今のあなたを消そうとしている
青い根が、カウンターの縁を越えた。
細い。
まだ糸ほどの太さしかない。
それでも、触れた木目がゆっくり変色していく。
古い傷が消え。
欠けていた角が戻り。
長年使い込まれたカウンターが、新品のような艶を取り戻す。
「離れてください」
夜一は花鋏を抜いた。
澄花が青い花を胸元へ引き寄せる。
「待って」
「根が店へ入っています」
「切ったら、母が」
「このままなら夜明堂が書き換わる」
「でも」
根は止まらない。
カウンターから床へ。
床板の隙間へ入り込み、白い線を描きながら店の奥へ伸びていく。
厨房。
階段。
地下温室。
夜明堂の過去そのものへ根を張ろうとしている。
「マシロ」
「苦い匂い」
「何が」
「この花」
マシロが鼻を押さえる。
「さっきより、苦い」
「意味は」
「澄花を見てる」
澄花が青い花へ目を落とした。
「私を?」
「欲しがってる」
「母が?」
「違う」
マシロは首を横に振る。
「この未来が」
青い根が澄花の手首へ巻きついた。
彼女は息を呑む。
皮膚の下へ青い光が入り込む。
「伊吹さん!」
夜一が腕を掴む。
根は生き物のように逃げ、澄花の制服の袖へ潜り込もうとした。
「切るぞ」
「待って!」
「待てません」
「母が消えたら」
「今のお前が消える」
澄花の動きが止まる。
青い根が、さらに強く締まった。
夜一は花鋏を振る。
刃が根へ触れた瞬間。
女の悲鳴が、店内へ響いた。
「ああああああっ!」
声は。
澄花に似ていた。
だが、もっと低い。
年を重ねた女の声。
「お母さん!」
澄花が青い花を抱える。
切られた根の断面から、青い汁が流れた。
床へ落ちる前に花弁となる。
一枚。
二枚。
三枚。
それぞれの中心に、小さな目が開いた。
すべてが澄花を見ている。
「お母さん」
澄花が震える。
「痛いの?」
青い花の中心から、声がした。
『澄花』
母親の声。
澄花の指から力が抜ける。
『帰ってきて』
「どこへ」
『家へ』
「今いるよ」
『違う』
青い花の目が、一斉に閉じる。
『あなたは、まだ帰ってきていない』
澄花の足元へ根が伸びる。
制服の色が変わった。
濡れた紺色から。
皺ひとつない新しい制服へ。
手の甲にあった小さな切り傷が消える。
目の下の隈も薄くなる。
「伊吹さん」
夜一は澄花の肩を掴んだ。
「俺を見てください」
「何」
「今日、何時に起きた」
「そんなこと」
「答えて」
澄花は戸惑う。
「五時」
「最初に何をした」
「薬を」
声が止まる。
制服の袖口が、さらに新しくなる。
「誰の薬ですか」
「お父さん」
「何を飲ませた」
「鎮痛剤と、胃薬と」
澄花の目に焦点が戻る。
「水を温めて」
「そのあと」
「吐いたから、シーツを替えて」
新しくなりかけていた制服へ、薄い染みが戻る。
「朝食は」
「食べてない」
「学校へは」
「遅刻した」
目の下の影が戻る。
手の甲の傷も。
制服の皺も。
青い根が緩んだ。
「それが、今のあなたです」
澄花の顔が歪む。
「こんなのが?」
「そうです」
「こんな毎日が、私?」
「それだけではありません」
「他に何があるの」
「それを、今から調べる」
夜一は青い根をもう一度切った。
女の悲鳴。
目の形をした花弁が床へ散る。
そのうち一枚が、夜一の靴へ張りついた。
幸福視が開く。
朝。
台所。
健康な父。
母親。
澄花。
笑っている。
だが今度は。
庭の奥が暗い。
朝日が差しているのに、花壇の一角だけ光が届かない。
そこに。
誰かが立っている。
顔は見えない。
小さな子ども。
母親が窓の外へ目を向ける。
