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残花葬送 ー世界から消す未来を、君と花束にするー  作者: 桝田キゲン
二.名前のない君を、残す方法

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21/25

まだ存在しなかった靴

翌朝。


 夜明堂のカウンターには、黄色いサンダル、黒い泥のサンプル、枯れた向日葵、海辺の写真、自由研究のコピーが並んでいた。


 呼び鈴が鳴る。


 入ってきたのは朝比奈環だった。


「コーヒーは」


 夜一が聞く。


「牛乳多めで」


「蜂蜜は」


 横からマシロが口を挟む。


「いらない」


「信用できない」


「何を基準に?」


 環は答えず、鞄から薄いファイルを取り出した。


「泥の分析結果です」


 カウンターへ広げる。


「塩分濃度、貝殻片の混入、砂質。海岸由来の可能性が高い」


「どこの海か分かるか」


「そこまでは絞れません」


 夜一はファイルへ目を落とした。


 数値と分類が並んでいる。


 断定は、どこにもない。


「サンダルも食べれば分かるかもしれない」


 マシロが言った。


「駄目だ」


「一口だけ」


「靴を食うな」


「泥は食べない」


「そういう問題じゃない」


 夜一はサンダルを黒い布から出さないまま、環の方へ押した。


「これも調べられるか」


「型番とロゴがあります」


 環はサンダルを裏返し、底にある小さな刻印を確認した。


 携帯端末で照会する。


 しばらくして、その指が止まった。


「久世さん」


「何だ」


「このモデルの発売時期ですが」


 環が画面を見せる。


「去年の十月です」


 夜一は目を細めた。


「湊の記憶では」


「去年の八月に、みなみと海へ行った」


 環が続ける。


「二か月、合いません」


 沈黙。


 マシロがサンダルを覗き込む。


「使ってる」


 夜一も底を見る。


 踵の擦れ。


 柔らかくなった生地。


 新品ではない。


 誰かが実際に履いた形跡がある。


「使用痕はあるのに、その夏にはまだ売っていない」


「靴が嘘をついてる?」


 マシロが聞く。


「分からない」


 夜一は即答した。


「物が嘘をつくとは限らない。ただ、順番の方が合ってない可能性はある」


 環がファイルを閉じた。


「もう一つあります」


 声の調子が少し変わる。


「五年前、高瀬家の周辺で小規模な残花事案が発生しています」


 夜一が顔を上げた。


「詳細は」


「案件番号あり。発生地点あり。処置完了記録もあります」


 環はページをめくる手を止めた。


 いつもより、少し長く。


「ただし、対象の詳細だけが閲覧制限です」


「花局が消した?」


「まだ、そう決めないでください」


 環の声が硬くなる。


「電子記録と紙記録の内容が違います。担当者欄も空白。私にも分かりません」


「お前らの記録だろ」


「私の記録ではありません」


 環はそれ以上言わなかった。


 夜一も追及しない。


 隠している顔ではない。


 知らないことを、知らないと言っている。


 今はそれでいい。


 夜一は海辺の写真をカウンターへ置いた。


 遠くに白い建物があり、その先に小さな赤いものが写っている。


 灯台にも見えた。


「場所を絞る」


 地図を広げる。


 昨夜、夏帆から聞いたことを一つずつ書き出した。


 海へ行った記憶はある。


 赤い灯台にも見覚えがある。


 ただし。


 いつ。


 どこへ。


 誰と。


 そこだけが抜けている。


 写真の背景と地図を照らし合わせ、候補を一つずつ消していく。


 マシロはその横で写真を眺め、ときどき鼻を近づけた。


「海」


「それは分かってる」


「苦い」


「場所は」


「分からない」


「役に立たないな」


「花屋も」


「俺は調べてる」


「私も嗅いでる」


「そうか」


「そう」


 夜一は地図へ戻った。


 候補は三か所。


 夏帆へ電話で確認すると、そのうち一か所だけ、赤い灯台に見覚えがあるという。


 だが、場所の名前までは思い出せなかった。


 地図上で距離を測る。


「遠いな」


 高瀬家から、電車で二時間以上。


「十歳の子どもが一人で行く距離じゃない」


 夜一が言う。


「大人が連れていった」


 マシロが答える。


「なら、その大人は誰だ」


「夏帆?」


「本人には、その記憶がない」


 マシロは写真を見る。


 何も言わなかった。


 夜一も、その先は決めなかった。


          ◇


 午後。


 湊が学校帰りに夜明堂へやって来た。


 ランドセルを背負ったまま、いつもの椅子へ座る。


 夜一は黄色いサンダルをカウンターへ置いた。


「これ、お前が海へ行った夏には、まだ売ってなかった」


 湊は黙った。


「発売は去年の十月。お前の記憶では八月だ」


 視線がサンダルへ落ちる。


「でも」


 小さな声。


「みなみのです」


「それは覚えてるのか」


「覚えてる」


「みなみが、これを履いてるところは」


 湊は答えなかった。


 夜一は待った。


 急かさない。


 湊はサンダルを見つめたまま眉を寄せる。


「……分からない」


「履いてる姿は思い出せない」


「うん」


「なのに、みなみの靴だとは分かる」


「分かる」


