もう一人の私
家を覆う青い花が、一斉に開いた。
雨音が消える。
夜の住宅地も。
濡れた道路も。
隣家の室外機が立てる低い音も。
すべてが、花の香りに塗り潰される。
味噌汁。
焼き魚。
炊きたての米。
洗いたての布。
朝の家庭の匂い。
窓の向こうで、もう一人の澄花が笑っている。
母親が、その肩へ手を置いた。
父親は食卓の皿を運んでいる。
病人の動きではない。
背筋が伸び。
頬には肉があり。
腕も細くない。
「お父さん」
隣にいる澄花が呟いた。
門へ向かって一歩踏み出す。
夜一は肩を掴んだ。
「待ってください」
「でも」
「先に根を確認する」
「家族がいるんです」
「だからです」
門柱には青い蔓が巻きついていた。
呼吸するように膨らみ、縮んでいる。
夜一が花鋏を近づけると、蔓が刃から逃げた。
「意識がある」
「花に?」
「家全体に」
マシロが裂けた長靴で門へ近づく。
右。
ぱしゃ。
左。
ぐしゃ。
彼女は青い花へ顔を寄せた。
「母親の匂い」
「美緒さんか」
「たぶん」
「他には」
「澄花」
隣の澄花が身を固くする。
「私?」
「二人」
マシロは窓の向こうと、隣の少女を交互に見る。
「同じ名前。でも、匂いが違う」
「どちらが残花だ」
「どちらも澄花」
「答えになってない」
「夜一が聞き方を間違えた」
マシロは門へ手を伸ばす。
青い蔓が、その指へ絡みついた。
「マシロ」
「待って」
蔓は刺さらない。
彼女の手首を一周し。
匂いを確かめるように、白い肌の上を滑る。
「何をしてる」
「見られてる」
「誰に」
「家に」
青い花が一輪、マシロの指先で開く。
中心に、小さな瞳があった。
澄花と同じ黒い瞳。
マシロはそれを見返した。
「入っていい?」
瞳が閉じる。
玄関の鍵が外れた。
かちり。
扉が、内側から僅かに開く。
「招かれてる」
「罠かもしれない」
「分かってる」
マシロは蔓を外した。
「でも、拒んでない」
夜一は鞄から黒い糸を取り出す。
自分の左手首へ巻き。
もう一方をマシロへ渡す。
「結べ」
「今日は小指じゃない」
「切れにくい方がいい」
「信用が減った?」
「危険が増えた」
「同じでは」
「違う」
マシロは自分の手首へ黒糸を巻いた。
澄花には赤い留め針を渡す。
「服の内側へ刺してください」
「何ですか、これ」
「現在の記憶を固定する札です」
「痛い?」
「服に刺す」
「マシロなら肌に刺しそう」
「刺せる?」
「試すな」
夜一は澄花の制服の襟裏へ札を留めた。
「家へ入ったら、自分が経験した今日のことを忘れないでください」
「今日?」
「起きた時間」
「五時」
「父親へ飲ませた薬」
「鎮痛剤と胃薬」
「朝食」
「食べてない」
「学校」
「遅刻した」
「友人とは」
澄花が少し迷う。
「話してません」
「なぜ」
「父のことで頭がいっぱいだったから」
「それも覚えておいてください」
「忘れた方が楽なことばかりですね」
「だから、花が欲しがる」
澄花は赤い針へ触れた。
「今の私を?」
「はい」
玄関の隙間から、温かい空気が流れ出している。
外は雨。
中は朝。
夜一は花鋏を構えた。
「俺が先に入ります」
「次は私」
マシロが言う。
「澄花さんは最後」
「私の家です」
「今は違うかもしれない」
「それでも」
澄花は玄関を見る。
「私が知らない人に、先に入られるのは嫌です」
「俺たちは依頼を受けた」
「依頼人も連れていってください」
夜一は答えなかった。
彼女の家。
彼女の母。
彼女の父。
もう一人の彼女。
危険だからと外に置けば、また本人を選択の外へ出すことになる。
「分かりました」
夜一は言った。
「ただし、俺より前へ出ないでください」
「はい」
「母親に呼ばれても、すぐ触れない」
「はい」
「もう一人の自分にも」
「……はい」
「返事が遅い」
「自分を警戒するって、難しいです」
「自分ではありません」
窓の向こうの少女が、まだ笑っている。
「今は、別の人生を生きた相手です」
三人は玄関へ向かった。
夜一が扉を押す。
蝶番の音。
青い花弁が、上から静かに落ちる。
玄関には靴が四足並んでいた。
男物。
女物。
制服用のローファー。
小さな白い靴。
夜一は最後の一足を見る。
「子どもがいる」
「うちには」
澄花が言いかけて、止まる。
