妹が増えるたびに
湊は、誰もいない場所を見ていた。
「どこにいる」
夜一が聞く。
「あそこ」
湊が指した。
季節外れの向日葵。そのすぐ横。
砂の上には、何もない。
「笑ってる」
「誰が」
「みなみ」
夜一には見えない。
だから、見えるふりもしなかった。
確かめられるのは、湊の視線の角度と、瞬きの間隔。さっきまで強張っていた口元が、少しだけ緩んでいること。
それだけだ。
「どれくらいの背だ」
湊は、自分の肩より少し下へ手をやった。
「このくらい」
「服は」
「黄色っぽい」
「靴は」
湊の視線が足元へ落ちる。
「履いてない」
夜一は砂を見る。
向日葵のそばから続く、小さな裸足の足跡。
「髪は」
「……分からない」
「顔は」
湊は少し考えた。
「みなみだって、分かる」
「どんな顔だ」
「……分からない」
分かる。
なのに、言葉にはできない。
「名前だけ分かる?」
「違う」
湊が少し強く言った。
「みなみだよ」
夜一は、それ以上聞かなかった。
「マシロ」
「何」
「見えるか」
マシロは向日葵へ鼻を近づけた。
黄色い花。
黒い泥。
小さな足跡。
しばらくして、顔を上げる。
「分からない」
「いる感じは」
「聞き方が雑」
「なら、好きに答えろ」
マシロは少し考えた。
「近い」
「何が」
答えはなかった。
そのとき、湊の顔がふっと緩んだ。
「みなみが」
「何だ」
「帰ろって」
「何て」
「お兄ちゃん、おうち帰ろって」
幼い言葉だった。
呪いでもない。
脅しでもない。
ただ、家へ帰りたい子どもの言葉。
「一緒に帰れる?」
湊が夜一を見る。
「まず、お前が帰る」
「みなみも?」
「まだ何も決めてない」
「でも、見つかった」
「お前にはな」
「じゃあ」
「まず帰る」
夜一は同じ言葉を繰り返した。
連れて帰るとも。
消すとも。
言わなかった。
◇
駅へ向かう途中、夜一は何度か後ろを振り返った。
誰もいない。
「湊」
「何」
「まだいるか」
「いる」
「どこ」
湊は自分の右側を指した。
誰もいない歩道。
「歩いてる?」
「うん」
「足は見える?」
「見える」
「足跡は」
夜一は地面を見る。
湊。
夜一。
環。
マシロ。
四人分。
それだけだった。
「ない」
夜一が言う。
「でも、いる」
「分かった」
否定はしない。
確認できないだけだ。
◇
駅へ入る。
改札の前で、湊が止まった。
「どうした」
「みなみ」
「何」
「切符ない」
「必要なのか」
湊は誰もいない隣を見る。
「分からない」
「お前もか」
「だって、みなみだから」
「説明になってない」
マシロが改札を見る。
「花は切符を買う?」
「お前も買え」
「私は人間?」
「今その話をするな」
「便利」
環は二人のやり取りを無視して端末を操作した。
「移動時刻と位置を保存します」
「そこまでやるか」
「今だからやります」
環は湊を見る。
「何か変化したら言ってください」
「はい」
「見えなくなった場合も」
湊の表情が少し曇った。
「……はい」
◇
電車の中。
湊は窓際へ座った。
隣を一席だけ空けて。
「そこにいるのか」
夜一が聞く。
「うん」
誰もいない席。
湊は自然に、そこへ身体を寄せないようにしていた。
昔から誰かの場所だったように。
環は端末を見ている。
「久世さん」
「何だ」
「これ」
画面を向ける。
海岸へ到着した直後の写真。
湊が水筒を持っている。
青い水筒。
次の写真。
同じ水筒。
ただし、柄の線だけが黄色く見える。
「撮影条件は」
「ほぼ同じです」
「光か」
「可能性はあります」
「端末の補正」
「それも否定できません」
「今は」
「記録だけ残します」
環は撮影時刻を書き出した。
端末だけではなく、紙へ。
「電子記録が信用できない?」
夜一が聞く。
「両方残すだけです」
「慎重だな」
「あなたが雑なんです」
「俺も書いてる」
「字が読みにくい」
「内容は読める」
「ぎりぎりです」
マシロが夜一の記録帳を覗く。
「本当に読みにくい」
「お前まで言うな」
湊が小さく笑った。
それから、誰もいない隣へ顔を向ける。
また笑う。
その相手だけは。
夜一には見えなかった。
◇
高瀬家へ着いたのは夕方だった。
夏帆が玄関を開ける。
「おかえ――」
途中で声が止まった。
湊。
夜一。
環。
マシロ。
その間。
誰もいない場所へ、夏帆の目が一瞬だけ止まった。
「どうしました」
夜一が聞く。
「いえ」
夏帆は額へ手を当てる。
「何でもありません」
「みなみも帰ってきた」
湊が言った。
夏帆の表情が固まる。
