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残花葬送 ー世界から消す未来を、君と花束にするー  作者: 桝田キゲン
二.名前のない君を、残す方法

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消える前に書いておく

夜一は写真立てをテーブルへ置いた。


 写っているのは、夏帆一人。


 その隣に、環が少し前に撮影した画像を表示した端末を並べる。


 同じ写真立て。


 同じ場所。


 そこには、夏帆と幼い湊が写っていた。


「両方残す」


 夜一は言った。


 どちらが本物なのか。


 その問いは、まだ口にしない。


 環は二つを同じ画角に収め、さらに撮影した。


「時刻を書きます」


 紙にも記録する。


 撮影日時。


 確認者。


 場所。


 使用端末。


「どっちが本物だ」


 湊が聞いた。


「分からない」


 夜一は答えた。


「両方、記録に残す。それだけだ」


「でも」


「今ここで決めても、増えない」


「何が」


「分かることが」


 湊は黙った。


 夜一は二枚の記録を黒い布の上へ並べた。


 一方は、今。


 もう一方は、少し前。


 少なくとも、それぞれを確認した時点では。


 そこに違う事実があった。


          ◇


 湊本人は、すぐそばに立っていた。


 息をしている。


 声も出る。


 床には影も落ちている。


 環が腕時計を見る。


「少し確認します」


「何を」


 湊が聞く。


「体温、脈拍、簡単な反応です」


「僕、病気なの」


「そうとは言っていません」


 環は湊の手首へ指を当てた。


 脈拍。


 大きな異常なし。


 体温。


 正常範囲。


 呼吸。


 異常なし。


 小さなライトを当てれば、瞳孔も正常に反応する。


「普通?」


 湊が聞いた。


「今確認した範囲では」


 環はそう答えた。


「僕」


 一拍。


「消えるの?」


 環の手が止まった。


 夜一も、すぐには答えなかった。


「分からない」


「そんな」


「でも」


 夜一は湊を見る。


「今はいる」


          ◇


「いるうちに調べる」


 保証ではない。


 慰めでもない。


 湊は納得していない顔をした。


 それでも、少しだけ頷いた。


          ◇


 環は質問項目を紙へ書き出した。


「夏帆さん」


「はい」


「湊くんについて、いくつか確認します」


「分かりました」


「名前」


「高瀬湊」


「誕生日」


 夏帆はすぐに答えた。


「好きな食べ物」


「ハンバーグ。あと、甘い卵焼き」


「嫌いなもの」


「椎茸」


「小さい頃の癖」


「眠る前に、布団の角を指で丸める」


 湊が顔をしかめる。


「今それ言う?」


「確認なので」


 環は淡々と続けた。


「初めて喋った言葉は」


 夏帆の表情が止まった。


「……覚えて」


 声が途切れる。


 眉間へ指を当てた。


「前は」


「何ですか」


「覚えていた気がします」


 その一つだけだった。


 名前も。


 誕生日も。


 好物も。


 小さな癖も。


 すぐに答えられた。


 なのに、最初の言葉だけが輪郭を失っている。


 夜一は記録帳へ書いた。


 初語――現在、想起不能。


 夏帆本人――「以前は覚えていた感覚」あり。


「ほかは」


 環が聞く。


「今のところ、答えられています」


 夜一が言った。


「今のところ」


 夏帆が、その言葉を小さく繰り返す。


 誰も続けなかった。


          ◇


 台所では、湊が誰もいない場所を見ていた。


「みなみ、苺の方が好きだったって」


「違う」


 夏帆が反射的に言った。


 全員が彼女を見る。


 夏帆自身が、一番驚いていた。


「何が」


 夜一が聞く。


「……苺じゃない」


「じゃあ」


 夏帆は口元を押さえた。


 言葉が勝手に出てくることを怖がるように。


「ソーダ味」


 湊が目を見開いた。


「そう」


 夏帆は顔を上げる。


「苺は――」


 そこで、また止まる。


「何です」


 環が静かに促した。


「種が嫌いだった」


 沈黙。


 夏帆は自分の手を見る。


「私」


 声が震える。


「何で知ってるの」


 夜一は記録帳へ書いた。


 湊に関する記憶――一部想起不能。


 みなみに関する情報――一件、新規想起。


 ペン先を止める。


「相関は」


 環が言った。


「まだ断定できません」


「分かってる」


 夜一は答えた。


 減ったから、増えた。


 増えたから、減った。


 そこまでは書かない。


 ただ。


 二つを同じ頁に残した。


          ◇


 環は端末を開いた。


「先ほどの画像を確認します」


 幼い湊が写っている一枚。


 午後五時十二分。


 高瀬家の棚。


 夏帆の隣で、幼い湊が笑っている。


「同じファイル?」


 夜一が聞く。


「同じです」


「更新時刻」


「変化なし」


「圧縮は」


「していません」


 環が画面を拡大する。


 湊の頬。


 輪郭。


 背景の桜。


「……薄い」


 夜一が画面へ顔を寄せた。


 完全に消えているわけではない。


 だが、頬の輪郭だけが背景へ少し溶け込んだように見える。


「光か」


「撮影直後に確認したときは、ここまでではありませんでした」


「端末の補正」


「可能性はあります」


「別の端末は」


「今送ります」


 環は画像を別端末へ複製した。


 USBにも保存。


 紙へも印刷する。


 切り抜きや加工はせず、元画像をそのまま残した。


「これで安全か」


 夜一が聞く。


 環は答えなかった。


「分からない?」


「はい」


「珍しいな」


