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残花葬送 ー世界から消す未来を、君と花束にするー  作者: 桝田キゲン


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生まれなかった弟

 青い蕾が、ゆっくりと開き始めた。


 一枚。


 二枚。


 厚い花弁が、湿った音を立てて床へ垂れる。


 内側から現れたのは、小さな身体だった。


 六歳ほど。


 白いシャツ。


 膝丈の青いズボン。


 玄関に並んでいたものと同じ、白い靴。


 髪は黒い。


 顔だけがない。


 目も。


 鼻も。


 口も。


 まだ描かれていない人形のように、滑らかな皮膚で覆われている。


 それでも。


 少年は、二人の澄花を見分けるように首を動かした。


「お姉ちゃん」


 声は、顔のない場所から聞こえた。


 残花側の澄花が、美緒の後ろへ隠れる。


 現在の澄花は動けない。


「誰」


 少年は答えなかった。


 代わりに、顔のない頭を少し傾ける。


「お母さん」


 美緒へ手を伸ばした。


 美緒の表情が崩れる。


「凪」


 その名前が。


 家の中へ落ちた。


 青い花が一斉に揺れる。


 床。


 壁。


 天井。


 庭。


 すべてが、その名を待っていたように。


「なぎ」


 マシロが繰り返す。


 髪に咲いていた青い花が、一輪増えた。


「それが名前?」


 少年は頷く。


 顔はない。


 それでも、嬉しそうに見えた。


 現在の澄花が、美緒を見る。


「誰なの」


「澄花」


「答えて」


「今は」


「また隠すの?」


 赤い留め針が、制服の襟元で光る。


「十年前から、ずっと」


 澄花は父を見る。


「お父さんも知ってるんでしょう」


 冬一は青ざめた顔で立っている。


 健康な身体。


 病気になる前の姿。


 だが、その表情だけは。


 現在の冬一と同じように疲れていた。


「その子は」


 冬一が言う。


「お前の弟になるはずだった」


 澄花の目が止まる。


「なるはずだった?」


「美緒が妊娠していた」


「いつ」


「十年前だ」


「私、知らない」


「言っていなかった」


「どうして」


 冬一は答えない。


 美緒が凪を抱き寄せた。


 顔のない少年は、母親の胸へ額を押しつける。


「まだ、小さかったから」


 美緒が言った。


「何が」


「あなたが」


「六歳だったから?」


「混乱させたくなかった」


「じゃあ、産まれたあとに言えばよかった」


 美緒の腕に力が入る。


「産まれなかったの」


 現在の澄花は、弟になるはずだった少年を見る。


「流産?」


 美緒は首を横に振った。


「違う」


「では」


「選べなかった」


 夜一は冬一を見る。


「何を選んだ」


 冬一の唇が震える。


「美緒の身体が、妊娠に耐えられなかった」


「病気だった?」


「ああ」


「母体か、胎児か」


「そうだ」


 残花側の澄花が、美緒の服を掴む。


「何の話?」


 美緒は答えない。


「私、弟なんて知らない」


「あなたは知らなくていいの」


「どうして」


「ここでは、凪は生きているから」


 残花側の澄花が、凪を見る。


 弟。


 そう呼ばれた少年。


 だが、彼女の記憶にも存在していない。


「一緒に暮らしてた?」


 少年は動かない。


「私と?」


 返事がない。


「お母さん」


 残花側の澄花は美緒を見る。


「私、この子と遊んだことある?」


「これから遊ぶの」


「今までじゃなく?」


「これから家族になるの」


「でも、十年間ずっと一緒だったって」


 美緒の表情が強張る。


 家の中に存在していた幸福な記憶。


 母。


 父。


 娘。


 そこへ凪だけが、今になって現れた。


 夜一は花鋏を下ろさない。


「この世界は完成していない」


 美緒が夜一を睨む。


「完成してる」


「凪には過去がない」


「これから作ればいい」


「残花側の澄花も、弟を覚えていない」


「記憶がまだ定着していないだけ」


「都合が悪い部分を、後から書き換えるつもりか」


「違う!」


 青い根が壁から膨らむ。


 写真立ての中身が変わった。


 遊園地。


 運動会。


 誕生日。


