「関係ない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「本当に関係ないなら、そんな顔をしない」
「顔で決めるな」
「今は顔で分かる」
マシロは一歩近づく。
「私が凪と同じだったら困る顔」
夜一は黙る。
「私が小春の代わりだったら、もっと困る顔」
「黙れ」
「今、すごく綺麗な未来を見ている」
「幸福視は使ってない」
「能力がなくても、人間は見る」
白い扉の向こうから。
少女の笑い声がした。
夜一の呼吸が止まる。
知っている声。
十年間。
夢の中で。
残花の奥で。
何度も探した声。
「お兄ちゃん」
扉の向こうで、小春が呼んだ。
夜一は取っ手へ手を伸ばす。
マシロが袖を掴んだ。
「父親が全部直す未来」
「離せ」
「誰も送らなくていい未来」
「マシロ」
「マシロも人間になれる。小春も帰る。伊吹家も全員残る」
「離せ」
「今の夜一は、残花と同じ匂いがする」
夜一はマシロを見る。
金色の瞳。
青く濁った片方。
髪に咲く、閉じた花。
「だから行く?」
「ああ」
「残花と同じでも?」
「同じだからだ」
「何が」
「見ないで切る方が危険だ」
夜一はマシロの手を外さなかった。
袖を掴んだ指ごと。
自分の手の中へ入れる。
「相棒として来るか」
マシロは白い扉を見る。
そして。
「行く」
短く答えた。
現在の澄花が、二人へ近づく。
「私も行きます」
「残ってください」
「嫌です」
「家が崩れる可能性がある」
「だから行くんです」
澄花は残花側の自分を見る。
美緒。
冬一。
凪。
「誰か一人だけ置いて、また勝手に決めるんですか」
「危険です」
「知っています」
「戻れないかもしれない」
「それも」
澄花は赤い留め針へ触れる。
「私の家族のことです」
残花側の澄花も前へ出た。
「私も」
現在の澄花が振り返る。
「あなたは」
「私の家族でもある」
「でも」
「あなたばかり、本当の澄花みたいに話さないで」
二人の同じ顔が向き合う。
疲れた現在。
幸福な残花。
「私も、お母さんと十年暮らした」
残花側の澄花は言う。
「その記憶を、偽物にされたくない」
「偽物とは言ってない」
「なら連れていって」
夜一は二人を見る。
どちらも。
本人だった。
同じ名前を持ち。
違う十年を生きている。
「分かりました」
夜一は言った。
「ただし、俺の指示に従ってください」
「分かりました」
二人の澄花が同時に答える。
少しだけ。
互いを見て、嫌そうな顔をした。
美緒も凪を抱いて立ち上がる。
「私も行く」
「お母さん」
「もう逃げない」
現在の澄花は返事をしなかった。
冬一が美緒の隣へ立つ。
「俺もだ」
「全員で行くつもりですか」
夜一は周囲を見る。
残花側の冬一。
現在側の病気の冬一は、ここにはいない。
だが。
青い根の奥で、痩せた父親の呼吸が聞こえている。
二つの身体が、まだ同時に存在している。
「父親は」
「中にいる」
マシロが言った。
「どちらも?」
「どちらも」
「なら行くしかない」
夜一は白い扉へ向き直った。
取っ手を握る。
冷たい。
地下温室の鉄扉よりも。
火事の日に触れた倉庫の扉よりも。
「開けるぞ」
扉を引く。
朝の光が溢れ出した。
◇
扉の向こうは、伊吹家の食堂だった。
同じ壁。
同じ窓。
同じ机。
だが。
窓の外には、雨の夜ではなく。
永遠に続く朝が広がっている。
青空。
白い雲。
庭の花。
時計は七時十二分で止まっていた。
「おかえり」
台所から、美緒が現れた。
すぐ後ろにも。
美緒がいる。
夜一たちと一緒に入った美緒。
食卓で朝食を作る美緒。
二人は同じ顔で見つめ合う。
「これは」
現在側の美緒が言葉を失う。
食卓には、七人分の皿が並んでいた。
美緒。
冬一。
澄花。
凪。
夜一。
マシロ。
小春。
だが。
椅子は八脚ある。
一つだけ空いている。
「お兄ちゃん」
少女が台所の奥から出てきた。
短い髪。
黄色いワンピース。
左肩に傷はない。
火傷の痕も。
煙に焼かれた咳も。
十年前のまま。
久世小春。
夜一の妹。
「遅いよ」
小春は笑った。
「朝ご飯、冷めちゃう」
夜一は動けなかった。
幸福視ではない。
触れてもいない。
目の前にいる。
声も。
歩き方も。
笑うと右の頬だけ少し上がる癖も。
すべてが記憶と同じだった。
「小春」
名前が口から落ちた。
「うん」
少女が答える。
それだけで。
十年間、閉じていた何かが開きかけた。
「触るな」
マシロが言った。
小春が彼女を見る。
「誰?」
「花守マシロ」
「お兄ちゃんの友達?」
「相棒」
「そうなんだ」
小春は嬉しそうに笑う。
「お兄ちゃん、友達できたんだ」
「友達ではない」
「相棒は友達じゃないの?」
「違う場合もある」
「難しいね」
小春は夜一へ近づく。
夜一は一歩も動けない。
「お兄ちゃん」
手が伸びる。
左肩。
火傷痕がある場所へ。
夜一の身体が強張った。