「分からないことを、分かったふりはしません」


「それ」


 夜一が言う。


「最近よく聞く」


 マシロが横から画面を覗いた。


「薄い」


「分かるのか」


「見れば」


「匂いじゃなく?」


「目もある」


「知ってる」


 マシロは画像を見たまま言った。


「消える前の顔って、こうなる?」


「決めるな」


「聞いただけ」


 夜一は画面から目を離した。


          ◇


 記録帳。


 夜一は、昼に書いた一文を見直した。


 ――湊が写る写真、一枚、現在状態から欠落。


 文字は、まだ残っている。


「俺が忘れたら」


 夜一は言った。


「これを読んで、誰のことだと思う」


 環の手が止まる。


 マシロが横から記録帳を覗き込んだ。


「名前を書く」


「誰の」


「今いる人」


 夜一は湊を見る。


 新しい頁を開いた。


 高瀬湊。


 十歳。


 右足の靴に黒い泥が付着していた。


 妹を探して、夜明堂へ来た。


 最初に出した蜂蜜入りの牛乳を、なかなか飲まなかった。


 探している妹の名前は、みなみ。


 一つずつ。


 書いていく。


 事件の成立に必要なことだけではない。


「それ、必要ですか」


 環が聞いた。


「何が」


「牛乳のことです」


「事件には要らない」


「では」


「湊には要る」


 環は何も言わなかった。


 夜一は続けた。


 質問されると、考えるより先に「分からない」と口にすることがある。


 みなみの話をするときだけ、少し早口になる。


 写真の空白を指で強くなぞる。


 アイスは急いで食べる。


「書きすぎ」


 マシロが言った。


「駄目か」


「手が疲れる」


「俺の手だ」


「ならいい」


 夜一はペンを置いた。


「覚えていれば」


 独り言に近かった。


「同じなのか」


「私は違う」


 マシロが即座に答えた。


 夜一は彼女を見る。


「そうだったな」


 それ以上は聞かなかった。


          ◇


 環の端末が震えた。


 花局からの追加照会。


「破損文書の別断片が見つかりました」


 夜一が顔を上げる。


「読めるか」


「一部だけ」


 環が画面を見せた。


 古い紙。


 焦げた端。


 途中で切れた文字。


 対象:未成立人格――


「人格?」


 夜一が聞く。


「分類名なのか、状態を示す記述なのかは不明です」


「人間だったのか」


「それも判断できません」


「今の規定には」


「完全一致する分類はありません」


「昔だけ?」


「照会中です」


 夜一は画面を見る。


 未成立人格。


 意味は決めない。


 今分かっているのは。


 そこに、その文字が書かれていたことだけだ。


 夜一は記録帳へ、そのまま写した。


          ◇


「夜一さん」


 湊が呼んだ。


「何だ」


「僕の部屋、見て」


 二階へ上がる。


 子ども部屋。


 机。


 ランドセル。


 教科書。


 どれも、まだある。


 夜一は机の引き出しを開けた。


 名札。


 油性ペンで、


 ――高瀬湊。


 ただし。


「瀬」の右側だけが滲み、少し読みにくくなっている。


「昨日は」


 湊が言う。


「普通だった」


「覚えてるのか」


「うん」


 夜一は環を見る。


「撮ってる」


 環はすぐに端末を開いた。


 午後五時十二分。


 部屋の記録。


 開いた引き出し。


 名札。


 ――高瀬湊。


 撮影時点では、文字は崩れていない。


「変化を確認」


 環が言う。


 夜一は記録する。


 名札――現在、文字一部劣化。


 午後五時十二分の外部記録では正常。


 その隣。


 見覚えのない紙が入っていた。


 黄色いクレヨンで描かれた絵。


 二人の子どものような形。


 顔は描かれていない。


 その下に、たどたどしい文字。


 ――みなみ。


 夜一は手を伸ばさなかった。


「環」


「撮影します」


 現在状態を撮る。


 そのあとで、午後五時十二分の画像を確認する。


 同じ引き出し。


 名札。


 鉛筆。


 消しゴム。


 何枚かの紙。


 だが。


 黄色い絵はない。


「増えた」


 マシロが言った。


「現在には存在します」


 環が訂正する。


「撮影時点では?」


 夜一が聞く。


「記録上、確認できません」


「なら、それを書く」


 夜一は記録帳へ記した。


 顔のない二人の子どもを描いた絵。


 現在――存在確認。


 午後五時十二分の外部記録――確認できず。


 増加候補。


 原因は書かなかった。


          ◇


 店へ戻る前。


 夜一はリビングでもう一度、記録帳を開いた。


 高瀬湊。


 そう書く。


 その下。


 ――今、ここにいる。


「どうして二回書く」


 マシロが聞いた。


「忘れたときのため」


「二回なら忘れない?」


「知らない」


 夜一はペンを止めない。


「だから、もう一回書く」


 三度目。


 高瀬湊。


 書き終えた、そのとき。


 湊が隣の空いた椅子を見た。


「みなみ?」


「どうした」


 夜一が聞く。


 湊は誰もいない場所を見たまま、少し黙った。


「僕の名前」


 一拍。


「呼べる?」


 誰もいない場所へ向けた言葉。


 沈黙。


 夜一には何も見えない。


 環にも。


 夏帆にも。


 マシロだけが、わずかに鼻先を上げた。


 そして。


 声がした。


 ――お兄ちゃん。


 今度は。


 その場にいた全員へ届いた。


 湊の名前ではない。


 夜一は、ゆっくり記録帳へ視線を落とした。


 高瀬湊。


 高瀬湊。


 高瀬湊。


 三つ。


 同じ名前が。


 まだ。


 そこに残っていた。

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