笑顔が消える。
父親は気づかない。
澄花も。
母親だけが、庭の暗がりを見ている。
そして。
小さく呟いた。
――澄花には、何も知らないでいてほしい。
視界が戻る。
夜一は花弁を靴から剥がした。
「何を見た」
マシロが尋ねる。
「母親は、何か隠してる」
「何を」
「分からない」
「また」
「でも、幸福だけじゃない」
夜一は床へ落ちた花弁を拾う。
「庭に、誰かいた」
「誰ですか」
澄花が聞く。
「子ども」
「子ども?」
「顔は見えなかった」
「私?」
「違います」
「じゃあ」
「家へ行きます」
夜一は道具を鞄へ戻し始める。
花鋏。
黒糸。
赤い留め針。
灰瓶。
記録札。
「今から?」
「今からです」
「父と母が」
「二人とも、残花と深くつながっています」
「危険なんですか」
「まだ分かりません」
「母が、誰かを傷つける?」
「可能性はあります」
「そんな人じゃない」
「十年前の母親は、そうだったかもしれません」
澄花が夜一を見る。
「今の母親は」
「十年間、別の未来で生きてきた」
夜一は青い花を黒い布で包む。
根が布の内側から暴れた。
「あなたの知る母親と、同じとは限りません」
「でも、母です」
「そうかもしれない」
「どっちなんですか」
「まだ決めません」
「ずるい」
「そうですね」
夜一は鞄を閉じる。
澄花は立ち上がった。
濡れた制服の裾から、水が落ちる。
「家まで、歩いて二十分です」
「傘は」
「持ってません」
「見れば分かります」
「顔で?」
マシロが聞く。
「全身で」
「では、顔以外なら決めていい?」
「今それを掘るな」
夜一は店の傘立てを見る。
古い黒い傘が一本。
骨が一本曲がっている。
その隣に、透明なビニール傘。
持ち手が割れている。
「使えるのは」
澄花が尋ねる。
「どちらも一応」
「壊れてます」
「開けば差せる」
「そういう基準なんですか」
「捨てるほどではない」
「直さないの」
マシロが言う。
「時間がない」
「便利な言葉」
「お前が言うな」
夜一は黒い傘を澄花へ渡す。
自分はビニール傘。
マシロは何も持たない。
「お前は」
「雨が好き」
「濡れるぞ」
「花は雨で育つ」
「風邪を引く」
「植物は引かない」
「都合よく使うな」
「では、人間?」
「今は濡れる存在だ」
「曖昧」
マシロは入口へ向かう。
夜一は店の灯りを一つずつ消した。
厨房。
奥の棚。
窓際。
最後にカウンター。
琥珀色の光が小さくなる。
「閉めるんですか」
澄花が聞く。
「今夜は」
「依頼人が来たら」
「札を出す」
夜一は入口の看板を裏返した。
ただいま外出中。
戻る時間は未定。
「花屋って」
澄花が言う。
「普通、夜中に依頼人の家へ行くんですか」
「普通の花屋ではないので」
「自分で言うんですね」
「事実です」
「普通ではない花」
マシロが自分を指す。
「それはお前だ」
三人は店を出た。
雨は、まだ降っている。
商店街は眠っていた。
シャッター。
濡れた看板。
自動販売機の白い光。
道路へ落ちた桜の花弁が、水たまりの中で張りついている。
澄花が先を歩く。
黒い傘は、曲がった骨のせいで片側へ傾いていた。
夜一はその後ろを見る。
「傘」
「大丈夫です」
「右肩が濡れてる」
「いつもなので」
「いつも?」
「壊れてから、ずっと」
「なぜ買い替えない」
「まだ使えるから」
夜一は答えなかった。
澄花が振り返る。
「何ですか」
「別に」
「言いたいことがある顔です」
「顔で決めるな」
マシロが横から言う。
夜一は無視した。
雨の中。
三人の足音が続く。
夜一の靴。
澄花のローファー。
