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残花葬送 ー世界から消す未来を、君と花束にするー  作者: 桝田キゲン
二.名前のない君を、残す方法

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20/25

妹のいない家

住宅街は静かだった。


 湊が先を歩き、その少し後ろを夜一とマシロがついていく。


 街灯の光が、湊の影を長く道路へ伸ばしていた。


「夜一」


「何だ」


「母親に怒られる?」


「たぶんな」


「帰る?」


「行く」


 マシロは小さく頷いた。


 湊は、家が近づくにつれて口数を減らしていった。


 二階建ての小さな戸建て。


 窓には灯りがつき、カーテンの向こうからテレビの音が漏れている。


 夕食の匂い。


 煮物。


 焼いた魚。


 洗剤。


 どこにでもある家だった。


「ただいま」


 湊が扉を開ける。


「おかえり。遅かったね」


 奥から出てきた女性が、夜一とマシロを見て足を止めた。


 三十代後半。


 エプロン姿で、髪は後ろに簡単にまとめている。目の下には、薄く疲れの色があった。


「……この方たちは」


「久世夜一です」


 夜一は名乗った。


「花屋です」


「……花屋?」


 女性の視線が、湊とマシロの間を往復する。


「みなみのこと、調べてくれてる」


 湊が言った。


 その瞬間、女性の表情が硬くなった。


 怒鳴りはしない。


 ただ、頬の筋肉がわずかに強張った。


「湊」


「何」


「先に、そういうことは言いなさい」


「言ったら、駄目って言うから」


「だからです」


 声は静かだった。


 怒っている。


 けれど息子にというより、目の前の見知らぬ二人を警戒しているように見えた。


 当然だ。


 十歳の子どもが、夜に営業する花屋へ勝手に相談し、その花屋が家まで来た。


 夜一でも怪しいと思う。


「高瀬夏帆です」


 女性は名乗った。


「湊の母です」


「突然すみません」


「本当に」


「そうですね」


 夏帆は一瞬、言葉を失った。


 マシロが夜一を見る。


「怒られてる」


「分かってる」


「帰る?」


「帰らない」


「そう」


「聞こえてますけど」


 夏帆が言った。


「すみません」


 今度は夜一が素直に謝った。


 夏帆は短く息を吐く。


「……上がってください」


          ◇


 居間へ通された。


 小さなテーブル。


 テレビ。


 低い棚。


 壁に掛かった時計。


 棚には、いくつか写真立てが並んでいた。


 夏帆と湊。


 二人だけ。


 運動会。


 入学式。


 誕生日。


 どれも、どこにでもある家族写真だった。


「妹はいない、と湊には話したそうですね」


 夜一が切り出した。


「はい」


「高瀬みなみ、という子どもに心当たりは」


「ありません」


「親戚にも」


「いません」


「昔、一緒に暮らしていた子どもも」


「いません」


 夏帆は淀みなく答えた。


 少なくとも、何かを隠すために答えを選んでいるようには見えない。


 夜一は鞄からアルバムを取り出した。


 湊から借りたものだ。


 海辺のページを開く。


「これ、誰が撮りました」


 夏帆は写真を覗き込んだ。


 少し間があった。


「……私、だと思います」


「思う?」


「アルバムに入れたのは、私でしょうし」


「撮った記憶は」


 夏帆の眉が寄る。


「海へ行った記憶はあります」


「いつです」


「去年の……」


 そこで言葉が止まった。


「夏?」


「はい」


「どこの海です」


「それは」


 夏帆は写真へ顔を近づける。


「……思い出せません」


 覚えていない。


 ではなく。


 思い出せない。


 夜一は、その違いを頭の中へ残した。


 湊はテーブルの隅に座り、黙って聞いている。


「この写真」


 夜一が指す。


 波打ち際。


 湊が一人。


 右手だけが、不自然に横へ伸びている。


「誰かと手をつないでいたように見えます」


 夏帆は写真を見た。


「そう、見えますね」


「撮ったとき、誰かいましたか」


「湊だけです」


「覚えてるんですか」


 夏帆は答えかけて、止まった。


「……そう思います」


「思う?」


「だって」


 夏帆は写真から目を離した。


「この子は一人っ子ですから」


 理由が。


 記憶ではなく、事実の方へ戻った。


 夜一は何も言わなかった。


          ◇


 台所へ目を向けたとき、夜一の視線が食器棚で止まった。


 子ども用のコップが二つ並んでいる。


 青。


 薄い橙。


「あれ、見せてもらえますか」


「コップですか?」


「はい」


 夏帆は怪訝そうにしながら、二つとも取り出した。


 夜一は橙色の方を受け取る。


「誰のです」


「昔、まとめて買っただけだと思います」


「湊は使う?」


「気分で」


「青い方と両方?」