マシロが二人の間へ入る。
「触るな」
小春が首を傾げる。
「どうして」
「夜一が壊れる」
「お兄ちゃんは壊れてないよ」
「壊れている」
「ひどい」
「事実だ」
「マシロ」
夜一が呼ぶ。
「退け」
「嫌」
「小春だ」
「分からない」
「俺には分かる」
「何で」
「妹だからだ」
「妹なら、間違えない?」
夜一は答えない。
小春が悲しそうに笑う。
「私、偽物なの?」
「違う」
夜一は即座に言った。
「お兄ちゃん」
「お前は小春だ」
「夜一」
「黙れ」
食卓の周囲で。
伊吹家の者たちは、それぞれ自分の幸福な姿を見ていた。
現在の澄花は。
朝食を食べる、残花側の澄花を。
残花側の澄花は。
制服に傷も隈もない、自分自身を。
美緒は。
子どもを二人持つ母親の姿を。
冬一は。
健康な身体で食卓へ座る自分を。
凪は。
顔のある少年を見ていた。
誰もが。
欲しかった姿を前にしている。
「座って」
食卓の美緒が言った。
「もう誰もいなくならないから」
夜一は空いた椅子を見る。
「一つ多い」
「何が」
「席が」
美緒は笑う。
「誰か来るかもしれないでしょう」
「誰が」
「家族」
「誰の」
美緒は答えない。
マシロが食卓を見回す。
「七人」
「そうよ」
「椅子は八」
「だから」
「でも、匂いは九人」
全員がマシロを見る。
「どこにいる」
夜一が尋ねる。
「一人は薄い」
マシロは現在の澄花を見る。
「澄花」
次に。
部屋の隅。
誰も座っていない場所を見る。
「もう一人は、病気」
空気の中に。
微かな咳が混じった。
冬一の顔色が変わる。
「今の俺だ」
食卓にいる健康な冬一の足元で。
透明な人影が座っていた。
痩せた身体。
病院着。
苦しそうな呼吸。
誰からも見られていない。
幸福な朝に必要のない現在の冬一。
「この家は」
夜一が言った。
「全員を残してない」
「残してるわ」
食卓の美緒が答える。
「見えない場所へ押し出してる」
「違う」
「現在の澄花も」
夜一は隣の少女を見る。
彼女の手が。
少しずつ透けている。
「何」
澄花が自分の指を見る。
赤い留め針だけが、はっきり残っている。
「私」
残花側の澄花も立ち上がる。
「どうして」
「朝に合わないからだ」
夜一は食卓を見る。
「介護をしてきた澄花も」
病気の冬一。
「病気になった父親も」
そして。
小春を見る。
「火事で死んだ小春も」
「私は死んでない」
小春が言う。
「ここでは」
「あったことを消してる」
「違うよ」
「なら」
夜一は左肩の服を引いた。
火傷痕。
赤黒く引きつれた皮膚。
「この傷は何だ」
小春の顔から笑顔が消えた。
「知らない」
「火事はあった」
「なかった」
「小春が助かったなら」
夜一の声が震える。
「この傷は、誰の未来だ」
少女は答えない。
食卓の朝が揺れる。
窓の外の青空へ。
一瞬だけ。
黒い煙が混じった。
「痛い?」
マシロが夜一へ尋ねる。
「ああ」
「なら、それがお前だ」
夜一はマシロを見る。
「この傷がある夜一を、私は知っている」
小春が一歩下がった。
「私を選ばないの?」
「違う」
夜一は妹を見る。
「お前を消すためじゃない」
「では」
「お前が生きている未来だけで、俺を決めないためだ」
小春の目から涙が落ちた。
食卓の美緒が、皿を強く置く。
「どうして壊すの」
「壊してない」
「こんなに幸せなのに」
「外側を見てるだけだ」
夜一は部屋を見回す。
食卓。
笑顔。
健康な身体。
生まれた子ども。
救われた妹。
「この世界には、朝の前がない」
残花側の澄花が窓を見る。
「前?」
「夜がない」
夜一は言う。
「この朝食を作るために、誰が起きた」
美緒が答えない。
「材料は誰が買った」
冬一も。
「昨日は何をした」
澄花も。
「凪は、いつ生まれた」
誰も答えられない。
「小春」
夜一は妹を見る。
「昨日、何してた」
「昨日?」
小春は困ったように笑う。
「朝ご飯を食べた」
「その前は」
「朝ご飯を」
声が重なる。
同じ答え。
同じ笑顔。
同じ朝。
「場面だけだ」
夜一は言った。
「幸福な場面だけを、つないでる」
マシロが食卓の花瓶へ触れる。
白。
青。
黄色。
棘のない花だけが入っている。
「束ねてない」
「何が」
澄花が聞く。
「全部、押し込んだ」
マシロは花瓶を持ち上げる。
「主花ばかり」
「副花は」
「ない」
「棘花も」
「ない」
マシロは部屋を見る。
「花束にしなかった」
食卓の美緒が首を横に振る。
「綺麗でしょう」
「綺麗」
マシロは答えた。
「だから、怖い」
白い扉が。
食堂の奥へ再び現れた。
今度は。
扉の下から、白い根が伸びている。
夜明堂。
伊吹家。
この朝。
すべてを一つにつなぐ根。
「開ける?」
マシロが尋ねた。
夜一は扉を見る。
「開ける」
「何を聞く?」
夜一は、棘のない花瓶を見る。
「どうして、花束にしなかったのか」
白い扉の鍵が。
内側から。
ゆっくりと外れた。




