いなくなった夏を、花にしてくれる店
湊が帰ったあと、夜明堂は急に静かになった。
夜一はカウンターの上へ、枯れた向日葵を横たえた。
茎は乾き、葉は縮れている。色を失った花弁は、少し強く触れればそのまま崩れてしまいそうだった。
それなのに、根元だけがわずかに湿っている。
「触るぞ」
誰に断るでもなく言って、夜一は花弁へ指を這わせた。
何も見えない。
分かっていた。
それでも、もう一度触れる。
乾いた花弁。
硬くなった茎。
指先へ伝わる冷たさ。
それだけだった。
以前なら、触れた瞬間に景色が開いた。
存在しなかった朝。
選ばれなかった家族。
誰も傷つかなかった未来。
花の方から勝手に、それらを見せてきた。
今、目の前にあるのはただの枯れた向日葵だった。
「時間がかかる」
カウンターの向こうから、マシロが言った。
「前が雑だった」
「そう?」
「見るだけで、分かった気になってた」
夜一は答えなかった。
その通りだとも、違うとも言えない。
代わりに道具箱を開き、細い刃を取り出した。
茎の端を、ごく薄く切る。
断面の外側は茶色く乾いていた。
だが、その中心には。
「緑」
マシロが言った。
「ああ」
生きた色が、細く残っていた。
夜一は断面に指を当てる。
水分もある。
「普通じゃない?」
「普通なら、ここまで枯れれば中心も死んでる」
「では、生きている」
「全部じゃない」
「面倒」
「花に言え」
夜一は向日葵を持ち上げ、根元を確かめた。
細い根が数本、そのまま残っている。
切り花ではない。
だが、鉢植えを丁寧に掘り出した形でもなかった。根の先は不揃いに千切れ、何かから強く引き抜かれたように見える。
その隙間には、黒い土らしきものがわずかに付着していた。
「マシロ」
「何」
「これ、いつ抜かれたと思う」
マシロが覗き込む。
「知らない」
「見れば分からないか」
「花屋は夜一」
「役に立たないな」
「前の私なら?」
夜一の手が、一瞬止まった。
マシロは根を見ている。
こちらを見てはいない。
「知らない」
夜一は答えた。
「今のお前しかいない」
「そう」
それだけだった。
髪にも花は咲かない。
夜一は根元へ視線を戻した。
「外側は何週間も前に枯れたように見える。でも、根はそこまで古くない」
「時間が違う」
「可能性はある」
「花だけ先に死んだ?」
「分からない」
自分で口にしてから、夜一は少し黙った。
以前なら、もっと早く答えを出そうとしていた。
今は、分からないものが増えている。
「夜一」
「何だ」
「今、嫌そう」
「何が」
「分からない、と言った」
「言うだろ」
「前より増えた」
「便利だからな」
「私の言葉」
「誰のものでもない」
マシロは少し考えた。
「では、使っていい」
「勝手にしろ」
夜一は根元に付着した黒いものをピンセットで摘み、小さなガラス皿へ落とした。
黒い。
湿っている。
一見、土にしか見えない。
だが、指先へ伝わるざらつきは少なかった。
鼻へ近づける。
潮の匂い。
昨日、向日葵の根元から落ちた液体とよく似ている。
塩気を含んだ、湿った匂いだった。
「海」
マシロが言う。
「だな」
「苦い」
「それも昨日聞いた」
「今日は昨日より苦い」
「何が違う」
「分からない」
「便利だな」
「便利」
マシロは向日葵の中心へ顔を寄せた。
種の並ぶ黒い部分。
昨日は、そこから声がした。
――お兄ちゃん。
今は何も聞こえない。
マシロが指を伸ばす。
夜一は、その手首を掴んだ。
「一枚だけ」
「駄目だ」
「まだ言ってない」
「言う顔だった」
「顔で決めるな」
「行動で決めた」
「まだ触っていない」
「だから止めた」
マシロは掴まれた手首を見る。
「離して」
「食わないなら」
「今は食べない」
「今は?」
「後で必要になるかもしれない」
「そのとき考える」
「私も?」
「本人だろ」
夜一が手を離す。