 三人だった家族写真の端へ、小さな少年が増える。


 顔は映っていない。


 光に潰れ。


 後ろを向き。


 帽子で隠れている。


 だが。


 確かに、四人いる。


「ほら」


 美緒が言う。


「凪は、ずっといた」


「今作った」


「違う」


「お前が欲しい記憶を、家に咲かせただけだ」


「違う!」


 美緒の右手から、青い花が開く。


 古い火傷痕の上。


 花弁の中心に、小さな朝食の景色が映る。


 四人分の皿。


 四人分の椅子。


 凪の席。


「凪は生きていた」


 美緒は言う。


「私の中で」


 夜一は答えない。


「十年間」


 美緒は凪を抱く。


「ずっと育っていた」


 マシロが一歩近づいた。


「本当」


 夜一が彼女を見る。


「何が」


「凪は、十年生きてる」


 マシロは少年の匂いを嗅ぐ。


「母親の中で」


「美緒さんの記憶か」


「それだけじゃない」


 少年の身体へ、青い根が何本もつながっている。


 美緒。


 冬一。


 現在の澄花。


 残花側の澄花。


 家。


 青い花。


 全員の願いが、少年を形作っている。


「お父さんも」


 現在の澄花が言った。


「この子を覚えてたの」


 冬一は目を伏せる。


「忘れたことはない」


「なのに、私には言わなかった」


「言えなかった」


「何で」


「お前が生きていたからだ」


 澄花の顔が歪む。


「どういう意味」


 冬一は拳を握る。


「美緒の状態が悪化したとき、医師は選択を求めた」


 雨の音が、遠くで聞こえ始める。


 家の外。


 現在の夜。


 それが、青い花の作る朝へ滲んでくる。


「凪を諦めれば、美緒が助かる可能性があった」


「それで」


「だが、美緒は産みたいと言った」


 美緒は何も言わない。


「俺も、最初はそう思った」


 冬一の声が掠れる。


「でも」


 現在の澄花を見る。


「お前がいた」


 澄花は動かない。


「六歳のお前を残して、美緒が死ぬかもしれない」


「だから、凪を」


「医師に頼んだ」


「お父さんが決めたの?」


「最後は」


「お母さんは」


 美緒の腕が震える。


「私は、選べなかった」


 現在の澄花が母を見る。


「選べなかった?」


「凪を産みたかった」


 美緒の声が弱くなる。


「でも、あなたを置いて死ぬのも怖かった」


「なら」


「どちらかを選んだら」


 美緒は顔を歪めた。


「もう一人を愛していない母親になる気がした」


 凪の顔のない頭が、美緒を見上げる。


「だから、決められなかった」


「それで、お父さんに決めさせたの」


 美緒は答えない。


「違う」


 冬一が言った。


「俺が勝手に決めた」


「庇わないで」


 澄花の声が鋭くなる。


「誰が何をしたか、ちゃんと言って」


 夜一はその言葉を聞く。


 依頼人が。


 自分で花を見ようとしている。


 逃げずに。


「お母さんは、産みたかった」


「そうよ」


「でも、私を残して死ぬのは怖かった」


「そう」


「お父さんは、お母さんを助けたかった」


「ああ」


「私を一人にしたくなかった」


「ああ」


「だから、凪を諦めた」


 冬一の目から涙が落ちる。


「ああ」


「それだけ?」


 青い花が、一瞬だけ止まる。


 夜一は澄花を見る。


 彼女も気づいている。


 愛情。


 恐怖。


 決断。


 それだけなら。


 十年間、残花がここまで育つ理由としては足りない。


「お父さん」


 澄花は続ける。


「他に何を思ったの」


「何も」


「嘘」


「澄花」


「何を隠してるの」


 冬一の健康な顔が歪む。


「俺は」


 声が震える。


「美緒も、凪も、お前も」


「全部欲しかった?」


「ああ」


「でも、選んだ」


「ああ」


「私を?」


 冬一は答えない。


 澄花の瞳が揺れる。


「私を選んだんじゃないの」


「違う」


「じゃあ」


「俺は」


 冬一は顔を覆う。


「凪が生まれた未来を、見た」


 夜一の指が花鋏の柄へ食い込む。


「残花が、すでにあった?」


「ああ」


「処置の前から」


「美緒が決められずにいた夜、病室に青い花が咲いた」


「その中で何を見た」


 冬一は答えたくないように首を振る。


「言え」


 夜一の声が低くなる。


「家族だった」