「たぶん」


 合理的な説明だった。


 それだけなら。


 マシロが橙色のコップを覗く。


 底。


 側面。


 取っ手。


「使ってる」


「見れば分かる」


 夜一が言う。


「傷が違う」


「何」


 マシロは二つを並べた。


 青いコップ。


 橙色のコップ。


「こっちは、右手」


 青。


「こっちは、左手」


 橙。


 夏帆が眉を寄せる。


「どういうことですか」


「取っ手の擦れ方」


 夜一も確認する。


 確かに、使い込まれた部分が違う。


「湊」


「何」


「左手でこれ使ったことある?」


 湊は首を横に振った。


「ない」


「右利き?」


「うん」


 夏帆がコップを見る。


「でも」


「別の人間が使ったとは限りません」


 夜一は言った。


「置き方や洗い方でも、傷は変わる」


「じゃあ」


「まだ何も分かりません」


 夏帆の顔に、安堵と不満が同時に浮かんだ。


 夜一は二つのコップを棚へ戻した。


          ◇


 廊下へ出たとき。


 夜一は、柱に残った鉛筆線に気づいた。


 湊の身長記録。


 六歳。


 七歳。


 八歳。


 九歳。


 日付と名前。


 その隣。


 少し低い位置に、もう一本の線がある。


 さらに。


 薄く消した跡。


「これ」


 夜一が指した。


 夏帆が近づく。


「……何でしょう」


「みなみ」


 湊が即答した。


「湊」


 夏帆は困ったように息子を見る。


「誰が書いたか、分かりますか」


 夜一が聞く。


 夏帆は線の横へ残った文字跡を見つめた。


 鉛筆。


 消しゴム。


 紙ではないから、完全には消えていない。


「私の字に」


 一度、言葉を止める。


「似てる気がします」


「覚えは」


「ありません」


 声が少し小さくなった。


 自分の家。


 自分の筆跡に似た文字。


 なのに、書いた記憶がない。


 夏帆は指で柱へ触れた。


「これ」


 小さく呟く。


「前からありました?」


 夜一は答えなかった。


 聞く相手が違う。


 湊が言う。


「ずっとあったよ」


「ずっと?」


「うん」


「どうして今まで」


 夏帆は言いかけて、やめた。


 気づかなかった。


 その事実を、自分で口にするのが怖いようだった。


          ◇


 洗面所。


 古い小物箱の奥から、黄色いヘアゴムが出てきた。


 小さな花の飾り。


「私のじゃない」


 夏帆が言う。


「みなみの」


 湊が答えた。


「髪型は」


 夜一が聞く。


 湊は口を開いた。


 止まる。


「……分からない」


「長かった?」


「分からない」


「短かった?」


「分からない」


「でも、これを使っていた?」


「うん」


 夜一はヘアゴムを見る。


 物だけがある。


 持ち主の姿がない。


 マシロが手を出した。


「触るぞ」


「食うなよ」


「食べない」


「先に言ったな」


「信用がない」


「実績だ」


 マシロはヘアゴムを鼻へ近づける。


「向日葵と似てる」


「同じ?」


「違う」


「何が」


「古い」


「匂いが?」


「記憶が」


 夜一はマシロを見る。


「分かるのか」


「分からない」


「今のは何だ」


「そう感じた」


 以前のマシロなら。


 もう少し先まで追えたかもしれない。


 一瞬だけ、そんな考えが浮かんだ。


 その間に、マシロはヘアゴムを裏返している。


 金具の内側。


 伸びたゴム。


 小さく変色した部分。


「使ってる」


「それは見れば分かる」


「ここ」


 ゴムの一部だけが、細く白くなっている。


「何度も、同じところを引っ張った」


「髪を結ぶとき?」


「たぶん」


 マシロはヘアゴムを返した。


 前と同じではない。


 だから。


 同じ方法を求める理由もなかった。


 夜一は、それ以上考えなかった。


          ◇


 居間へ戻ると、夏帆が古いノートを一冊、テーブルへ置いた。


「これ」


「何です」


「湊の去年の自由研究です」


 表紙。


 ひらがなで。


 ――ひまわりのかんさつ。


 高瀬湊。


「片づけてたときに出てきて。関係あるか分からないですけど」


 夜一はページを開いた。


 芽。


 葉。


 高さ。


 絵。


 日付。


 短い文章。


 ――ぼくたちは、まいにちみずをやった。


 次。


 ――ぼくたちは、たねをかぞえた。


「ぼくたち」


 夜一が読む。


「友達とやったんじゃない?」


 夏帆が言う。


「みなみと」


 湊が答えた。


 夏帆は何も言わない。


 夜一も追わなかった。


 複数形だけなら。


 友達。


 母親。


 誰か。


 説明はいくらでもできる。


「去年の夏」


 湊が言った。


「海に、一週間泊まった」


 夏帆の顔が変わった。


「湊」


「何」


「それは違う」


「違わない」


