夏へ続かない道
三日後。
環が、写真の背景照合を終えた。
「灯台の形式、堤防の角度、遠景の岬。ほぼ特定できました」
夜明堂のカウンターに地図が広げられる。
赤い印が一つ。
高瀬家から、電車で二時間半ほど。
小さな漁港に隣接した海水浴場だった。
「湊は連れていかない」
夜一が言った。
「僕も行く」
湊がすぐに答える。
「危険がある」
「みなみのことだ」
引く気はなかった。
夜一は少年を見る。
十歳。
何が起きているのかも、まだ分からない。
連れていかない理由なら、いくらでもあった。
だが。
本人の知らないところで、本人に関わるものを決めすぎない。
それもまた、夜一がここまで選んできたやり方だった。
「……条件がある」
環が眉を寄せる。
「連れていくんですか」
「本人に何も聞かずに決めたくない」
「子どもですよ」
「分かってる」
「危険性も確認できていません」
「だから、確認しに行く」
「その確認に子どもを連れて?」
環の声は厳しい。
夜一は湊を見る。
「嫌になったら、その場で帰る」
「うん」
「俺たちから離れない」
「うん」
「花でも声でも、勝手についていかない」
「うん」
「何か見えたら、先に言う」
「分かった」
「それでも行くか」
「行く」
迷いはなかった。
「私も付く」
マシロが言った。
短く。
環はしばらく黙っていたが、やがて湊へ向き直る。
「危険が確認されたら即撤退します。久世さんたちから離れない。何か見えても、聞こえても、勝手に近づかない。いいですね」
「はい」
「返事は一度でいいです」
「はい」
「今のは二度目です」
「面倒」
マシロが言った。
「あなたには言ってません」
環は地図を畳んだ。
「行きましょう」
◇
電車は空いていた。
湊は窓際に座り、流れていく景色を見ている。
マシロは駅で買った小さな水筒を両手で持ち、ときどき中を覗いていた。
「甘いか」
夜一が聞く。
「まだ飲んでない」
「なら分からないだろ」
「匂いで分かる」
「何杯入れた」
「二杯」
「多い」
「三杯より少ない」
「比較対象がおかしい」
マシロは水筒の蓋を閉じた。
夜一は湊を見る。
「この景色、覚えてるか」
湊が窓へ顔を近づける。
住宅街。
駅。
川。
トンネル。
知らない町。
しばらくして、首を横に振った。
「分からない」
「初めて見る感じか」
「……初めてな気がする」
海で遊んだ記憶はある。
花火。
アイス。
向日葵。
みなみ。
だが、そこへ向かう道がない。
電車に乗った記憶も。
駅へ来た記憶も。
誰かに連れられた記憶も。
窓の外を、知らない駅がいくつも通り過ぎていく。
「気持ち悪い?」
マシロが聞いた。
湊は少し考えた。
「怖い」
「そう」
「でも」
窓の外を見たまま、湊は言う。
「行きたい」
マシロは何も言わなかった。
髪の根元に、小さな青い蕾だけが生まれた。
◇
海岸へ着いたのは、昼を少し回った頃だった。
風が冷たい。
春の海に海水浴客はいない。
海の家はシャッターを下ろし、砂浜にも人影はなかった。
遠く、岬の先に赤い灯台が立っている。
夜一は写真を取り出した。
海。
砂浜。
灯台。
遠景の岬。
角度を合わせる。
「ここだ」
写真が撮られた場所と、ほぼ一致していた。
「湊」
「はい」
「そこに立て」
湊が波打ち際から少し離れた、乾いた砂の上へ歩く。
「もう少し右」
環が写真を見ながら指示する。
「そこです」
湊が止まった。
写真と、ほぼ同じ構図。
夜一は黙って少年を見る。
すると。
湊の右手が、ゆっくり横へ伸びた。
何もない空間へ。
「湊」
呼ばれて、湊が自分の手を見る。
「何してる」
「……分からない」
「自分で動かしたか」
「分からない」
指が、わずかに曲がる。
誰かの手を包むように。
「手をつながないと」
湊が呟いた。