「私しかいません」
小さな靴は、六歳ほどの子ども用だった。
泥はついていない。
新品でもない。
長く使われている。
踵が擦れ。
つま先には青い花の刺繍がある。
「誰の」
「知らない」
澄花の声が掠れる。
マシロが靴の前へしゃがむ。
「男の子」
「分かるのか」
「匂い」
「人間?」
「まだ分からない」
廊下の奥から、食器の触れ合う音がした。
「澄花?」
女の声。
写真の母親。
マシロへ混ざった声と同じ。
「帰ってきたの?」
澄花の肩が震える。
十年。
待っていた声。
夢の中で何度も聞いた声。
「お母さん」
「返事をしないで」
夜一が小さく言う。
「でも」
「名前を呼ばれるだけで、根がつながることがあります」
「さっき、私が呼びました」
「今から減らす」
「減るんですか」
「増やさない」
母親の足音が近づく。
廊下の角から、一人の女が現れた。
四十代前半。
肩の下まで伸びた髪。
淡い色のエプロン。
目元には薄い皺。
右手に古い火傷の痕。
写真の母親が、十年分だけ年を取った姿。
「澄花」
女――伊吹美緒は、娘を見て笑った。
その笑顔は。
窓の向こうの幸福な澄花へ向けたものと同じだった。
「遅かったじゃない」
美緒が近づく。
澄花は動けない。
「学校から帰ったら、連絡してって言ったでしょう」
「私は」
「傘も持たずに。こんなに濡れて」
美緒は手を伸ばした。
澄花の頬へ。
夜一が腕を遮る。
「触らないでください」
美緒が夜一を見る。
笑顔が消える。
「どちら様?」
「花屋です」
「花屋?」
視線がマシロへ移る。
美緒の目が大きく開いた。
「あなた」
マシロが一歩下がる。
黒糸が張る。
「知ってる?」
「いいえ」
美緒は答えた。
だが。
右手が震えている。
「知らない顔です」
「嘘」
マシロが言う。
「何ですって」
「嘘は口に残る」
美緒の唇が僅かに開く。
「私は、あなたの声を知っている」
「初対面です」
「玉葱を小さく切る」
美緒の顔から血の気が引いた。
「朝は牛乳」
「やめて」
「パンの耳も残さない」
「やめなさい」
「澄花は熱いものが苦手」
「黙って!」
美緒の叫びと同時に。
廊下の壁から青い根が飛び出した。
マシロの喉へ向かう。
夜一が鋏で切る。
青い汁が飛ぶ。
根の断面から、複数の声が漏れた。
泣き声。
笑い声。
子守歌。
「何をした」
美緒が夜一を睨む。
「そちらが先です」
「この家を傷つけないで」
「家ではありません」
「私たちの家よ」
「では、あの靴は誰のものですか」
美緒の動きが止まる。
玄関の小さな白い靴。
「澄花の昔のものです」
「違います」
澄花が言った。
「私、あんな靴は持ってなかった」
「忘れているだけよ」
「私の足は、六歳のときからもっと大きかった」
美緒は娘を見る。
「そんなこと」
「お母さんが買ってくれた靴は、赤だった」
澄花の声が震える。
「動物園へ行く前に。私が青は嫌だって言って」
「澄花」
「それは覚えてる?」
美緒は答えない。
廊下の花々が揺れる。
「お母さん」
澄花は一歩進む。
夜一の腕を越えない範囲で。
「私が六歳のとき、好きだった色は?」
「青よ」
「違う」
「写真にも青い服が」
「あれは、お母さんが選んだ」
澄花の目から涙が落ちる。
「私は赤が好きだった」
「そんな」
「お母さんは、私のことを覚えてないの?」
「覚えてるわ」
美緒が即座に言う。
「全部、覚えてる」
「じゃあ、昨日までの十年は」
「昨日まで?」
美緒は首を傾げる。
その仕草が、ひどく自然だった。
「十年ずっと、一緒にいたでしょう」
澄花の息が止まる。
「あなたが中学へ入った日も」
美緒が話す。
「受験で眠れなかった夜も」
「やめて」
「高校へ合格して、三人でケーキを食べた日も」
「やめて!」
「全部覚えてる」
青い花が廊下を覆う。
壁紙が変わる。
古い染みが消え。
柱の傷がなくなり。
写真立てが増える。
中学の入学式。
文化祭。
誕生日。
旅行。
すべてに美緒が写っている。
健康な冬一も。
笑っている澄花も。
「これが私たちの十年よ」
美緒は言った。
「あなたが忘れているだけ」
「違う」
「疲れてるの」
「違う!」
「お父さんの病気なんてなかった」
「ある!」
「介護も」
「あった!」
「一人で泣いた夜も」
「あった!」