「誰が」


「美緒と」


 冬一は残花側の澄花を見る。


「凪と」


 そして。


 現在の澄花を見た。


「お前はいなかった」


 澄花の呼吸が止まる。


「なぜ」


「分からない」


「残花の中で、私は」


「最初から生まれていなかった」


 青い花が開く。


 幸福な光景。


 若い美緒。


 健康な冬一。


 顔のある凪。


 三人で暮らす家。


 そこに澄花はいない。


「俺は、その未来を見て」


 冬一の声が崩れる。


「幸せだと思った」


 澄花が後ずさる。


「お父さん」


「違う」


「何が」


「一瞬だけだ」


「一瞬でも」


「違うんだ」


「何が違うの!」


 現在の澄花が叫ぶ。


 赤い留め針が強く光る。


 青い根が制服へ伸びたが、触れる前に焼けた。


「私がいなくてもいいと思ったの?」


「思ってない!」


「今、言った!」


「凪がいる未来を見たら」


 冬一は膝をつく。


「何も失っていないように見えた」


「私は?」


「そのときは」


 言葉が出ない。


 夜一は待たない。


「言え」


「やめろ」


「ここで止めれば、また残花へ隠す」


「お前に何が分かる」


「分からない。だから言葉にさせる」


「夜一」


 マシロが黒糸を引く。


「強すぎる」


「知ってる」


「なら」


「でも、止めない」


 夜一は冬一を見る。


「凪がいる未来で、澄花がいなかった」


「ああ」


「それでも幸せだった」


「一瞬だ」


「その一瞬を認めるのが怖くて、凪を切ったのか」


 冬一の顔が上がる。


「何」


「凪を残せば、澄花を消してもいいと思った自分が残る」


「違う」


「だから凪を危険な残花にした」


「違う!」


「切るべきものにすれば、自分は澄花を選んだ父親でいられる」


 床から黒い棘が伸びた。


 健康な冬一の足首へ絡む。


「違う」


「娘を愛したから凪を消した」


「そうだ」


「それだけじゃない」


「黙れ」


「凪がいれば澄花がいなくても幸せだと思った自分を、消したかった」


「黙れ!」


 冬一の胸元から。


 青い花に混じって。


 黒い蕾が現れた。


 現在の澄花が、それを見る。


「それが」


 声が震える。


「お父さんの花?」


 冬一は答えない。


「私を愛してたのは、嘘?」


「違う!」


 冬一は娘を見る。


「お前を愛してる」


「でも、私がいない未来も幸せだった」


「そうだ!」


 叫び。


 黒い蕾が少し開く。


「両方だ!」


 冬一は床へ拳を打ちつけた。


「お前を愛していた!」


 青い花。


「凪にも生きてほしかった!」


 もう一輪。


「美緒を失いたくなかった!」


 白い小花。


「お前がいない未来を、一瞬、綺麗だと思った!」


 黒い蕾が開く。


 鋭い棘。


 中心に、父親の顔が映っている。


「だから怖かった!」


 冬一は泣いていた。


「俺が、お前を消せる人間だと知るのが」


 澄花は何も言わない。


「凪を切れば」


 冬一の声が掠れる。


「俺は、お前を選んだ父親でいられると思った」


 黒い花が完全に咲く。


 家全体を覆う青い根が、少しだけ緩んだ。


 夜一は黒い布を広げる。


「これで一輪」


「一輪?」


 澄花が夜一を見る。


「まだ終わってない」


 夜一は美緒を見る。


「母親の花が残ってる」


 美緒は凪を抱いたまま、首を横に振った。


「私は何も隠していない」


 マシロが言う。


「嘘」


「黙って」


「口に残ってる」


 美緒の唇が震える。


 凪が母親の服を掴んだ。


「お母さん」


「大丈夫」


 美緒は少年の頭を撫でる。


「今度は、あなたを消させない」


「今度は?」


 澄花が聞く。


 美緒は顔を上げる。


「お母さん」


 澄花は一歩近づいた。


「十年前、本当に私を選べなかっただけ?」


 青い花が閉じ始める。


「凪を産みたかっただけ?」


「そうよ」


「他には」


「ない」


「私を見て」


 美緒は見ない。


「私から逃げたかったんじゃないの」


 家が。


 音を立てて軋んだ。


 青い花の奥で。


 まだ開いていない黒い蕾が。


 ゆっくりと膨らみ始めた。

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