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残花葬送 ー世界から消す未来を、君と花束にするー  作者: 桝田キゲン


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8/13

花束にはまだ早い

 まだ開いていない黒い蕾が。


 ゆっくりと膨らみ始めた。


 美緒の足元。


 青い根の隙間から、黒い棘が床板を押し上げる。


「私から逃げたかったんじゃないの」


 澄花が、もう一度尋ねた。


 美緒は凪を抱いたまま、娘を見なかった。


「違う」


 黒い蕾が一度、脈打つ。


 マシロが鼻を押さえた。


「苦い」


「どんな匂いだ」


 夜一が聞く。


「朝ご飯」


「さっきも言ってた」


「違う」


 マシロは美緒を見る。


「冷めた朝ご飯」


 味噌汁。


 焼き魚。


 炊きたての米。


 家を満たしていた幸福な匂いに。


 冷えた脂と。


 焦げついた鍋と。


 長く放置された食卓の匂いが混ざる。


「澄花」


 美緒が言った。


「あなたは何も悪くないの」


「今、それを聞いてない」


「あなたを愛してる」


「それも聞いてない」


 澄花は一歩、美緒へ近づく。


「私から逃げたかった?」


「違う」


「凪を選びたかった?」


「違う」


「私が邪魔だと思った?」


「違う!」


 美緒の叫びと同時に、黒い棘が伸びた。


 床を裂き。


 壁へ刺さり。


 家族写真の一枚を貫く。


 六歳の澄花。


 若い冬一。


 笑っている美緒。


 写真の中の美緒の顔だけが、黒く染まった。


「違うと言うたび、咲いてる」


 マシロが言う。


「黙って」


「嫌」


「これは、私たち家族のことよ」


「だから?」


 マシロは首を傾げる。


「家族なら、嘘を残していい?」


 美緒の顔が歪む。


「あなたに何が分かるの」


「分からない」


「なら」


「でも、匂いは分かる」


 マシロは黒い蕾を指す。


「あなたは、澄花が嫌いだった」


「違う!」


 青い根がマシロへ襲いかかる。


 夜一が黒糸を引いた。


 マシロの身体が後ろへ下がる。


 同時に花鋏が閃き、根を切る。


 青い汁が床へ散る。


「マシロ」


「何」


「言い切るな」


「違う?」


「愛情と憎しみは、どちらかだけじゃない」


 夜一は美緒を見る。


「本人に言わせる」


 美緒は凪を強く抱きしめた。


 少年の身体が苦しそうに軋む。


「お母さん」


「大丈夫」


「痛い」


 美緒の腕が止まる。


 凪は母親の胸から離れた。


「僕、痛い」


「ごめんなさい」


 美緒は手を離す。


 顔のない少年は、少し距離を取った。


 その仕草が。


 母親から逃げる子どものように見えた。


「お母さん」


 澄花が言う。


「私も、痛かった」


 美緒の指が震える。


「十年間」


「ごめんなさい」


「まだ謝らないで」


「でも」


「答えてからにして」


 澄花は泣いていた。


 それでも、美緒から目を逸らさない。


「私が六歳のころ」


 声を整える。


「お母さんは、私を愛してた?」


「当たり前でしょう」


 青い花が開く。


 真実。


「私が熱を出したとき、寝ないで看病した?」


「したわ」


 白い小花が咲く。


「動物園で迷子になった私を探した?」


「名前を呼びながら、ずっと」


 黄色い花。


「私が赤い靴を欲しがったことは、覚えてなかった」


 美緒の言葉が止まる。


「凪のことばかり考えてたから?」


「違う」


「私の話を聞く余裕がなかった?」


 美緒の唇が震える。


「少し」


 黒い蕾が動く。


「私が話しかけると、うるさいと思った?」


「そんなこと」


「一度も?」


 美緒は答えない。


「朝ご飯を残したとき」


 澄花は続ける。


「靴を履くのが遅かったとき」


「子どもなら普通よ」


「普通なら、嫌にならないの?」


「それは」


「私が泣くたびに、凪のことを考えられなくなると思った?」


 美緒の目から涙が落ちた。


「違う」


 否定は弱かった。


「私の世話をしながら」


 澄花の声も震える。


「この子がいなければ、凪を守れるのにって思った?」


 美緒は動かない。


「言って」


「言えない」


「どうして」


「あなたが傷つく」


「もう傷ついてる!」


 澄花の叫びが家を揺らした。


 壁の写真が落ちる。


 食器が割れる。


 残花側の澄花が耳を塞いだ。


「私の十年を知らないくせに!」


 現在の澄花は叫ぶ。


「今さら、私を守る母親のふりをしないで!」


「ふりじゃない!」


「なら、言って!」


 美緒は娘を見る。


 十年間。


 自分のいなかった現実を生きた娘。


 疲れた顔。


 傷のある手。


 濡れた制服。


 母親の記憶の中には存在しなかった姿。


「思った」


 美緒が言った。


