帰ってきた母親
「選ばなかった未来を、燃やしてくれる花屋ですか」
濡れた制服の少女は、もう一度尋ねた。
店の床へ雨水が落ちている。
肩。
髪。
スカートの裾。
傘を持っていないらしい。
片手に握られた青い花からも、水滴が落ちていた。
「燃やすとは限りません」
夜一は答えた。
少女の表情が固くなる。
「でも、消してくれるんですよね」
「最初から消すと決めているなら、花局へ行ってください」
「花局には行きました」
「何と言われた」
「残花ではないって」
少女は古い家族写真をカウンターへ置いた。
写真には、若い夫婦と幼い女の子が写っている。
父親。
母親。
六歳ほどの娘。
三人は古い遊園地の入口に立ち、少し眩しそうに笑っていた。
写真の端は擦れている。
何度も開き。
何度も触れ。
何度も同じ顔を確かめた痕跡があった。
「十年前の写真です」
少女は言った。
「写っている女の人が、私の母です」
「今は?」
「昨日、帰ってきました」
夜一は少女を見る。
「十年前に失踪したんです」
店の奥で、マシロが青い花へ顔を近づけていた。
夜一はその額を指で押す。
「嗅ぐな」
「まだ食べない」
「食べる前提で話すな」
少女がマシロを見る。
「この人は」
「店の者です」
「人?」
マシロが顔を上げる。
「たぶん」
「余計なことを言うな」
「分からないものを、分かったことにするなと言った」
「今それを使うな」
少女は戸惑ったまま、二人を見ている。
夜一はカウンターの椅子を引いた。
「座ってください」
「服が濡れてます」
「椅子は拭けばいい」
少女は少し迷ってから腰を下ろした。
夜一は厨房へ入り、タオルを一枚持ってくる。
「使ってください」
「ありがとうございます」
少女は受け取ったが、髪を拭かなかった。
膝の上へ置く。
指が細かく震えている。
「名前は」
「伊吹澄花です」
「いぶき、すみか」
マシロが繰り返した。
夜一は彼女を見る。
「知ってたのか」
「さっき言った」
「お前がな」
「だから知っている」
「そういう話じゃない」
澄花の顔が強張る。
「私の名前を、どうして」
「分からない」
マシロは即答した。
「知っている気がした」
「会ったことは」
「ないと思う」
「思う?」
「記憶が、全部私のものではないから」
澄花は夜一へ視線を向けた。
「説明してください」
「後で」
「今、私の名前を」
「先に依頼を聞きます」
「でも」
「残花がつながっている可能性がある」
夜一は青い花を見る。
「その花は、どこで」
「家の庭です」
「今日咲いた?」
「昨日です。母が帰ってきたあと」
「持ち主は」
「分かりません」
「誰かが触った?」
「母が」
澄花の指が写真へ触れる。
「帰ってきた母が、庭から摘んで、私に渡しました」
青い花の茎には、細い根が残っている。
摘んだというより。
抜き取った。
しかも根は切れていない。
どこか別の場所へ、今もつながっているように微かに脈打っている。
「母親は今、家に?」
「父といます」
「父親の状態は」
「病気です」
「何の」
澄花の声が僅かに詰まる。
「膵臓癌です」
夜一は言葉を止めた。
「余命は」
「三か月」
雨が店の窓を叩く。
一定だった音が、少し強くなった。
「母が消えたのは、私が六歳のときです」
澄花は写真を見たまま話し始めた。
「朝起きたら、いませんでした。服も。靴も。鞄も。何もなくなっていなかったのに」
「置き手紙は」
「ありません」
「警察は」
「捜しました。でも、見つからなかった」
「父親は何と」
「何も」
「何も?」
「母の話をすると、黙りました」
澄花はタオルを握る。
「ずっとです。十年、何を聞いても」
「夫婦関係は」
「知りません」
「喧嘩は」
「覚えてません」
「母親が消えた前後で、何か変わったことは」
澄花は首を横に振る。
「本当に?」
「覚えてないんです」
青い花の花弁が一枚、閉じた。
夜一はそれを見る。
「記憶を切られている可能性がある」
「誰に」
「まだ分かりません」
「また」
マシロが言った。
「何が」
「夜一は、分からないが多い」
「お前もだろ」
「私は最初から分からない」
「威張るな」
澄花は二人のやり取りへ少しだけ目を向けた。
張りつめていた肩が、僅かに下がる。
夜一は厨房へ戻った。
「温かいものを出します」
「要りません」
「手が冷えてる」
「大丈夫です」
「大丈夫な人間は、タオルを握り潰しません」
澄花が自分の手を見る。
タオルは細く捩れていた。
夜一は湯を沸かす。
コーヒーではなく、薄い紅茶。
蜂蜜を少し。
カップを澄花の前へ置く。
「熱いので」
「気をつけてね、澄花」
マシロが言った。
澄花の手が止まる。
夜一も。
マシロは自分の口を押さえた。
「今の」
澄花の声が震える。
「誰に教わったんですか」
「知らない」
「嘘」
「嘘ではない」
「母が、よく言ったんです」
澄花はマシロを見つめる。
「熱いものを出すたびに。必ず」
マシロの金色の瞳が、一瞬だけ青く濁る。
「朝は、牛乳を飲んで」
別の声が混じる。
「パンの耳も残さないで」
「やめろ」
夜一がマシロの肩を掴んだ。
