百二十七人のマシロ
白い扉の鍵が。
内側から。
ゆっくりと外れた。
かちり。
小さな音だった。
だが、その音と同時に、食卓を満たしていた朝の匂いが消えた。
味噌汁。
焼き魚。
洗いたての布。
家族の生活を思わせる匂いが途切れ。
代わりに。
湿った土。
鉄。
燃え残った灰。
夜一が幼いころから知っている、地下温室の匂いが流れ込んできた。
「開けるぞ」
夜一は取っ手へ手をかけた。
マシロが隣に立つ。
黒糸は、二人の手首をつないだまま。
「切れたら」
「引け」
「夜一が切ったら?」
「お前が引け」
「どちらも落ちたら」
「そのとき考える」
「遅い」
「今はそれしかない」
扉を開く。
冷たい空気が押し寄せた。
◇
扉の向こうにあったのは。
地下温室だった。
夜明堂の地下にあるものと、よく似ている。
高い天井。
錆びた鉄骨。
曇ったガラス。
床一面を覆う黒い土。
壁際には長い作業台が置かれ、その上へ花鋏、灰瓶、黒糸、古い記録帳が並んでいる。
夜一が。
幼いころから見慣れていた道具。
違うのは。
温室の中央に、巨大な樹が生えていることだった。
白い幹。
青い葉。
透明な花。
黒い棘。
伊吹家のすべてが、一つの樹へ接ぎ木されている。
枝の先には、小さな景色が実っていた。
母親のいる食卓。
健康な父親。
凪と遊ぶ澄花。
火事から逃げ切った小春。
人間として成長するマシロ。
誰も失われなかった未来。
どの実も。
宝石のように美しかった。
「綺麗」
マシロが言う。
「怖い?」
「ああ」
「夜一も?」
「ああ」
樹の根元に。
一人の男が座っていた。
黒いシャツ。
灰色の髪。
伸びた無精髭。
痩せた顔。
右目に残る古い傷。
五年前に姿を消したときと。
ほとんど変わっていない。
久世黎明。
夜一の父親だった。
「遅かったな、夜一」
男は言った。
夜一は何も答えなかった。
言いたいことが多すぎた。
どこにいた。
なぜ消えた。
伊吹家に何をした。
小春をなぜここへ呼んだ。
マシロを何のために作った。
どれを先に聞いても。
別の何かを後回しにする気がした。
だから夜一は歩いた。
父親の前まで。
そして。
殴った。
乾いた音が温室へ響く。
黎明の顔が横を向いた。
唇から血が落ちる。
「挨拶としては悪くない」
「墓よりは殴りやすい」
「死んでいると思っていたか」
「そうなら、まだましだった」
黎明は口元の血を親指で拭った。
怒らない。
驚きもしない。
その態度が。
夜一をさらに苛立たせる。
「何でここにいる」
「説明すると長い」
「短くしろ」
「残花になった」
夜一の拳が止まる。
「何」
「正確には、生きた身体を捨て、世界花の根へ人格を移した」
「死んだのか」
「医学的には」
「どっちだ」
「どちらでもある」
「ふざけるな」
「ふざけてはいない」
黎明は樹の幹へ背を預けた。
その身体の一部から。
白い根が伸びている。
背中。
脇腹。
右腕。
根は幹とつながり、ゆっくり脈打っていた。
もう完全な人間ではない。
「お父さん」
小春が夜一の後ろから顔を出した。
黎明の表情が。
僅かに緩む。
「小春」
「お兄ちゃん、怒ってる」
「見れば分かる」
「謝った方がいいよ」
「そうだな」
黎明は夜一を見る。
「悪かった」
夜一は再び殴ろうとした。
マシロが袖を掴む。
「一度でいい」
「よくない」
「話が進まない」
「殴る方が早い」
「答えは出ない」
「気分は少しましになる」
「効率が悪い」
黎明が小さく笑った。
「お前がマシロか」
マシロの表情が消える。
夜一の袖を掴む手に、力が入った。
「知っているくせに」
「直接会うのは初めてだ」
「私を作った?」
「作った、という言い方は正確ではない」
「では?」
「束ねた」
マシロの白い髪へ。
黒い蕾が一つ生まれた。
夜一は父を見る。
「言い方を選べ」
「事実だ」
「事実なら、何を言ってもいいわけじゃない」
以前。
夜一がマシロへ言った言葉だった。
マシロが一瞬、夜一を見る。
黎明も。
それに気づいたようだった。
「少しは人間らしくなったな」
「最初から人間だ」
夜一が言う。
黎明はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで。
夜一の怒りが膨らむ。
「違うと言うなら、今度こそ殴る」
「人間という言葉の定義による」
