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残花葬送 ー世界から消す未来を、君と花束にするー  作者: 桝田キゲン


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10/11

百二十七人のマシロ

 白い扉の鍵が。


 内側から。


 ゆっくりと外れた。


 かちり。


 小さな音だった。


 だが、その音と同時に、食卓を満たしていた朝の匂いが消えた。


 味噌汁。


 焼き魚。


 洗いたての布。


 家族の生活を思わせる匂いが途切れ。


 代わりに。


 湿った土。


 鉄。


 燃え残った灰。


 夜一が幼いころから知っている、地下温室の匂いが流れ込んできた。


「開けるぞ」


 夜一は取っ手へ手をかけた。


 マシロが隣に立つ。


 黒糸は、二人の手首をつないだまま。


「切れたら」


「引け」


「夜一が切ったら?」


「お前が引け」


「どちらも落ちたら」


「そのとき考える」


「遅い」


「今はそれしかない」


 扉を開く。


 冷たい空気が押し寄せた。


          ◇


 扉の向こうにあったのは。


 地下温室だった。


 夜明堂の地下にあるものと、よく似ている。


 高い天井。


 錆びた鉄骨。


 曇ったガラス。


 床一面を覆う黒い土。


 壁際には長い作業台が置かれ、その上へ花鋏、灰瓶、黒糸、古い記録帳が並んでいる。


 夜一が。


 幼いころから見慣れていた道具。


 違うのは。


 温室の中央に、巨大な樹が生えていることだった。


 白い幹。


 青い葉。


 透明な花。


 黒い棘。


 伊吹家のすべてが、一つの樹へ接ぎ木されている。


 枝の先には、小さな景色が実っていた。


 母親のいる食卓。


 健康な父親。


 凪と遊ぶ澄花。


 火事から逃げ切った小春。


 人間として成長するマシロ。


 誰も失われなかった未来。


 どの実も。


 宝石のように美しかった。


「綺麗」


 マシロが言う。


「怖い?」


「ああ」


「夜一も?」


「ああ」


 樹の根元に。


 一人の男が座っていた。


 黒いシャツ。


 灰色の髪。


 伸びた無精髭。


 痩せた顔。


 右目に残る古い傷。


 五年前に姿を消したときと。


 ほとんど変わっていない。


 久世黎明。


 夜一の父親だった。


「遅かったな、夜一」


 男は言った。


 夜一は何も答えなかった。


 言いたいことが多すぎた。


 どこにいた。


 なぜ消えた。


 伊吹家に何をした。


 小春をなぜここへ呼んだ。


 マシロを何のために作った。


 どれを先に聞いても。


 別の何かを後回しにする気がした。


 だから夜一は歩いた。


 父親の前まで。


 そして。


 殴った。


 乾いた音が温室へ響く。


 黎明の顔が横を向いた。


 唇から血が落ちる。


「挨拶としては悪くない」


「墓よりは殴りやすい」


「死んでいると思っていたか」


「そうなら、まだましだった」


 黎明は口元の血を親指で拭った。


 怒らない。


 驚きもしない。


 その態度が。


 夜一をさらに苛立たせる。


「何でここにいる」


「説明すると長い」


「短くしろ」


「残花になった」


 夜一の拳が止まる。


「何」


「正確には、生きた身体を捨て、世界花の根へ人格を移した」


「死んだのか」


「医学的には」


「どっちだ」


「どちらでもある」


「ふざけるな」


「ふざけてはいない」


 黎明は樹の幹へ背を預けた。


 その身体の一部から。


 白い根が伸びている。


 背中。


 脇腹。


 右腕。


 根は幹とつながり、ゆっくり脈打っていた。


 もう完全な人間ではない。


「お父さん」


 小春が夜一の後ろから顔を出した。


 黎明の表情が。


 僅かに緩む。


「小春」


「お兄ちゃん、怒ってる」


「見れば分かる」


「謝った方がいいよ」


「そうだな」


 黎明は夜一を見る。


「悪かった」


 夜一は再び殴ろうとした。


 マシロが袖を掴む。


「一度でいい」


「よくない」


「話が進まない」


「殴る方が早い」


「答えは出ない」


「気分は少しましになる」


「効率が悪い」


 黎明が小さく笑った。


「お前がマシロか」


 マシロの表情が消える。


 夜一の袖を掴む手に、力が入った。


「知っているくせに」


「直接会うのは初めてだ」


「私を作った?」


「作った、という言い方は正確ではない」


「では?」


「束ねた」


 マシロの白い髪へ。


 黒い蕾が一つ生まれた。


 夜一は父を見る。


「言い方を選べ」


「事実だ」


「事実なら、何を言ってもいいわけじゃない」


 以前。


 夜一がマシロへ言った言葉だった。


 マシロが一瞬、夜一を見る。


 黎明も。


 それに気づいたようだった。


「少しは人間らしくなったな」


「最初から人間だ」


 夜一が言う。


 黎明はすぐには答えなかった。