マシロは一度、自分の手首を見た。
「そう」
小さく言った。
夜一は聞かなかったことにして、向日葵を黒い布で包んだ。
調べられるものは、まだある。
◇
夜一は、湊が座っていた椅子の下へしゃがみ込んだ。
床板。
椅子の脚。
カウンターとの隙間。
右側にだけ、黒い泥が落ちている。
左にはない。
昨日、湊の右足の靴に付着していたものだ。
夜一は一粒だけ採取し、向日葵の根に付いていたものとは別の皿へ置いた。
「同じ?」
マシロが横から覗き込む。
「見た目は似てる」
「匂いは」
夜一は順に嗅いだ。
向日葵の方は、潮。
靴跡は湿った土。
その奥に、わずかな塩気。
「近い」
「同じ?」
「断定できない」
「便利」
「黙れ」
マシロも鼻を近づける。
少し眉を寄せた。
「同じ場所」
「分かるのか」
「分からない」
「どっちだ」
「匂いは似てる。でも、同じとは言ってない」
「……そうか」
「雑」
「何が」
「今の夜一」
夜一は泥を小袋へ移し、返事をしなかった。
湊は、海へ行ったとは言っていない。
それどころか、店までの道で土のある場所すら通っていないと言った。
なのに。
向日葵の根と、湊の右靴。
二つに、似たものが付いている。
そして昨日。
湊が店を出たあと、濡れた道路へ残した右足の泥跡は、途中で消えた。
曲がり角でもない。
水たまりでもない。
五歩。
六歩。
その先だけ、何も残っていなかった。
夜一は記録帳を開いた。
依頼人――高瀬湊。十歳。
依頼――妹、高瀬みなみの捜索。
物証――枯れた向日葵。根に黒色付着物。
右靴――類似した黒色付着物。
共通――塩気。海様の匂い。
音声――少女と思われる声。
――お兄ちゃん。
そこまで書き、筆を止めた。
所感。
何を書く。
「マシロ」
「何」
「湊は、嘘をついてると思うか」
「思わない」
「なぜ」
「嘘の匂いはしない」
「それだけ?」
「それだけではない」
マシロは、湊が座っていた椅子へ腰かけた。
足先が、ぎりぎり床に届く。
「妹の話に、妹がいない」
夜一は顔を上げた。
「どういう意味だ」
「プール」
マシロが指を折る。
「花火。アイス。虫。川。朝顔」
「昨日の話か」
「全部、夏」
「ああ」
「でも」
マシロは指先でカウンターを軽く叩いた。
「みなみが何を好きだったか、湊は知らない」
「アイスは好きだったと言った」
「味は知らない」
「そうだな」
「顔も説明できない」
「そうだ」
「何歳かも分からない」
夜一は、昨日のやり取りを思い返した。
みなみ本人について聞けば、湊は止まる。
一緒に何をしたかと聞けば、すぐに答える。
だから妹の記憶ではない――そう決めるには早い。
だが、奇妙だった。
「夏だけを覚えてる」
マシロが言った。
「妹じゃなく」
少し間を置く。
「妹といた時間を」
夜一は、その言葉を記録帳へ写した。
所感。
依頼人は「みなみ本人」に関する具体情報を、ほぼ保持していない。
夏季の共同体験のみ、比較的具体的。
そこで筆が止まる。
以前なら、誰かの言葉をこんなふうに書き留めることは少なかった。
花に触れれば。
もっと鮮明なものが見えたから。
今は見えない。
だから、聞いたものを残す。
「前より時間がかかる」
マシロが言った。
「知ってる」
「嫌?」
「面倒だ」
「嘘」
夜一が彼女を見る。
「匂ったか」
「少し」
「それは俺のだ」
「落ちた?」
「拾うな」
「分かった」
マシロは、それ以上聞かなかった。
窓の外では、空が青み始めている。
閉店の時間だった。
夜一は黒布に包んだ向日葵を確認すると、店の灯りを一つずつ消した。
◇
翌日。
日が沈み、商店街の街灯が灯り始めた頃。
湊は再び夜明堂へやって来た。
昨日の右靴は、透明な袋へ入れて持っている。本人は別の靴を履いていた。
「洗ってません」
「見れば分かる」
「お母さんに怒られました」
「何て言った」
「花屋に洗うなと言われた」
