まだ存在しなかった靴
翌朝。
夜明堂のカウンターには、黄色いサンダル、黒い泥のサンプル、枯れた向日葵、海辺の写真、自由研究のコピーが並んでいた。
呼び鈴が鳴る。
入ってきたのは朝比奈環だった。
「コーヒーは」
夜一が聞く。
「牛乳多めで」
「蜂蜜は」
横からマシロが口を挟む。
「いらない」
「信用できない」
「何を基準に?」
環は答えず、鞄から薄いファイルを取り出した。
「泥の分析結果です」
カウンターへ広げる。
「塩分濃度、貝殻片の混入、砂質。海岸由来の可能性が高い」
「どこの海か分かるか」
「そこまでは絞れません」
夜一はファイルへ目を落とした。
数値と分類が並んでいる。
断定は、どこにもない。
「サンダルも食べれば分かるかもしれない」
マシロが言った。
「駄目だ」
「一口だけ」
「靴を食うな」
「泥は食べない」
「そういう問題じゃない」
夜一はサンダルを黒い布から出さないまま、環の方へ押した。
「これも調べられるか」
「型番とロゴがあります」
環はサンダルを裏返し、底にある小さな刻印を確認した。
携帯端末で照会する。
しばらくして、その指が止まった。
「久世さん」
「何だ」
「このモデルの発売時期ですが」
環が画面を見せる。
「去年の十月です」
夜一は目を細めた。
「湊の記憶では」
「去年の八月に、みなみと海へ行った」
環が続ける。
「二か月、合いません」
沈黙。
マシロがサンダルを覗き込む。
「使ってる」
夜一も底を見る。
踵の擦れ。
柔らかくなった生地。
新品ではない。
誰かが実際に履いた形跡がある。
「使用痕はあるのに、その夏にはまだ売っていない」
「靴が嘘をついてる?」
マシロが聞く。
「分からない」
夜一は即答した。
「物が嘘をつくとは限らない。ただ、順番の方が合ってない可能性はある」
環がファイルを閉じた。
「もう一つあります」
声の調子が少し変わる。
「五年前、高瀬家の周辺で小規模な残花事案が発生しています」
夜一が顔を上げた。
「詳細は」
「案件番号あり。発生地点あり。処置完了記録もあります」
環はページをめくる手を止めた。
いつもより、少し長く。
「ただし、対象の詳細だけが閲覧制限です」
「花局が消した?」
「まだ、そう決めないでください」
環の声が硬くなる。
「電子記録と紙記録の内容が違います。担当者欄も空白。私にも分かりません」
「お前らの記録だろ」
「私の記録ではありません」
環はそれ以上言わなかった。
夜一も追及しない。
隠している顔ではない。
知らないことを、知らないと言っている。
今はそれでいい。
夜一は海辺の写真をカウンターへ置いた。
遠くに白い建物があり、その先に小さな赤いものが写っている。
灯台にも見えた。
「場所を絞る」
地図を広げる。
昨夜、夏帆から聞いたことを一つずつ書き出した。
海へ行った記憶はある。
赤い灯台にも見覚えがある。
ただし。
いつ。
どこへ。
誰と。
そこだけが抜けている。
写真の背景と地図を照らし合わせ、候補を一つずつ消していく。
マシロはその横で写真を眺め、ときどき鼻を近づけた。
「海」
「それは分かってる」
「苦い」
「場所は」
「分からない」
「役に立たないな」
「花屋も」
「俺は調べてる」
「私も嗅いでる」
「そうか」
「そう」
夜一は地図へ戻った。
候補は三か所。
夏帆へ電話で確認すると、そのうち一か所だけ、赤い灯台に見覚えがあるという。
だが、場所の名前までは思い出せなかった。
地図上で距離を測る。
「遠いな」
高瀬家から、電車で二時間以上。
「十歳の子どもが一人で行く距離じゃない」
夜一が言う。
「大人が連れていった」
マシロが答える。
「なら、その大人は誰だ」
「夏帆?」
「本人には、その記憶がない」
マシロは写真を見る。
何も言わなかった。
夜一も、その先は決めなかった。
◇
午後。
湊が学校帰りに夜明堂へやって来た。
ランドセルを背負ったまま、いつもの椅子へ座る。
夜一は黄色いサンダルをカウンターへ置いた。
「これ、お前が海へ行った夏には、まだ売ってなかった」
湊は黙った。
「発売は去年の十月。お前の記憶では八月だ」
視線がサンダルへ落ちる。
「でも」
小さな声。
「みなみのです」
「それは覚えてるのか」
「覚えてる」
「みなみが、これを履いてるところは」
湊は答えなかった。
夜一は待った。
急かさない。
湊はサンダルを見つめたまま眉を寄せる。
「……分からない」
「履いてる姿は思い出せない」
「うん」
「なのに、みなみの靴だとは分かる」
「分かる」
今度は迷わなかった。