 その沈黙だけで。


 夜一の怒りが膨らむ。


「違うと言うなら、今度こそ殴る」


「人間という言葉の定義による」


「殴る」


「待て」


 マシロが止めた。


「私が聞く」


 彼女は夜一の前へ出る。


 黎明と向かい合う。


「私は何」


「花守マシロ」


「名前ではなく」


「名前も答えの一部だ」


「逃げるな」


「夜一に似たな」


「嫌だ」


「ひどいな」


「質問に答えろ」


 マシロの声は平静だった。


 だが。


 髪に咲く花々は、すべて閉じかけている。


 彼女自身が恐れている。


 彼女の中にいる、無数の人生も。


 黎明は長く息を吐いた。


「お前は、複数の人花を一つの人格として定着させるために作られた器だ」


「器」


「伊吹家のような事件は、一つではない」


 黎明は樹の枝を見上げる。


「生まれなかった子ども。帰らなかった母親。救われなかった恋人。戦争から戻らなかった兵士」


 透明な実の中で。


 無数の人影が動く。


「選ばれなかった未来の中で、人格を持つまで育った存在」


「花局は」


 マシロが尋ねる。


「それらを危険な残花として剪定してきた」


「消した?」


「多くは」


「私は、その残り?」


「一部だ」


 マシロの瞳が揺れる。


「何人」


「正確な数は分からない」


「数えなかった?」


「数えられなかった」


「何人」


 黎明は黙る。


 温室の奥で。


 誰かの泣き声がした。


 子ども。


 老人。


 女。


 男。


 複数の声が重なり。


 一つの風のように樹を揺らす。


「最初は」


 黎明が言った。


「百二十七」


 温室が静まり返った。


 澄花が息を呑む。


 凪はマシロを見る。


 百二十七人。


 百二十七の。


 選ばれなかった人生。


 泣いた者。


 愛した者。


 生きたかった者。


 誰かに呼ばれたかった者。


 それらが。


 今の少女の中にいる。


「今は」


 マシロが尋ねる。


「増減している」


「食花するたび?」


「ああ」


「私は」


 マシロは自分の胸元へ触れる。


「一人ではない」


「そうだ」


「では、私の言葉は」


 夜一は無意識に。


 黒糸を握っていた。


「今のお前のものだ」


 黎明が答える。


「どうして言い切れる」


「百二十七人が同時に話しているわけではない」


「混ざっている」


「混ざっていても、選んでいるのは現在のお前だ」


 マシロは反応しなかった。


 髪の黒い蕾が。


 少しだけ膨らむ。


「都合がいい」


「そうかもしれない」


「私が苦しんでいても」


 マシロは黎明を見る。


「実験は成功したと言える」


「成功だとは思っていない」


「失敗?」


「それも違う」


「また、どちらでもない」


「人間も同じだ」


 黎明はマシロを見る。


「誰も、自分一人だけでできてはいない」


「何」


「親の言葉。友人の癖。死者の記憶。愛された経験。傷つけられた記憶」


 樹の枝に実った景色が揺れる。


「すべてが混ざって人格になる」


「私は、その比率が違うだけ?」


「構造は似ている」


「なら」


 マシロの声が少し低くなる。


「なぜ私は花を食べる」


 黎明は答えない。


「食べなければ?」


「定着が弱くなる」


「薄くなる?」


「ああ」


「消える?」


 黎明は。


 一瞬だけ。


 夜一を見た。


「最終的には」


 夜一は父の胸倉を掴んだ。


「何で黙ってた」


「お前には話していない」


「それを黙ってたと言う」


「知れば、マシロを残すために残花を集めただろう」


「当たり前だ」


「だから言わなかった」


「勝手に決めるな」


「お前は選べない」


 夜一の目が細くなる。


「何だと」


「妹を救えなかった罪悪感で、目の前の一人を世界より重く数える」


 黎明の声は低く。


 静かだった。


「今もそうだ」


 夜一の拳に力が入る。


「違う」


「伊吹家を助けるためではなく」


 黎明はマシロを見る。


「マシロを失わない方法を探している」


「両方助ける」


「それが残花だ」


 その言葉は。


 先ほどマシロが夜一へ言ったものと同じだった。


 誰も失わない。


 誰も選ばない。


 美しすぎる未来。


 夜一は黎明を突き放した。


「それを作ったのは、お前だろ」


 巨大な樹を指す。


「病気の父も、健康な父も。二人の澄花も。凪も。小春も。全部同時に置いた」


「ああ」


「何で花束にしなかった」


 黎明の表情が。


 初めて僅かに崩れた。


「できなかった」


「技術がなかった?」


「違う」


「なら」


 夜一は、棘のない透明な花を見る。


「どうして、綺麗な未来だけ残した」


 黎明は樹の幹へ触れる。


 白い皮の下で。


 色とりどりの記憶が流れている。


「捨てられなかった」


 温室の奥で。


 無数の花が。


 小さく。


 同時に開いた。

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