「そんな辛い人生、あなたのものじゃない」
澄花の制服から、赤い留め針が光る。
襟元へ青い根が伸びたが、針の周囲で焼けるように縮んだ。
「あなたは」
美緒は娘へ手を伸ばす。
「もっと幸せに生きてきたの」
「それは」
澄花の声が震える。
「私じゃない」
廊下の奥で。
椅子を引く音がした。
「お母さん?」
若い少女の声。
もう一人の澄花が現れる。
制服。
乾いた髪。
目の下に隈はない。
手の甲に傷もない。
彼女は現在の澄花を見ると、困ったように眉を寄せた。
「その人たち、誰?」
声まで同じだった。
現在の澄花は、鏡を見るように相手を見つめる。
「私」
残花側の澄花が首を傾げる。
「何を言ってるの?」
「私は、伊吹澄花」
「私もだけど」
二人の声が重なる。
青い花が、嬉しそうに開く。
マシロは二人を交互に嗅ぐ。
「どちらも嘘じゃない」
「マシロ」
「どちらも、澄花の匂い」
現在の澄花が後ずさる。
「そんな」
残花側の澄花が、美緒の隣へ立った。
「お母さん。この人、病院から来たの?」
「違うわ」
「でも、私に似てる」
「疲れているだけなの」
美緒は答えを濁す。
残花側の澄花は、現在の澄花の濡れた制服を見る。
傷ついた手。
痩せた頬。
曲がった傘。
「可哀想」
その言葉に。
現在の澄花の顔が歪んだ。
「何が」
「すごく疲れてる」
「誰のせいで」
「え?」
「誰の未来のせいで、私が消されそうになってると思ってるの」
「分からない」
「あなたがいるから!」
残花側の澄花が怯える。
美緒が彼女を庇う。
「怒鳴らないで」
「私のお母さんみたいな顔をしないで!」
現在の澄花が叫んだ。
家全体が揺れる。
花瓶。
写真立て。
食器。
壁を覆う青い花。
「私は十年待った!」
澄花の目から涙が溢れる。
「お母さんが帰ってくると思って!」
「澄花」
「警察にも行った。親戚にも聞いた。誕生日のたび、もしかしたらって思った!」
美緒の表情が揺れる。
「お父さんが病気になってからは、学校を休んで、病院へ連れていって、薬を飲ませて、夜中に吐いたものを片づけて」
「そんなことは」
「あった!」
赤い留め針が強く光る。
「あなたが知らないだけ!」
美緒の足元から、青い根が這い出す。
現在の澄花へ。
残花側の澄花にも。
二人を結びつけようとする。
「下がれ!」
夜一が根を切った。
家の奥から男の呻き声が聞こえる。
「美緒」
低い声。
食堂から、伊吹冬一が現れた。
健康だった。
夜一が幸福視で見た姿と同じ。
頬は痩せておらず。
背中も曲がっていない。
病院着ではなく、青いシャツを着ている。
「お父さん」
現在の澄花が呼ぶ。
冬一は彼女を見た。
驚き。
恐れ。
そして。
知っている者を見る目。
「澄花」
現在の澄花が息を呑む。
「分かるの?」
冬一は答えない。
「お父さん」
「帰れ」
冬一が言った。
「何で」
「ここへ来るな」
「私だよ」
「分かっている」
残花側の澄花が父親を見る。
「お父さん。この人を知ってるの?」
冬一は二人の娘の間で目を閉じた。
「冬一」
美緒の声が低くなる。
「余計なことを言わないで」
「十年前」
冬一は美緒を見ない。
「切ったはずだった」
夜一の手が止まる。
「何を」
冬一の顔から、血の気が引く。
「残花を」
「花局へ依頼したのか」
「違う」
「では、誰に」
冬一は夜一の顔を見る。
その視線が。
花鋏。
黒糸。
夜一の左手。
そして顔へ戻る。
「お前」
冬一の声が震えた。
「久世の息子か」
青い花が、家中で一斉に閉じた。
「父を知ってるんですか」
「帰れ」
「久世黎明を」
「帰れ!」
冬一の叫びと同時に。
食堂の床が盛り上がった。
青い根が突き破る。
テーブルが傾き。
皿が割れ。
その下から。
巨大な蕾が姿を現す。
人間一人を包めるほどの、青い花。
蕾の内側から。
小さな手が押し当てられた。
一度。
二度。
三度。
白い靴が、玄関でひとりでに揃う。
美緒が蕾へ振り返る。
「まだ起きないで」
母親の声だった。
残花側の澄花が尋ねる。
「誰がいるの?」
冬一は顔を覆う。
現在の澄花は、両親を見る。
「誰」
蕾の中から。
幼い少年の声がした。
「お姉ちゃん」
現在と残花。
二人の澄花が、同時に振り返った。
青い蕾が。
ゆっくりと開き始めた。