夜一は海辺の写真を横へ置いた。
「海で何をした」
「泳いだ」
「他には」
「花火した。アイスも買った」
「何個」
「二個」
「誰の分だ」
「僕と、みなみ」
「海へどうやって行った」
湊の口が止まる。
「電車か。車か」
「……分からない」
「泊まった場所は」
「分からない」
「ホテル?」
「分からない」
「家から海まで、どれくらいかかった」
「分からない」
「誰と行った」
「みなみ」
「大人は」
湊は首を横に振った。
「分からない」
夜一はそこで口を閉じた。
これ以上聞いても、同じところを回るだけだ。
湊の記憶には海がある。
向日葵がある。
花火がある。
二つのアイスがある。
その中に、みなみがいる。
だが。
そこへ行く道がない。
帰ってきた記憶もない。
夏の中だけが、前後から切り離されて残っている。
「僕」
湊が言った。
「はい」
自分で言い直してから、少し俯く。
「僕、変ですか」
「変だな」
湊の顔が曇った。
「でも、お前が嘘をついてるとは言ってない」
顔が上がる。
「覚えてないものを、覚えてるふりするな」
「……うん」
「分からないなら、分からないでいい」
「それで、みなみを探せる?」
「知らない」
「知らない?」
「分からないものを、分かったことにするよりは近づける」
湊はしばらく夜一を見ていた。
やがて、小さく頷く。
そのとき、マシロの髪に薄青い花が一輪咲いた。
「何だ」
夜一が聞く。
「知らない」
「お前もか」
「分からないものを、分かったことにするなと言った」
「聞いてたのか」
「近いから」
「そうだな」
湊が、ほんの少し笑った。
◇
湊が帰ったあと、店はまた静かになった。
夜一はカウンターへ証拠を並べ直す。
サンダル。
写真。
泥。
自由研究。
向日葵。
これまでなら、こう考えていた。
みなみは存在した。
その後、何者かが記録と記憶だけを消した。
だが。
サンダルの発売時期が、その順番と噛み合わない。
「後から増えた?」
マシロが言った。
「何が」
「妹の痕跡」
夜一は黄色いサンダルを見る。
消されたのではなく。
増えている。
その可能性を、初めて仮説として置いた。
過去にあったものが消えたのではなく。
昨日まで存在しなかった過去が、あとから現在へ痕跡を伸ばしている。
もしそうなら。
これは、単に「消えた妹を探す」話ではない。
だが。
まだ仮説にすぎない。
「分からない」
夜一は言った。
「そう」
マシロも、それ以上は続けなかった。
夜一はサンダルを黒い布へ戻そうとした。
そこで指が止まる。
「マシロ」
「何」
「これ、昨日あったか」
黄色いサンダルの内側。
油性ペンで書かれた、
――みなみ。
そのすぐ隣に。
小さな向日葵が描かれていた。
丸い中心。
その周囲を囲む、不揃いな花弁。
子どもが描いたような絵だった。
夜一は昨日の記憶を探る。
文字は見た。
何度も確認した。
だが、こんな絵は見ていない。
マシロが顔を近づける。
「知らない」
「環」
環が端末から顔を上げた。
「何です」
「昨日の記録を出せ」
環は何も聞かず、撮影データを開いた。
高瀬家の玄関。
靴箱からサンダルを取り出した直後の写真。
拡大する。
黄色い内側。
少し滲んだ文字。
――みなみ。
それだけだった。
向日葵はない。
「誰か触ったか」
「夜明堂へ持ち込んでからは、あなたと私とマシロだけです」
「監視記録は」
「残っています」
「描いた人間は」
環が端末を操作する。
数十秒。
「確認できません」
夜一は実物を見る。
向日葵はある。
昨日の写真にはない。
「インクを調べられるか」
「できます」
環が手を伸ばす。
その前に、マシロが絵へ鼻を近づけた。
「マシロ」
「食べない」
「まだ何も言ってない」
「言う顔だった」
「顔で決めるな」
「夜一も私に言う」
「何を」
「食べる顔だって」
夜一は黙った。
「同じ」
「今はそれどころじゃない」
「便利」
マシロは向日葵の絵を見つめた。
「どうだ」
「新しい」
「インクが?」
「分からない」
マシロは首を横に振る。
「じゃあ、何が」
少し間があった。
「昨日より」
マシロが言う。
「ここにいる」
夜一は彼女を見る。
「誰が」
マシロは答えなかった。
ただ、黄色いサンダルを見る。
そこに書かれた名前を。
夜一も、それ以上は聞かなかった。
実物を見る。
昨日の写真を見る。
もう一度、実物へ戻る。
黄色いサンダル。
滲んだ「みなみ」の三文字。
その隣にある、小さな向日葵。
昨日撮った写真には。
その花だけが。
どこにもなかった。