 黒い蕾が、僅かに開く。


「何を」


「あなたがいなければ」


 声が掠れる。


「私は、凪を選べたかもしれない」


 黒い花弁が一枚開いた。


 残花側の澄花が、美緒から離れる。


「お母さん」


「違うの」


 美緒は二人の澄花を見る。


「違わない」


 現在の澄花が言う。


「今、言った」


「あなたを愛していなかったわけじゃない」


「分かってる」


「本当に愛してた」


「分かってる!」


 澄花は胸元を押さえた。


「愛してたから、思わないわけじゃないんでしょう」


 美緒が息を呑む。


「私がいなければって」


「澄花」


「愛してるから、嫌いにならないわけじゃない」


 家を覆う青い花が震える。


 マシロが澄花を見る。


「両方?」


「たぶん」


 澄花は涙を拭った。


「私も、そうだから」


「何が」


 美緒が尋ねる。


 澄花は父を見る。


 健康な姿の冬一。


 その奥に。


 病院のベッドへ横たわる、痩せた父親の影が重なる。


「お父さんのこと」


 冬一の表情が変わる。


「澄花」


「黙ってて」


 澄花は父へ言った。


「今度は私が言う」


 制服の襟元で、赤い留め針が熱を持つ。


 現在を固定するための札。


 だが。


 現在を守るだけでは、花束にならない。


「私は、お父さんに生きてほしい」


 青い花が咲く。


「病気が治ってほしい」


 もう一輪。


「元気だったころに戻ってほしい」


 白い小花。


「でも」


 澄花の足元から、黒い棘が伸びた。


 自分自身へ絡みつく。


「介護が、嫌だった」


 黒い蕾が現れる。


「夜中に何度も起こされるのが」


 一枚、開く。


「友達と遊んでいても、電話が来るのが」


 もう一枚。


「薬を忘れてないか、ずっと考えるのが」


 棘が制服を裂く。


「嫌だった」


 冬一は何も言わない。


「お父さんが吐くたび」


 澄花は続ける。


「また片づけるのかって思った」


 声が震える。


「病院へ行くたび、もっと悪くなれば入院してくれるのにって」


「澄花」


「黙って」


 冬一の目から涙が落ちる。


「家に帰るのが怖かった」


 黒い花が胸元へ咲く。


「死んでないか確認するのも怖かった」


 澄花は自分の花を見る。


「でも」


 指先が黒い花弁へ触れる。


「死んでたら」


 言葉が止まる。


 誰も急かさない。


 夜一も。


 マシロも。


 美緒も。


 冬一も。


 残花側の澄花も。


 凪も。


「少しだけ」


 澄花は言った。


「楽になると思った」


 黒い花が完全に開いた。


 家の中から、音が消えた。


「私」


 澄花は父親を見られない。


「お父さんが死んだら、悲しい」


「ああ」


 冬一が答える。


「絶対、後悔する」


「ああ」


「もっと優しくすればよかったって思う」


「ああ」


「でも」


 澄花は顔を上げた。


「もう介護しなくていいって、安心すると思う」


 冬一は娘を見つめた。


「それでも」


 澄花の声が崩れる。


「私、お父さんを愛してる」


「ああ」


 冬一は頷いた。


「知ってる」


「どうして」


「俺も同じだからだ」


 澄花が目を見開く。


「何が」


「お前に世話をさせるのが苦しかった」


「なら、入院して」


「一人になるのが怖かった」


 冬一の胸元に、新しい黒い蕾が現れる。


「お前が自分の生活を削っていると知っていた」


「だったら」


「それでも、そばにいてほしかった」


 冬一は自分の手を見る。


「父親として、お前を自由にするべきだった」


 黒い花弁が開く。


「でも病人としては、お前を離したくなかった」


 澄花は父を見る。


 美緒も。


 凪も。


 残花側の澄花も。


 誰もが。


 愛情と醜さを同時に抱えている。


「おあいこ」


 澄花が呟いた。


 美緒が顔を上げる。


 澄花はすぐに首を横へ振った。


「違う」


「澄花」


「同じじゃない」


 澄花は美緒を見る。


「私が、お父さんに死んでほしいと思ったことと」


 冬一を見る。


「お父さんが、私をそばに置きたかったことと」


 そして母を見る。


「お母さんが、私がいなければと思ったことは」


 声を整える。


「同じじゃない」


 美緒は黙っている。


「許したわけでもない」


「そう」


「でも」


 澄花は黒い花へ触れた。


「私だけが、醜いわけじゃなかった」


 涙が落ちる。


「それは、少し楽」


 青い小花が。


 三人の黒い花の間へ咲いた。


 夜一はそれを見る。


「副花」


「何の」


 澄花が尋ねる。


「自分だけが悪い人間ではないという安心」


 夜一は花へ手を伸ばす。


「同じ醜さを、誰かも持っていたこと」


 マシロが青い花を覗き込む。


「それも、家族?」


 澄花は少し考えた。


「分からない」


「夜一が増えた」


「悪かったな」


 青い小花は消えない。