「去年の八月、あなた熱出してたでしょう」


「出してない」


「出してた」


 今度は、夏帆の声が強くなった。


「一週間、ほとんど起きられなかった。三十九度台が続いて、病院にも連れていった」


「海にいた」


「行ってない」


「行った」


 湊がアルバムを開く。


「写真ある」


「でも」


 夏帆の言葉が止まった。


 写真。


 確かにある。


「薬も残ってます」


 夏帆が言った。


 誰へ証明するためなのか、本人にも分からないような声だった。


「私、仕事も休みました。勤務先に電話して。病院の領収書も」


「いつです」


「八月の――」


 夏帆が日付を言った。


 湊の海の写真の日付と。


 重なっていた。


 夜一は写真を見る。


 海。


 青空。


 伸びた右手。


 そして、夏帆の記憶。


 高熱。


 薬。


 病院。


 看病。


 同じ夏に。


 海で過ごした一週間と。


 熱で寝込んでいた一週間がある。


 どちらか一方を、今ここで嘘と決める理由はなかった。


「夜一」


 マシロが呼ぶ。


「何だ」


「二つある」


「ああ」


「どっちが本当?」


「まだ分からない」


「両方かもしれない?」


 夜一は少し考えた。


「それも、まだ決めない」


 マシロは頷いた。


「便利」


「何が」


「決めない」


「使いすぎるな」


          ◇


 帰る時間になった。


 夏帆は疲れた顔をしていた。


 来たときより、ずっと。


「今日はここまでにします」


 夜一が言う。


「何か分かったんですか」


「分からないことが増えました」


「それは」


「悪いこととは限りません」


「そうですか」


「少なくとも」


 夜一は一度、湊を見る。


「湊が全部作り話をしているとは、考えにくくなった」


 湊が夜一を見る。


 夏帆も。


「でも」


 夜一は続ける。


「みなみという人間が実在したとも、まだ言えません」


 湊の顔が曇った。


「靴履いて」


 夏帆が息子へ言う。


 話を終わらせるように。


          ◇


 玄関。


 湊が先に外へ出る。


 夜一も靴を履こうとして。


 そのとき。


 マシロが止まった。


「夜一」


「何」


「靴」


「どれ」


「奥」


 靴箱。


 一番下。


 さらに奥。


 夜一は扉を開けた。


 埃をかぶった小さな棚。


 そこに。


 黄色いサンダルが、一足置かれていた。


 湊のものより、ずっと小さい。


 夏物。


 春には早い。


 夜一は手袋をつけた。


「触ります」


 夏帆へ言う。


「……はい」


 持ち上げる。


 軽い。


 新品ではない。


 踵は少し削れ、内側も足の形に沿ってわずかに沈んでいる。


 誰かが履いた。


 少なくとも、そう見える。


 夜一が裏返した。


 底から黒い泥が一粒落ち、玄関の床へ転がった。


 全員の視線が向く。


「マシロ」


「見る」


 マシロがしゃがみ、泥へ鼻を近づける。


「近い」


「何と」


「向日葵」


「湊の靴は」


「それも」


 夜一はサンダルの内側を見る。


 油性ペン。


 少し滲んだ文字。


 ひらがなで。


 小さく。


 ――みなみ。


 夏帆が、夜一の肩越しに覗き込んだ。


 息を止める。


「それ……」


「心当たりは」


「ありません」


 声が掠れていた。


「本当に?」


「ない」


 夏帆は首を横に振る。


「そんな靴、買った覚えがない」


「でも、名前は」


「知らない」


 今度は。


 言い切ることすらできなかった。


 夏帆の顔から、ゆっくり血の気が引いていく。


 湊が玄関へ戻ってきた。


 サンダルを見る。


「みなみの」


 夏帆が息子を見る。


「湊」


「これ、みなみの」


「どうして分かるの」


「履いてたから」


「いつ」


「夏」


「どこで」


「海」


「どんな服だった」


 湊は答えられない。


「どんな髪だった」


 答えられない。


「何歳だったの」


 それも。


 答えられない。


 それでも。


 サンダルだけは分かる。


「みなみの」


 湊はもう一度言った。


 泣かなかった。


 怒りもしなかった。


 ただ、自分自身へ確かめるように。


「ほら」


 小さく。


「いた」


 誰も答えられなかった。


 夏帆は口を開いた。


 何かを言おうとして。


 結局、閉じた。


 記録にはいない。


 写真にもいない。


 母親の記憶にもいない。


 顔も。


 年齢も。


 声さえ。


 兄には思い出せない。


 それでも、この家には。


 小さな足が、何度も踏んだ形をした靴があった。


 その内側には。


 誰かの名前が書かれていた。


 ――みなみ。


 いないはずの子どもには。


 靴があった。

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