 今度は迷わなかった。


 夜一は海辺の写真を横へ置いた。


「海で何をした」


「泳いだ」


「他には」


「花火した。アイスも買った」


「何個」


「二個」


「誰の分だ」


「僕と、みなみ」


「海へどうやって行った」


 湊の口が止まる。


「電車か。車か」


「……分からない」


「泊まった場所は」


「分からない」


「ホテル?」


「分からない」


「家から海まで、どれくらいかかった」


「分からない」


「誰と行った」


「みなみ」


「大人は」


 湊は首を横に振った。


「分からない」


 夜一はそこで口を閉じた。


 これ以上聞いても、同じところを回るだけだ。


 湊の記憶には海がある。


 向日葵がある。


 花火がある。


 二つのアイスがある。


 その中に、みなみがいる。


 だが。


 そこへ行く道がない。


 帰ってきた記憶もない。


 夏の中だけが、前後から切り離されて残っている。


「僕」


 湊が言った。


「はい」


 自分で言い直してから、少し俯く。


「僕、変ですか」


「変だな」


 湊の顔が曇った。


「でも、お前が嘘をついてるとは言ってない」


 顔が上がる。


「覚えてないものを、覚えてるふりするな」


「……うん」


「分からないなら、分からないでいい」


「それで、みなみを探せる?」


「知らない」


「知らない?」


「分からないものを、分かったことにするよりは近づける」


 湊はしばらく夜一を見ていた。


 やがて、小さく頷く。


 そのとき、マシロの髪に薄青い花が一輪咲いた。


「何だ」


 夜一が聞く。


「知らない」


「お前もか」


「分からないものを、分かったことにするなと言った」


「聞いてたのか」


「近いから」


「そうだな」


 湊が、ほんの少し笑った。


          ◇


 湊が帰ったあと、店はまた静かになった。


 夜一はカウンターへ証拠を並べ直す。


 サンダル。


 写真。


 泥。


 自由研究。


 向日葵。


 これまでなら、こう考えていた。


 みなみは存在した。


 その後、何者かが記録と記憶だけを消した。


 だが。


 サンダルの発売時期が、その順番と噛み合わない。


「後から増えた?」


 マシロが言った。


「何が」


「妹の痕跡」


 夜一は黄色いサンダルを見る。


 消されたのではなく。


 増えている。


 その可能性を、初めて仮説として置いた。


 過去にあったものが消えたのではなく。


 昨日まで存在しなかった過去が、あとから現在へ痕跡を伸ばしている。


 もしそうなら。


 これは、単に「消えた妹を探す」話ではない。


 だが。


 まだ仮説にすぎない。


「分からない」


 夜一は言った。


「そう」


 マシロも、それ以上は続けなかった。


 夜一はサンダルを黒い布へ戻そうとした。


 そこで指が止まる。


「マシロ」


「何」


「これ、昨日あったか」


 黄色いサンダルの内側。


 油性ペンで書かれた、


 ――みなみ。


 そのすぐ隣に。


 小さな向日葵が描かれていた。


 丸い中心。


 その周囲を囲む、不揃いな花弁。


 子どもが描いたような絵だった。


 夜一は昨日の記憶を探る。


 文字は見た。


 何度も確認した。


 だが、こんな絵は見ていない。


 マシロが顔を近づける。


「知らない」


「環」


 環が端末から顔を上げた。


「何です」


「昨日の記録を出せ」


 環は何も聞かず、撮影データを開いた。


 高瀬家の玄関。


 靴箱からサンダルを取り出した直後の写真。


 拡大する。


 黄色い内側。


 少し滲んだ文字。


 ――みなみ。


 それだけだった。


 向日葵はない。


「誰か触ったか」


「夜明堂へ持ち込んでからは、あなたと私とマシロだけです」


「監視記録は」


「残っています」


「描いた人間は」


 環が端末を操作する。


 数十秒。


「確認できません」


 夜一は実物を見る。


 向日葵はある。


 昨日の写真にはない。


「インクを調べられるか」


「できます」


 環が手を伸ばす。


 その前に、マシロが絵へ鼻を近づけた。


「マシロ」


「食べない」


「まだ何も言ってない」


「言う顔だった」


「顔で決めるな」


「夜一も私に言う」


「何を」


「食べる顔だって」


 夜一は黙った。


「同じ」


「今はそれどころじゃない」


「便利」


 マシロは向日葵の絵を見つめた。


「どうだ」


「新しい」


「インクが?」


「分からない」


 マシロは首を横に振る。


「じゃあ、何が」


 少し間があった。


「昨日より」


 マシロが言う。


「ここにいる」


 夜一は彼女を見る。


「誰が」


 マシロは答えなかった。


 ただ、黄色いサンダルを見る。


 そこに書かれた名前を。


 夜一も、それ以上は聞かなかった。


 実物を見る。


 昨日の写真を見る。


 もう一度、実物へ戻る。


 黄色いサンダル。


 滲んだ「みなみ」の三文字。


 その隣にある、小さな向日葵。


 昨日撮った写真には。


 その花だけが。


 どこにもなかった。

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