そこで、自分でも言葉に気づいたように止まる。
「誰と」
「……分からない」
夜一は写真を見る。
写真の中でも、湊の右手だけが同じように誰もいない場所へ伸びている。
身体だけが覚えている。
そんな言葉が頭をよぎった。
だが。
それも、まだ仮説だ。
◇
砂浜を歩く。
環は足元を確認しながら進んでいた。
「これ」
しゃがみ込み、砂の中から黒く焦げた小さな棒を拾う。
夜一が覗き込んだ。
「線香花火か」
「燃え殻に見えます」
「春の海岸に?」
マシロが聞く。
「ゴミかもしれない」
夜一は答えた。
風で飛ばされた。
季節外れに誰かが遊んだ。
去年から残っていた。
説明はいくらでも作れる。
夜一は湊を見る。
湊は燃え殻から目を離さなかった。
「花火した」
「ここで?」
「たぶん」
「誰と」
湊は答えない。
夜一は環へ視線を送った。
環が燃え殻を採取袋へ入れる。
まだ。
断定はしない。
◇
さらに進んだところで、マシロが足を止めた。
「夏」
「春だ」
夜一が言う。
「知ってる」
マシロは鼻先を風へ向けていた。
「匂う?」
「少し」
「何が」
答えはなかった。
海風が吹く。
冷たい潮の匂い。
濡れた砂。
古い木材。
その中に混じって。
じり。
短い音がした。
夜一が振り返る。
「今の」
誰も答えない。
じり。
もう一度。
蝉。
夏に聞く声だった。
夜一は周囲を見る。
砂浜。
防波堤。
低い草。
蝉が鳴くような木は見当たらない。
三度目はなかった。
「録れた?」
夜一が聞く。
環が端末を見る。
「確認します」
「今じゃなくていい」
「なぜです」
「湊を先に見る」
湊は、蝉の声に反応していなかった。
ただ海の向こうを見ている。
◇
「こっち」
突然、湊が歩き出した。
夜一がすぐに肩を掴む。
「勝手に行くな」
「でも」
「何だ」
「知ってる」
「何を」
湊は前を見たまま答える。
「分からない」
夜一は手を離さない。
「道を覚えてるのか」
「違う」
「じゃあ何だ」
「こっちって、分かる」
知っている。
なのに、説明できない。
夜一にも、似た感覚の覚えがあった。
幸福視を失ってから。
目には何も見えなくても、手だけが昔と同じ場所へ伸びることがある。
花鋏。
黒糸。
花束。
身体に残った手順。
「離れるな」
「うん」
「走るな」
「うん」
「何か見えたら」
「言う」
「何か聞こえても」
「言う」
「勝手に返事するな」
「分かった」
夜一は湊の肩から手を離した。
一行は、湊が示す方向へ進んだ。
◇
海岸の奥。
使われなくなった防波堤の陰に、古い海の家が残っていた。
板は色褪せ、シャッターの一部が外れている。
看板の文字も半分ほど消えていた。
「ここ」
湊が言う。
「来たことがある?」
「分からない」
「でも、ここ?」
「うん」
夜一は建物を見回した。
入口。
壁。
窓。
柱。
その一本に。
鉛筆の線が二本、並んでいた。
子どもの身長を測ったような線。
高い方には、
――みなと。
低い方には、
――みなみ。
夜一が近づく。
「湊」
「何」
「覚えてるか」
湊は線を見つめた。
しばらくして、首を横に振る。
「……分からない」
環が柱へ顔を近づけた。
触れずに、端末で拡大する。
「劣化が少なすぎます」
「古くない?」
「一年近く前の線には見えません」
「いつ書かれた」
「断定できません」
即答だった。
夜一は二本の線を見る。
高瀬家の柱にも、よく似た記録があった。
向こうでは、名前の方が消えかけていた。
ここには。
残っている。
「撮ります」
環が端末を構えた。
シャッター音。
一枚。
画面を確認する。
夜一はもう一度、柱を見た。
違和感。
「待て」
「何です」
夜一は柱へ近づく。
「みなみ」の文字。
その横に。
小さな向日葵の絵があった。
「これ」
環も見る。
「今の写真には」