「湊」
「ここにいる」
湊が隣を指した。
夏帆には、何も見えていない。
それでも。
湊が玄関へ入った、その一歩あと。
「靴、脱ぎなさい」
夏帆が言った。
全員が止まった。
夏帆自身も。
「……今」
自分の口元へ手を当てる。
「誰に言ったんでしょう」
湊が小さく言う。
「みなみ」
「違う」
夏帆は反射的に否定した。
だが、声に力はなかった。
「そんな子は――」
その先が続かない。
夜一は何も言わず、玄関へ目をやった。
傘立て。
黄色い小さな傘が一本ある。
「これ」
夏帆も見る。
「……ありましたっけ」
「見覚えは」
「あるような」
一度、息を止める。
「ないような……」
◇
洗面所。
歯ブラシが二本並んでいた。
湊の青いもの。
その隣に、黄色。
新品ではない。
毛先が開いている。
「これは」
夏帆が手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「私が買った?」
「覚えてませんか」
「分からない」
夜一は記録帳を開く。
黄色い傘。
子ども用歯ブラシ。
新たに確認。
そこまで書いて、筆が止まった。
増加。
そう書こうとして。
やめる。
昨日、自分たちが家全体を記録したわけではない。
昨日なかったと、確定できる物だけではない。
「増えた、とはまだ書けないな」
環が横から言った。
「ああ」
「存在確認時刻だけ」
夜一は書き直した。
◇
リビング。
夜一は、これまでの記録を見返した。
サンダル。
ヘアゴム。
身長線。
後から現れた向日葵の絵。
海岸で現れた向日葵。
そして今日確認した、傘と歯ブラシ。
みなみに結びつきそうなものばかりが並んでいる。
「環」
「何です」
「俺たち」
夜一は記録帳を見る。
「増えた方ばかり見てる」
環の手が止まった。
「何を言いたいんです」
「減ってる方を」
一拍。
「確認してない」
環はすぐには答えなかった。
代わりに、部屋を見る。
棚。
時計。
本。
家具。
写真。
「相関はまだ確認されていません」
声は冷静だった。
「何かが増えれば別の何かが減る、と決まったわけではありません」
「分かってる」
「同時に起きているだけかもしれない」
「それも分かってる」
夜一は部屋を見回す。
「だから」
「両方見る」
環は鞄からカメラを取り出した。
「今から、可能な範囲で家の中を記録します」
「全部?」
夏帆が聞く。
「比較できるようにするためです」
「何のために」
環は一瞬考える。
「次に何か変わったとき」
一拍。
「変化前と比較するために」
夏帆の顔が強張る。
「この家、変わるんですか」
「すでに変化が起きている可能性があります」
環が答えた。
「断定はできません」
夜一が横から言う。
「ただ」
黄色い傘を見る。
「確認しない理由もない」
環は撮影を始めた。
棚。
壁。
食器棚。
冷蔵庫。
時計。
窓。
写真立て。
「時刻」
夜一が言う。
「入ってます」
「紙にも」
環は一度、夜一を見た。
それから手帳を開く。
「午後五時十二分」
「細かいな」
「必要です」
夜一も同じ時刻を書いた。
◇
棚に並ぶ写真を、一枚ずつ確認していく。
「ここ」
夜一の手が止まった。
「何ですか」
夏帆が隣へ来る。
「前に来たとき」
夜一は空いた場所を指す。
「湊の入学式の写真があった」
夏帆は棚を見る。
「入学式……」
声が止まる。
「ありました?」
「俺は見た」
「私」
夏帆は眉間へ手を当てた。
「入学式には行きました」
「誰と」
「湊と」
「写真は」
「撮った」
一拍。
「……気がします」
夜一は夏帆を見る。
「気がする?」
「はい」
夏帆の顔から、少しずつ血の気が引いていく。
「写真を撮ったかどうかくらい」
喉が鳴る。
「普通なら、覚えてるはずなのに」
夜一は記録帳へ書いた。
入学式写真――現在位置で確認できず。
夏帆――撮影記憶の確信低下。
消失。
とは、まだ書かない。
◇
リビングの隅で、マシロが鼻を鳴らした。
「夜一」
「何」
「みなみは濃くなってる」
「分かるのか」
「匂い」
「どんな」
「甘い」
少し間。
「でも」
「何だ」
「家が薄い」
夜一は眉を寄せた。
「どういう意味だ」
「そのまま」
「説明になってない」
「分からないから」
夜一は、それ以上聞かなかった。
マシロ自身にも、意味までは分かっていない。
ただ。
髪に咲く青い花は、海岸にいたときより一輪増えていた。
◇
台所。
湊が、誰もいない椅子を見る。
「みなみ、お腹すいた?」
「何て言った」
夜一が聞く。