マシロの裸足。
「お前」
夜一は立ち止まる。
「何」
「靴は」
「ない」
「知ってる」
「では」
「店へ戻る」
「嫌」
「裸足で二十分歩くな」
「雨だから汚れない」
「泥はある」
「洗えばいい」
「足を切る」
「直せる?」
「お前はすぐ、それを言うな」
夜一は周囲を見る。
商店街の角に、閉店したままの雑貨店。
軒下へ、配達用の古い長靴が置かれている。
子ども用。
花柄。
片方の側面が裂けていた。
「それを借りる」
「勝手に?」
「明日返す」
「盗み」
「緊急避難」
「便利な言葉」
「履け」
マシロは長靴へ足を入れた。
右は少し大きい。
左は裂け目から雨が入る。
「変」
「我慢しろ」
「片方だけ冷たい」
「だから何だ」
「歩くたび、音が違う」
右。
ぱしゃ。
左。
ぐしゃ。
マシロは何度か歩く。
「面白い」
「目的を忘れるな」
「忘れてない」
澄花が、小さく笑った。
すぐに口元を押さえる。
「すみません」
「何が」
「こんなときに」
「笑ったことを謝るな」
夜一は歩き出す。
澄花は少しだけ遅れてついてくる。
「家に着いたら」
夜一が言う。
「最初に父親を確認します」
「母ではなく?」
「父親の身体が現実側の基準です」
「基準?」
「病気だった身体がどこまで残っているかを見る」
「治っていたら」
「残花の根付きが進んでいる」
「悪いことですか」
澄花の声が弱くなる。
「父が治ることが」
「治ること自体は悪くありません」
「なら」
「代わりに、誰の現在が消えるか分からない」
澄花は黙る。
「母親にも、すぐ触れないでください」
「どうして」
「あなたを取り込もうとしている可能性があります」
「母が?」
「残花が」
「同じじゃないんですか」
夜一は答えを選ぶ。
「今は、同じ部分と違う部分があります」
「曖昧」
「曖昧なものを、無理に一つにしないでください」
澄花は傘の柄を握る。
「母は、私を愛していると思います」
「はい」
「なら、どうして私を消そうとするんですか」
マシロが先に答えた。
「愛しているから」
澄花が彼女を見る。
「何」
「愛しているから、今の澄花を消そうとしている」
「そんなの」
「人間もするだろう?」
マシロは裂けた長靴で水たまりを踏む。
「愛しているから、相手を自分の望む形へ変えようとする」
夜一はマシロを見る。
佐伯の残花。
自分を捨てない娘。
自分なしで幸せになってほしくなかった妻。
あの黒い棘の匂いが、まだ指先に残っている。
「母は」
澄花の声が震える。
「私を、どんな形にしたいんでしょう」
「それを聞きに行きます」
住宅地へ入る。
古い家々。
狭い道路。
雨樋から流れる水。
澄花は角を曲がる。
「あそこです」
白い二階建ての家。
庭には、青い花が咲いていた。
一輪ではない。
門から玄関まで。
窓の下。
屋根。
雨樋。
壁の亀裂。
数え切れないほどの青い花が、家全体を覆っている。
窓には明かり。
カーテンの向こうに。
三人の影が見えた。
父。
母。
娘。
食卓を囲んでいる。
「私がいる」
澄花が呟く。
隣にいる本人とは別の。
制服を着た少女の影。
窓の向こうで笑っている。
その肩へ、母親が手を置く。
父親は健康そうに立ち上がった。
食卓には湯気。
家族三人。
空席はない。
澄花の手から、傘が落ちた。
「誰」
窓の向こうの少女が。
ゆっくりとこちらを向いた。
同じ顔。
同じ髪。
ただし。
疲れも。
傷も。
濡れた制服もない。
幸福な澄花が、窓越しに笑う。
そして。
口を動かした。
――おかえり。
家を覆う青い花が。
一斉に開いた。