「戻れ」
「玉葱は、小さく切らないと」
「マシロ」
「澄花が残すから」
「俺を見ろ」
マシロの瞳が揺れる。
青。
金。
透明。
「名前は」
「花守、マシロ」
「好きなもの」
「甘いもの」
「嫌いなもの」
「白い花」
「雨」
「好き」
「俺のコーヒー」
「苦い」
「戻ったか」
マシロは瞬きをする。
「最初からいる」
「なら、今の声は誰だ」
「分からない」
澄花が椅子から立っていた。
「母です」
「断定しないでください」
「でも」
「似ているだけかもしれない」
「私の名前を知ってた」
「花から入った記憶です」
夜一は青い花を見る。
「母親本人とは限らない」
「なら、何なんですか」
「それを調べます」
澄花は再び座る。
今度はタオルを膝の上へ広げた。
「昨日」
ゆっくり話し始める。
「学校から帰ったら、家の前に母が立っていました」
「十年前と同じ姿で?」
「違います」
「年を取っていた?」
「はい」
夜一は眉を寄せる。
残花が作る人物は、通常、選ばれなかった瞬間の姿に近い。
十年間を経た姿で現れたのなら。
残花の中で、十年分の時間を生きていた可能性がある。
「母は、四十二歳になっていました」
「今の年齢と一致する?」
「します」
「外見だけではなく?」
「皺も。白髪も。昔なかった傷も」
「傷?」
「右手に火傷の跡がありました」
「原因を聞いた?」
「十年前、揚げ物をしていて油をこぼしたって」
「それは現実で起きた?」
「起きてません」
澄花は写真を裏返した。
裏面には日付と、短い文字が書かれている。
家族で初めて遊園地。
美緒。
冬一。
澄花。
「母は、私が知らない十年間を知っていました」
澄花は続ける。
「中学の入学式。高校受験。去年の誕生日。私が友達と喧嘩したことまで」
「実際に起きたこと?」
「少しずつ違いました」
「例えば」
「母がいることになっている」
澄花は唇を噛む。
「入学式の写真に、母が写ってました。昨日まではいなかったのに」
「写真が変わった?」
「はい」
「他には」
「近所の人も、母が十年間ずっと家にいたと言っています」
「学校の記録は」
「保護者欄が母の名前になっていました」
「父親は」
澄花が黙る。
「何が起きた」
「母が帰ってきた直後」
声が小さくなる。
「父が、立ち上がりました」
夜一は澄花を見る。
「それまで一人では歩けなかったのに」
澄花の指が震える。
「顔色も良くなって。咳も止まって。今朝は、自分でご飯を食べました」
「病院へは」
「連れていこうとしたら、父が嫌がりました」
「なぜ」
「母がいるから、もう大丈夫だって」
青い花の根が、カウンターの上を僅かに這った。
夜一は花鋏の柄へ手を置く。
「今、その花を切らないで」
澄花が言った。
「なぜ」
「母とつながっているんですよね」
「可能性があります」
「切ったら、母が消える?」
「分かりません」
「母を消しに来たのに」
澄花は自分で言ってから、顔を伏せた。
「私」
声が震える。
「母を消してほしくて来たんです」
「はい」
「父が助かるかもしれないのに」
「はい」
「それでも」
澄花は両手で頭を押さえた。
「帰ってきてほしくなかった」
青い花が、大きく開いた。
店内の空気が変わる。
雨の匂いが消え。
代わりに。
味噌汁。
焼いた魚。
新しい制服。
朝の食卓の匂い。
夜一の視界に、別の景色が重なる。
明るい台所。
エプロン姿の母親。
新聞を読む健康な父親。
制服を着た澄花。
三人の朝食。
母親が味噌汁をよそう。
「澄花、冷めるわよ」
少女が笑う。
「今行く」
父親が新聞を畳む。
「今日は俺が送っていく」
「お父さん、仕事は?」
「少しくらい遅れても大丈夫だ」
誰も病気ではない。
誰も消えていない。
介護も。
病院も。
夜中の咳も。
薬の時間もない。
幸福。
ごく普通の。
手に入らなかったことの方が不自然に思えるほど、自然な幸福。
夜一は花から手を離した。
「夜一」
マシロが呼ぶ。
夜一は息を吐く。
知らないうちに、青い花へ触れていた。
「何が見えたんですか」
澄花が尋ねる。
夜一は答えない。
「母がいましたか」
「いました」
「父は」
「健康でした」
「私は」
「笑っていました」
澄花の顔から血の気が引く。
「やっぱり」
小さく呟く。
「そっちの方が正しい」
「正しいとは言ってません」
「でも、幸せだった」
「はい」
「今より」
夜一は黙った。
嘘は言えない。
見えた未来では。
澄花は今より幸福だった。
「私が母を消したら」
澄花は青い花を見る。
「父はまた病気になりますか」
「可能性はあります」
「死にますか」
「可能性はあります」
「母も消える?」
「分かりません」
「私だけが」
澄花の声が掠れる。
「今のまま残るんですね」
母親を失い。
父親を介護し。
友人との時間を諦め。
帰宅することを恐れ。
父が死ねば楽になると思った自分のまま。
「なら」
澄花は夜一を見る。
「どうして、この現実を残さないといけないんですか」
夜一は答えられなかった。
青い花が。
澄花の問いへ応えるように。
カウンターの上へ、新しい根を伸ばした。