「お腹すいたって」
「何が食べたい」
湊が、誰もいない場所へ聞いた。
「アイス」
「誰が言った」
「みなみ」
湊は冷凍庫を開けた。
中には、同じアイスが二本入っていた。
「二本?」
夏帆が言う。
「買ったのか」
夜一が聞く。
「一本だったと思います」
「思う?」
「湊の分だけ買った……はずです」
「レシートは」
「捨てたと思います」
夏帆は二本のアイスを見つめる。
「でも」
「何だ」
「二本買ったような気もする」
夜一は記録帳を開く。
アイス――二本確認。
購入本数――不明。
湊は嬉しそうに一本を取り出した。
「みなみ、同じの好きだった」
「違う」
夏帆が言った。
全員が彼女を見る。
夏帆自身が、誰より驚いていた。
「今」
自分の唇へ触れる。
「私、何を」
「何が違う」
夜一が聞く。
「分かりません」
「何か知ってる?」
「分からない」
夏帆は誰もいない椅子を見る。
「でも」
言葉が止まる。
「あの子――」
夜一が顔を上げた。
「誰だ」
「……分からない」
夏帆は頭を押さえた。
「何で、今」
震えた息。
「あの子って」
誰も答えられなかった。
◇
環の端末が短く震えた。
画面を開いた環の表情が止まる。
「久世さん」
「何だ」
「五年前の紙記録。一部が見つかりました」
「内容は」
「破損しています」
環が画面を見せる。
古い文書。
焼け焦げた端。
滲んだ文字。
読めるのは、一行の途中までだった。
対象:未成立――
そこで途切れている。
「続きは」
「ありません」
「誰の記録だ」
「担当者欄は欠落しています」
「処置内容」
「判読不能」
「未成立って何だ」
「分かりません」
環は画面を閉じなかった。
「現在の花局規定に、完全一致する分類はありません」
「昔は」
「照会中です」
「五年前には使ってた?」
「それも、まだ確認できていません」
夜一は画面の文字を見る。
未成立。
それ以上の意味は、まだ与えなかった。
◇
湊はアイスを一本、自分で開けた。
もう一本を。
誰もいない椅子の前へ置く。
「はい、みなみ」
夜一たちには。
そこに誰もいない。
湊だけが笑っている。
「同じの好きだった」
夏帆が唇を噛む。
そのとき。
誰も触れていないアイスの表面が、少し崩れた。
角が丸くなる。
さらに。
もう少し。
まるで、小さくかじられたように。
環がすぐに撮影する。
夜一は時刻を書く。
マシロが鼻を押さえた。
「甘い」
「アイスが?」
「違う」
夜一は聞かなかった。
直後。
棚の方で。
ことり。
小さな音がした。
写真立てが一つ倒れている。
夜一が拾った。
中の写真。
若い夏帆。
公園らしい場所。
隣には。
誰もいない。
夜一の目が止まる。
「これ」
「何ですか」
夏帆が近づく。
「最初に来たとき」
一拍。
「ここに湊が写ってた」
夏帆の顔が固まる。
「……そうでした?」
「環」
「分かってます」
環が端末を開いた。
午後五時十二分。
この部屋へ戻ってすぐ撮影した棚。
同じ写真立て。
拡大する。
若い夏帆。
その隣に。
幼い湊が笑っている。
全員が黙った。
夜一は、今手に持っている写真を見る。
夏帆だけ。
環の端末を見る。
そこには。
まだ湊がいる。
「外に残した記録は」
夜一が言う。
「保持されています」
環が答えた。
一拍。
「現時点では」
夜一が彼女を見る。
「現時点?」
「この先も保持されるとは」
環は画面から目を離さない。
「まだ言えません」
夜一は湊を見る。
本人は、すぐそこにいる。
アイスを食べている。
息をしている。
こちらを見ている。
「何」
湊が聞く。
「何でもない」
「嘘?」
マシロが言う。
「今は黙ってろ」
「顔が違う」
「顔で決めるな」
マシロは口を閉じた。
夜一は記録帳を開く。
これまでの頁。
みなみに関係する痕跡。
サンダル。
ヘアゴム。
傘。
歯ブラシ。
アイス。
向日葵。
その隣に、新しい欄を作った。
【減少・欠落候補】
入学式写真――現在確認できず。
湊が写っていた写真――一枚、現在状態から欠落。
夏帆の記憶――一部確信低下。
そして。
【外部記録】
湊の写る過去画像――現時点で保持。
夜一は一度、筆を止めた。
増えた。
減った。
まだ、その二つが交換なのか。
同じ原因なのか。
偶然重なっただけなのか。
何も分からない。
だから。
数を合わせなかった。
因果も書かなかった。
ただ。
同じ頁に。
二つの欄を作った。
増えたもの。
減ったもの。
夜一は初めて。
その両方を。
同時に見ることにした。