「それで?」
「もっと怒られた」
カウンターの奥から、マシロが顔を出した。
「夜一の予想通り」
「分かってたなら、別の言い方を教えてください」
「事実を言えと言った」
「言ってない」
「では、次から考える」
「次があるんですか」
「残花が続けば」
「縁起でもない」
湊が昨日より自然に笑った。
夜一は靴の袋を受け取る。
泥はそのまま残り、乾いて黒い粉のようになっていた。
「もう一つ見たい」
「何ですか」
「写真」
「みなみの?」
「家族の」
湊は少し考えた。
「みなみは、写ってない」
「それは聞いた」
「じゃあ」
「本当に写ってないか、俺が見る」
湊は困った顔をした。
「お母さんに聞かないと」
「家にある?」
「アルバムなら」
「明日でもいい」
湊は黙った。
それから、肩に提げていた布袋を開く。
「今日、持ってきた」
中から薄いアルバムが出てきた。
「何で」
「昨日、帰ってから探した」
湊はそれをカウンターへ置く。
「みなみがいないって言われたから」
青い表紙。
角が少し擦れている。
子どもの成長記録をまとめた、ごく普通の写真アルバムに見えた。
夜一は、すぐには手を伸ばさなかった。
「母親には」
「借りるって言った」
「何て」
「友達に見せるって」
「嘘だな」
「……はい」
マシロが湊を見る。
「少し匂う」
「ごめんなさい」
「私に謝らなくていい」
「誰に」
「母親」
湊がアルバムへ目を落とす。
「怒るかな」
「返すとき考えろ」
夜一が言った。
「今は見る」
アルバムを開く。
春。
桜の前で、湊一人。
五月。
公園。湊と母親。
六月。
誕生日らしい食卓。写っているのは湊。
父親の姿はない。
そして七月。
ページの色が変わる。
海。
「これ」
湊が言った。
写真には、波打ち際に少年が一人立っていた。
青いTシャツ。
短パン。
裸足。
湊だ。
右手だけが、身体の横へ伸びている。
肘を少し曲げ、指を軽く握っている。
ちょうど、自分より小さな誰かと手をつなぐような高さで。
だが、その先には誰もいない。
砂。
海。
波。
空白。
「これ、みなみ」
湊が写真の空いた場所を指した。
「どこだ」
「ここ」
夜一は見る。
誰もいない。
「手をつないでる」
湊は言った。
「みなみと」
「覚えてる?」
「覚えてる」
「何を話した」
「……分からない」
「服は」
「分からない」
「髪は」
「分からない」
「でも、いた?」
「いた」
答えだけは早い。
夜一は写真へ顔を近づけた。
目立つ加工跡はない。
一部だけが白く抜けた様子もない。
誰かを後から消した痕跡も、少なくとも肉眼では確認できなかった。
ただ。
少年一人を撮る構図としては、妙に左側が空きすぎている。
湊の身体は、写真の端へ寄っている。
まるで最初から、二人を一枚へ収めるつもりだったように。
「マシロ」
「何」
「いるか」
マシロが写真を覗き込む。
一度。
二度。
角度を変える。
「いない」
湊の顔から、わずかに色が引いた。
「見えない?」
「見えない」
「でも」
マシロは続けて写真へ鼻を近づけた。
「同じ匂い」
「何と」
「向日葵」
「海は」
「する」
「写真だからじゃない?」
湊が聞く。
「普通、写真そのものから海の匂いはしない」
夜一が答えた。
「じゃあ」
「まだ分からない」
「また?」
「分からないものは、分からない」
湊は写真を見る。
誰もいない空白。
そこへ指を置いた。
「みなみ」
写真は答えない。
「湊」
夜一が呼ぶ。
「はい」
「これ、誰が撮った」
「お母さん」
「本当に?」
「……たぶん」
「覚えてない?」
「写真を撮られたのは覚えてる」
「母親がいた?」
湊は少し考えた。
「いたと思う」
「みなみも」
「いた」
「三人で海へ行った?」
「うん」
夜一は次の写真へ目を移した。
浜辺。
また、湊一人。
砂山の前に、小さな穴が二つ。
次。
アイスを持つ湊。
