誰も選ばなくていい世界
「捨てられなかった」
温室の奥で。
無数の花が。
小さく。
同時に開いた。
白。
青。
黄色。
黒。
透明。
どの花の中心にも。
誰かの人生が映っている。
生まれなかった子ども。
帰らなかった母親。
戦争から戻らなかった兵士。
病気で失われた恋人。
選ばれなかった未来の中で。
それでも生きていた者たち。
「私は送花師だった」
黎明が言った。
「知ってる」
「数え切れない残花を送った」
男の指が。
白い樹の幹へ沈む。
「依頼人に選ばせ」
一輪の花が暗くなる。
「選ばれなかった未来を束ね」
別の花も。
「燃やした」
温室を満たす花々が。
順番に頭を垂れていく。
「それが仕事だった」
「今さら罪悪感か」
夜一が言う。
「最初はなかった」
「では、何が変わった」
「声を聞いた」
黎明は顔を上げた。
「送られる側の声だ」
凪が動く。
残花側の澄花も。
健康な冬一も。
彼らは。
現在から見れば、選ばれなかった人生だった。
「消えたくない」
黎明の声へ。
別の誰かの声が重なる。
「自分も生きたかった」
女。
男。
子ども。
老人。
「選ばれなかっただけで、価値がないのか」
温室の土が震える。
根の下から。
無数の声が湧き上がる。
「現在の人間が決めた結びで」
「なぜ、自分たちが燃やされなければならない」
「私たちも、生きていた」
「まだ、生きたい」
声は言葉になり。
また風へ戻る。
巨大な樹の葉が。
強い風もないのにざわめいた。
「花局は、残花を災害として扱う」
黎明が言う。
「実際、町を食う」
夜一は答えた。
「場所を与えないからだ」
「何」
「選ばれなかった未来が存在できる場所はない」
黎明は透明な実へ触れる。
その中で。
知らない少女が、家族と食卓を囲んでいる。
「現在へ出れば、侵食と呼ばれる」
実の中の家族が笑う。
「内側へ留まれば、剪定される」
黎明の指先で。
実に細い亀裂が走った。
「どちらにいても、消される」
「だから世界を作った?」
「ああ」
黎明は巨大な樹を見上げた。
「すべての残花が、誰も押し出さずに存在できる場所」
「できてない」
夜一は即座に言った。
黎明の目が止まる。
「外の町を食ってる」
「まだ完成していない」
「伊吹家を使った」
「基礎になった」
「人間を材料にしたと言え」
美緒の身体が震えた。
冬一が顔を伏せる。
現在の澄花は。
黎明から目を逸らさない。
「十年前」
夜一が言った。
「伊吹家の処置を失敗させたのは、お前か」
「失敗ではない」
健康な冬一が前へ出た。
「あんたが」
拳が震えている。
「あんたが、美緒と凪を残したのか」
「二人を切らずに保存した」
「頼んでない」
「切ってほしかったのか」
「違う!」
冬一の声が温室へ響く。
「では、何を望んだ」
「妻も子どもも残してほしかった!」
冬一は叫んだ。
「でも、澄花も失いたくなかった!」
「だから、両方を保存した」
「こんな形で?」
「当時は、他に方法がなかった」
「それを失敗と言うんだ!」
冬一の拳が。
黎明の頬へ入った。
乾いた音。
二度目。
黎明の身体は倒れない。
背中から伸びた白い根が。
男を樹へ固定している。
「俺たちは」
冬一の声が震える。
「十年だぞ」
「知っている」
「美緒は十年、朝から出られなかった」
「知っている」
「澄花は、母親に捨てられたと思って」
「知っている」
「凪は」
冬一は顔のない少年を見る。
「家族に選ばれるのを待っていた」
「知っている」
「知ってて、何もしなかったのか!」
「維持するために、ここにいた」
「何もしてないのと同じだ!」
冬一が、もう一度拳を上げる。
現在の澄花が腕を掴んだ。
「やめて」
「でも」
「死なない人を殴っても、たぶん終わらない」
「死なないわけではない」
黎明が言う。
「黙って」
澄花は鋭く返した。
黎明が口を閉じる。
夜一は。
少しだけ気分がよかった。
「あなたは」
澄花は父の腕を離し、黎明へ向き直る。
「私たちを助けたつもりですか」
「可能性を残した」
「聞いてるのは、そういうことじゃない」
「では」
「助けたかったのか」
澄花は言う。
「自分の研究に使いたかったのか」
黎明は十六歳の少女を見る。
母親を十年待ち。
病気の父を介護し。
誰にも知られない生活を続けた少女。
自分が記録の中でしか知らなかった人間を。
「両方だ」
澄花の顔が歪んだ。
「最低」
「ああ」
「否定しないんですか」
「否定すれば、研究に使った事実だけを花束の外へ捨てることになる」
夜一は黎明を見る。
その考え方を。
父から教わった覚えがある。
綺麗な部分だけを束ねるな。
醜い感情も。
身勝手な願いも。
本人のものなら、花束へ入れろ。
黎明は。
その思想を知っている。
知った上で。
他人の人生を選択の外へ置いた。
「だからって」