 答えが定まらなくても。


 そこに感情があったことは変わらない。


 夜一は黒い布を床へ広げた。


 冬一の黒い花。


 美緒の開きかけた黒い花。


 澄花の黒い花。


 青い副花。


「まだ足りない」


 夜一は言った。


「お母さんの花は、咲いたでしょう」


 澄花が美緒を見る。


 黒い蕾は半分だけ開いている。


「一番奥が残ってる」


「これ以上、何があるの」


 美緒が震える声で言う。


「澄花がいなければと思った」


「それだけでは、十年間を繰り返さない」


 夜一は朝の匂いを嗅ぐ。


 味噌汁。


 焼き魚。


 洗いたての布。


 幸福な家庭。


 それを何千回も。


 同じ朝だけを。


「あなたは凪を選べなかっただけじゃない」


「何を」


「澄花も選びたくなかった」


 美緒の顔が止まる。


「違う」


「凪を産む母親にも」


 夜一は言う。


「澄花を守る母親にもなりたくなかった」


「違う」


「どちらを選んでも、片方を捨てた母親になる」


「違う」


「だから」


 夜一は美緒を見る。


「母親でいることから逃げた」


 黒い蕾が大きく裂けた。


「違う!」


「十年前、消えたのは事故ではない」


「違う!」


「あなたは残花の中へ、自分から入った」


「黙って!」


「どちらかを嫌いになる前に」


 美緒の足元から黒い根が噴き出す。


 夜一へ。


 マシロへ。


 澄花へ。


 すべてを貫こうとする。


 マシロが前へ出た。


 白い髪が大きく広がる。


 無数の花が咲く。


 青。


 黄。


 赤。


 黒。


 根が彼女の身体へ突き刺さった。


「マシロ!」


 夜一が黒糸を引く。


 だが。


 マシロは動かなかった。


「食べる」


「やめろ!」


「今なら聞こえる」


 黒い根が、マシロの肌の下へ入る。


 金色の瞳が青く濁る。


「朝ご飯を作らないと」


 美緒の声。


「澄花を起こさないと」


 別の声。


「凪が泣いてる」


「マシロ、戻れ!」


「どちらも」


 マシロの口から、涙が落ちた。


「嫌」


 普段の短い声だった。


「何が」


 夜一が尋ねる。


「どちらも選びたくない」


 マシロは美緒を見る。


「だから、逃げた」


「違う」


「では、何を選んだ?」


 美緒は答えられない。


「澄花?」


 沈黙。


「凪?」


 沈黙。


「冬一?」


 沈黙。


「自分?」


 美緒の身体が震えた。


 マシロは根を掴む。


「では、逃げた」


 黒い根が砕ける。


 美緒の胸元で。


 最後の黒い花弁が開いた。


 中心には。


 誰もいない台所が映っている。


 朝食だけが並び。


 椅子はすべて空席。


 母親でなくていい。


 妻でなくていい。


 誰も選ばなくていい。


 誰からも選ばれなくていい。


 一人きりの朝。


「私は」


 美緒が掠れた声で言う。


「母親でいることが、怖かった」


 黒い花が完全に咲いた。


「どちらかを選んだら」


 美緒は澄花と凪を見る。


「選ばなかった方を、いつか憎むと思った」


 涙が落ちる。


「だから、その前に」


「逃げた」


 マシロが言う。


 責める声ではなかった。


 ただ。


 事実を置いた。


「そう」


 美緒は頷いた。


「私は、逃げた」


 黒い花が。


 青い花々の中で。


 静かに頭を垂れた。


 そのとき。


 凪が、美緒の服から手を離した。


「お母さん」


「何」


「僕を選ぶ?」


 美緒の顔が歪む。


「凪」


「今度は、僕を選ぶ?」


 現在の澄花が、弟を見る。


 残花側の澄花も。


 冬一も。


 夜一も。


 誰も答えを代わりに言えない。


 美緒は凪へ手を伸ばす。


「私は」


 その指が。


 少年へ届く直前。


 家全体が大きく揺れた。


 青い花が、一斉に裏返る。


 窓の外。


 雨の夜が消え。


 真っ白な朝が広がっていた。


 同じ朝。


 同じ食卓。


 同じ家。


 だが。


 椅子が一つ増えている。


 凪の席。


 その隣に。


 もう一つ。


 空席があった。


「まだ誰かいる」


 マシロが言った。


「誰だ」


 夜一は周囲を見る。


 青い根が、家の奥へ伸びている。


 廊下。


 階段。


 壁の向こう。


 そして。


 床下。


「ここじゃない」


 マシロの声が低くなる。


「もっと下」


 夜一の小指へ結んだ黒糸が。


 突然。


 地下へ向かって引かれた。


 白い根。


 青い根とは違う。


 夜明堂の地下温室へ続くものと同じ色。


 夜一は息を止めた。


「父さん」


 床下から。


 聞き慣れた男の声がした。


『まだ、花束には早い』


 家の中央に。


 白い扉が浮かび上がった。

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