左手には自分の分。
右手には、もう一本。
誰にも渡されていないアイス。
次。
海の家らしい店先。
椅子が二脚。
一脚には湊。
もう一脚は空いている。
偶然。
一枚なら。
二枚なら。
それで済むかもしれない。
だが、どの写真にも。
誰か一人分の空白があった。
「夜一」
「何だ」
「これ」
マシロが一枚を指す。
海辺。
湊と、その隣の空白。
「何だ」
「向日葵」
「写ってない」
「違う」
マシロの薄青い瞳が細くなる。
「同じ匂いが、一番強い」
「場所が?」
「分からない」
「みなみが?」
「それも分からない」
マシロは写真から顔を離した。
短く息を吸う。
「でも」
一拍。
「ここで、何か咲いた」
夜一は写真を見る。
春には咲かない向日葵。
海の匂い。
右足だけの黒い泥。
夏しかない妹。
そして、写真の中に繰り返される。
誰か一人分の空白。
「湊」
「はい」
「家へ行く」
少年が目を見開いた。
「今?」
「母親に会う」
「何で」
「この写真を撮った人間だからだ」
「でも」
「嫌なら今日は行かない」
「嫌じゃない」
「なら連絡しろ」
「お母さん、怒るかも」
「俺に?」
「たぶん」
「慣れてる」
マシロが言った。
「本当?」
「人を怒らせるのは得意」
「お前が言うな」
「事実」
湊はアルバムを抱え直した。
「みなみを、探すため?」
夜一は少しだけ考えた。
「まず」
写真の空白を見る。
「本当に、誰がいなくなったのか調べる」
「みなみです」
「それを決めるのは、まだ早い」
湊の眉が寄った。
「信じてない?」
「信じるかどうかを調べてるんじゃない」
「じゃあ何を」
「お前の覚えてる夏が、どこにあったのか」
湊は何も言わなかった。
しばらくして、写真の中の空白へ視線を落とす。
「ありました」
「ああ」
「絶対」
夜一は否定しなかった。
肯定もしなかった。
「行くぞ」
夜一が立ち上がる。
「店は」
マシロが聞く。
「一時間だけ閉める」
「客が来たら」
「待ってもらう」
「残花は待つ?」
「待たない」
「では」
「早く戻る」
夜一は店先へ出て、看板を裏返した。
――一時外出。
戻って鍵を取る。
湊がアルバムを鞄へ入れる。
マシロは、黒布に包まれた向日葵を見る。
「持っていく?」
「置いてく」
「なぜ」
「母親に先入観を与えたくない」
「写真は」
「本人の家のものだ」
「泥は」
「持つ」
夜一は採取した袋を鞄へ入れ、入口へ向かった。
その直前。
マシロが足を止める。
「夜一」
「何だ」
「写真」
彼女はまだ海辺の一枚を持っていた。
夜一へ差し出す。
「見て」
「何を」
「湊の手」
伸ばされた右手。
誰かの手を握るような形。
「それが?」
「昨日」
マシロは店の外を見る。
湊の右足へ。
「泥がついていたのは、右」
「ああ」
「写真も右」
「偶然かもしれない」
「そう」
マシロは写真を夜一へ返した。
「だから、覚えておく」
夜一は一瞬だけ彼女を見る。
それから写真を受け取った。
「記録帳にも書け」
「夜一が」
「お前が気づいた」
「面倒」
「蜂蜜一杯」
「三杯」
「一杯」
「二杯半」
「交渉するな」
「前もした?」
夜一の手が止まる。
マシロは首を傾げている。
本当に、知らない顔だった。
「した」
「私?」
「ああ」
「負けた?」
「だいたい俺が負けた」
マシロは少し考えた。
「なら、三杯」
「今の話を聞いてたか」
「参考にした」
夜一は扉を開けた。
夜の空気が店へ入り込む。
「二杯半だ」
「けち」
湊が小さく笑った。
三人が外へ出る。
夜一が店へ鍵をかける。
その瞬間。
誰もいなくなった夜明堂の中。
黒い布に包まれた向日葵の奥から、小さな声が落ちた。
――お兄ちゃん。
少し間を置いて。
今度は、別の言葉。
――うみ、いこ。
店の外にいた三人には、届かなかった。
やがて琥珀色の灯りが消え、夜明堂は暗闇へ沈んだ。