「殴る」
「待て」
マシロが止めた。
「私が聞く」
彼女は夜一の前へ出る。
黎明と向かい合う。
「私は何」
「花守マシロ」
「名前ではなく」
「名前も答えの一部だ」
「逃げるな」
「夜一に似たな」
「嫌だ」
「ひどいな」
「質問に答えろ」
マシロの声は平静だった。
だが。
髪に咲く花々は、すべて閉じかけている。
彼女自身が恐れている。
彼女の中にいる、無数の人生も。
黎明は長く息を吐いた。
「お前は、複数の人花を一つの人格として定着させるために作られた器だ」
「器」
「伊吹家のような事件は、一つではない」
黎明は樹の枝を見上げる。
「生まれなかった子ども。帰らなかった母親。救われなかった恋人。戦争から戻らなかった兵士」
透明な実の中で。
無数の人影が動く。
「選ばれなかった未来の中で、人格を持つまで育った存在」
「花局は」
マシロが尋ねる。
「それらを危険な残花として剪定してきた」
「消した?」
「多くは」
「私は、その残り?」
「一部だ」
マシロの瞳が揺れる。
「何人」
「正確な数は分からない」
「数えなかった?」
「数えられなかった」
「何人」
黎明は黙る。
温室の奥で。
誰かの泣き声がした。
子ども。
老人。
女。
男。
複数の声が重なり。
一つの風のように樹を揺らす。
「最初は」
黎明が言った。
「百二十七」
温室が静まり返った。
澄花が息を呑む。
凪はマシロを見る。
百二十七人。
百二十七の。
選ばれなかった人生。
泣いた者。
愛した者。
生きたかった者。
誰かに呼ばれたかった者。
それらが。
今の少女の中にいる。
「今は」
マシロが尋ねる。
「増減している」
「食花するたび?」
「ああ」
「私は」
マシロは自分の胸元へ触れる。
「一人ではない」
「そうだ」
「では、私の言葉は」
夜一は無意識に。
黒糸を握っていた。
「今のお前のものだ」
黎明が答える。
「どうして言い切れる」
「百二十七人が同時に話しているわけではない」
「混ざっている」
「混ざっていても、選んでいるのは現在のお前だ」
マシロは反応しなかった。
髪の黒い蕾が。
少しだけ膨らむ。
「都合がいい」
「そうかもしれない」
「私が苦しんでいても」
マシロは黎明を見る。
「実験は成功したと言える」
「成功だとは思っていない」
「失敗?」
「それも違う」
「また、どちらでもない」
「人間も同じだ」
黎明はマシロを見る。
「誰も、自分一人だけでできてはいない」
「何」
「親の言葉。友人の癖。死者の記憶。愛された経験。傷つけられた記憶」
樹の枝に実った景色が揺れる。
「すべてが混ざって人格になる」
「私は、その比率が違うだけ?」
「構造は似ている」
「なら」
マシロの声が少し低くなる。
「なぜ私は花を食べる」
黎明は答えない。
「食べなければ?」
「定着が弱くなる」
「薄くなる?」
「ああ」
「消える?」
黎明は。
一瞬だけ。
夜一を見た。
「最終的には」
夜一は父の胸倉を掴んだ。
「何で黙ってた」
「お前には話していない」
「それを黙ってたと言う」
「知れば、マシロを残すために残花を集めただろう」
「当たり前だ」
「だから言わなかった」
「勝手に決めるな」
「お前は選べない」
夜一の目が細くなる。
「何だと」
「妹を救えなかった罪悪感で、目の前の一人を世界より重く数える」
黎明の声は低く。
静かだった。
「今もそうだ」
夜一の拳に力が入る。
「違う」
「伊吹家を助けるためではなく」
黎明はマシロを見る。
「マシロを失わない方法を探している」
「両方助ける」
「それが残花だ」
その言葉は。
先ほどマシロが夜一へ言ったものと同じだった。
誰も失わない。
誰も選ばない。
美しすぎる未来。
夜一は黎明を突き放した。
「それを作ったのは、お前だろ」
巨大な樹を指す。
「病気の父も、健康な父も。二人の澄花も。凪も。小春も。全部同時に置いた」
「ああ」
「何で花束にしなかった」
黎明の表情が。
初めて僅かに崩れた。
「できなかった」
「技術がなかった?」
「違う」
「なら」
夜一は、棘のない透明な花を見る。
「どうして、綺麗な未来だけ残した」
黎明は樹の幹へ触れる。
白い皮の下で。
色とりどりの記憶が流れている。
「捨てられなかった」
温室の奥で。
無数の花が。
小さく。
同時に開いた。