澄花の声が震える。
「認めれば、許されるわけじゃない」
「許されるつもりはない」
「便利ですね」
「そうだな」
「何でも分かってる顔をして」
澄花は涙を拭った。
「だったら、私たちの十年も知ってるんですか」
「記録としては」
「記録」
「すべてではない」
「じゃあ、知らない」
澄花は言い切った。
「私がお父さんを嫌いになった夜も」
黎明は黙っている。
「病院の廊下で、一人で寝た日も」
美緒が娘を見る。
「お母さんの顔を忘れたくなくて、アルバムを抱えて泣いたことも」
冬一が目を伏せる。
「記録に書いてないなら、知らない」
「その通りだ」
「残花の未来ばかり見て」
澄花は黎明を睨む。
「現在を見てなかった」
その言葉で。
黎明の目が。
僅かに揺れた。
夜一は見逃さなかった。
「選ばれなかった人たちを、助けたかったんですよね」
澄花が続ける。
「そうだ」
「でも、そのために」
現在の澄花は。
残花側の自分を見る。
同じ顔。
違う十年。
「選ばれた側の人生を、材料みたいに使った」
「その通りだ」
「じゃあ」
澄花は息を吸った。
「あなたのやったことは、間違いです」
「そうかもしれない」
「そうかもしれないじゃない」
「私が決めることではない」
「逃げないで!」
澄花の叫びが。
温室を大きく揺らした。
枝に実った景色が明滅する。
幸せな食卓。
健康な父。
小春の笑顔。
人間になったマシロ。
「あなたが決めたんでしょう!」
澄花は叫ぶ。
「十年前、私たちに選ばせずに!」
黎明の表情から。
初めて余裕が消えた。
夜一は父を見る。
他人へ選択を委ねるふりをする。
だが。
選択肢を作ったのは、黎明だ。
残花を救う。
現在を守る。
その両方を選べる世界を作る。
誰も。
どちらかを捨てなくてよいように。
誰も。
自分を責めなくて済むように。
それは。
優しさだけではない。
「父さん」
夜一が言った。
黎明が息子を見る。
「お前の棘は、それか」
「何」
「残花を救いたかったんじゃない」
「救いたかった」
「それも本当だ」
「なら」
「送った未来の全部に」
夜一は父へ近づく。
「責められるのが怖かった」
黎明の目が止まる。
温室の黒い土から。
細い棘が一本、伸びた。
父の足元へ。
「違う」
「自分が燃やした人生が、本当は生きたかったと知った」
「当然だ」
「だから全部残そうとした」
「ああ」
「違う」
夜一は首を横に振る。
「全部残せば」
黒い棘が。
黎明の足首へ絡む。
「自分が誰も殺していないことにできるからだ」
「違う」
「選ばなかった未来を救えば」
夜一は父の顔を見る。
「送花師だった自分も、間違っていなかったことにできる」
「黙れ」
「誰も消えない世界を作れば」
「黙れ」
「今まで燃やした未来も、失敗ではなかったと思える」
「黙れ!」
黎明の声が。
温室全体を揺らした。
巨大な樹の枝が大きくしなる。
透明な実が。
一斉に強い光を放つ。
小春が頭を抱える。
マシロの髪の花々が。
激しく開閉した。
「夜一」
黎明の顔から。
父親の表情が消えている。
「お前に何が分かる」
「分からない」
「なら」
「でも」
夜一は黒糸を見る。
自分と。
マシロをつないでいる糸。
「お前と同じことをしてるから、分かる」
黎明の動きが止まった。
「俺も」
夜一は言う。
「マシロを失わない方法を探してる」
マシロが夜一を見る。
「伊吹家も」
澄花。
冬一。
美緒。
凪。
「小春も」
黄色いワンピースの妹。
「全部残せる方法を」
「それが悪いのか」
黎明が尋ねる。
「悪くない」
「なら」
「でも」
夜一は巨大な樹を見上げた。
「全部残すために」
白い根が。
温室の外へ伸びている。
夜明堂の地下。
伊吹家。
町。
そこに生きる人間たちへ。
「誰かの現在を食うなら」
夜一は言った。
「それは救いじゃない」
「現在だけが特別か」
「違う」
「残花も同じだけ生きたい」
「知ってる」
「なら、なぜ」
「同じだからだ」
夜一は。
伊吹家の花を束ねた未完成の花束を持ち上げた。
「残花にも、選ばせる」
黎明の眉が動く。
「何を」
「残るか」
青い花。
「送られるか」
黒い花。
「別の形になるか」
透明な花。
「現在の人間が作った選択肢だ」
「なら増やす」
「どうやって」
「今から考える」
黎明が。
乾いた笑いを漏らした。
「時間はない」
「知ってる」
「外では結実が始まっている」
「知ってる」
「この世界花を切れば、ここにいる人花は消える」
「だから」
夜一は樹を見る。
伊吹家。
小春。
マシロ。
無数の選ばれなかった人生。
「花束にする」
黎明の笑みが消えた。
「世界花を?」
「ああ」
「誰の依頼として」
夜一は。
父親を見る。
「お前だ」
温室の花々が。
風もないのに。
一斉に。
黎明へ顔を向けた。