「なかった」
夜一が言った。
環が、数秒前に撮影した画像を開く。
二本の線。
――みなと。
――みなみ。
そこまで。
向日葵はない。
環が現在の柱へ端末を向ける。
画面の中にも、今度は向日葵が映った。
「増えてる」
マシロが言う。
「現実改変?」
環の声が硬くなる。
「分からない」
夜一は即答した。
だが。
柱から目を離せなかった。
写真は証拠になる。
少なくとも、これまではそう考えていた。
幸福視を失ってから、夜一は自分の目で確認できるものを調べることにした。
泥。
写真。
傷。
使用痕。
記録。
見えない未来ではなく、今ここにあるものを一つずつ確かめる。
それなら。
間違っても、どこで間違えたか辿れると思っていた。
だが。
その「今ここにあるもの」自体が。
目の前で増えている。
「夜一」
マシロが呼ぶ。
「何だ」
「違う」
「何が」
マシロは柱へ鼻を近づけた。
向日葵の絵。
鉛筆の線。
古びた木。
それから、ゆっくり顔を上げる。
「変わった、じゃない」
「じゃあ」
「増えてる」
前にも聞いた言葉だった。
夜一は柱を見る。
消されたものが戻っているのではない。
なかったものが後から入り込み、まるで最初からそこにあったような痕跡を作っている。
そう考えれば、辻褄は合う。
だが。
夜一は口にしなかった。
辻褄が合うことと。
正しいことは違う。
「湊」
返事がない。
夜一が振り返る。
湊は柱を見ていなかった。
海を見ていた。
◇
遠く。
波打ち際には、誰もいない。
湊が一歩前へ出る。
夜一が肩を掴んだ。
「何が見えた」
「分からない」
「何かいる?」
「……分からない」
湊は海から目を逸らさない。
少し間があった。
「でも」
「何だ」
「呼ばれた」
そのとき。
夜一の鞄の中で。
かさり。
乾いた音がした。
夜一は鞄を下ろす。
証拠袋。
枯れた向日葵。
その花弁が。
一枚だけ。
動いた。
風ではない。
袋の中だ。
そして。
声。
――お兄ちゃん。
夜一の手が止まる。
以前、店で聞いたときよりも、はっきりしていた。
近い。
「湊」
夜一は少年を一歩後ろへ引く。
環が銀の鋏へ手を伸ばす。
「まだ切るな」
「分かってます」
マシロの髪に。
一輪。
二輪。
三輪。
薄青い花が咲く。
「マシロ」
返事がない。
「何がいる」
「分からない」
「匂いは」
マシロは海を見る。
「夏」
風が止んだ。
音も。
一瞬だけ。
遠のいた。
波の音さえ。
砂浜の一角。
冷たい春の砂の上に。
一本だけ。
向日葵が咲いていた。
黄色い花弁。
青い空。
季節から外れた色。
その根元の砂だけが、黒く湿っている。
「さっきまで」
環が言う。
「ありませんでした」
夜一は答えない。
向日葵の脇。
砂が小さく凹んでいた。
裸足の足跡。
一歩。
二歩。
三歩。
小さな子どものもの。
波打ち際へ向かって続いている。
夜一たちは、その跡を目で追った。
四歩。
五歩。
六歩。
そこで。
途切れていた。
波に消されたわけではない。
水際までは、まだ距離がある。
何もない砂の上で。
突然。
足跡だけが終わっている。
「みなみ」
湊が呼んだ。
「返事するな」
夜一が言う。
「でも」
「まだだ」
夜一には、誰も見えない。
環も銀の鋏を持ったまま動かない。
「マシロ」
「何」
「見えるか」
マシロは答えなかった。
ただ。
髪に咲いた青い花が、もう一輪増えた。
湊は誰もいない波打ち際を見つめている。
瞬きもしない。
「湊」
夜一が呼ぶ。
返事がない。
「何が見えてる」
湊の唇が、わずかに動いた。
「……笑ってる」
夜一は海を見る。
誰もいない。
「誰が」
湊は、空っぽの砂浜を見たまま答えた。
「みなみ」
春の海で。
季節外れの向日葵だけが。
風もないのに。
ゆっくりと揺れていた。




