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残花葬送 ー世界から消す未来を、君と花束にするー  作者: 桝田キゲン
二.名前のない君を、残す方法

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18/25

春に咲かない向日葵

 少年は、カウンターの椅子へ浅く座っていた。


 ランドセルは背負ったまま。


 右足の靴だけ、泥で黒く汚れている。


 膝の上には、枯れた向日葵。


 春だった。


 外はまだ薄暗く、街灯の光が濡れた道路を照らしている。


 夜一は厨房で小鍋に牛乳を入れた。


 弱火。


 沸騰させない。


 鍋肌に細かい泡が立つ手前で止める。


 カップへ注ぎ、蜂蜜を一杯落とす。


「甘くしすぎるな」


 背後でマシロが言った。


「子どもには丁度いい」


「私にも丁度いい」


「お前は子どもじゃない」


「年齢が分からないだけだ」


 夜一はカップを少年の前へ置いた。


 少年は両手で包んだが、飲まなかった。


 湯気だけを見ている。


「名前は」


 夜一が聞く。


「高瀬湊」


「十歳?」


「十歳」


「これは」


 夜一は枯れた向日葵を見る。


 葉は縮れ、茎は乾いている。


 それでも根元だけ、微かに水気があった。


 マシロが少年の隣へ寄り、鼻を近づける。


「甘くない」


「残花か」


「苦い」


 マシロは目を細めた。


「置いてきた夏休み」


 少年の肩が僅かに動いた。


 向日葵の種の並んだ中心から、小さな声がした。


 ――お兄ちゃん。


 子どもの声だった。


 少年の声より幼い。


 少年は動かなかった。


 驚いてもいない。


 もう何度も聞いた声のようだった。


「これが」


 夜一は湊を見る。


「妹の声か」


「みなみ」


 少年は初めて向日葵を強く抱いた。


「妹の名前」


「妹を、探してほしい」


 夜一はカウンターへ手を突いた。


「いつからいない」


「分からない」


「分からない?」


「最後に会った日、覚えてない」


 湊は俯いた。


「でも、いたんです」


「証拠は」


「証拠?」


「写真とか」


「ない」


「一枚も」


「学校には」


「みなみの記録、ない。先生に聞いた」


「聞いたのか」


「先生、変な顔した」


 湊はカップの湯気を見ている。


「お母さんも」


「何と言った」


「湊に妹はいないって」


 声が小さくなる。


「でも、いた」


 夜一は黙って湊を見た。


 少年は何度も、膝の上の向日葵へ視線を落としている。


 記憶を話しているというより。


 口にするたび、自分にも確かめているようだった。


「一緒に、プールに行った」


 湊は続ける。


「花火もした。アイスも、いつも二個買った」


「二個?」


「一個は、みなみの分」


 夜一は何も言わなかった。


 マシロが少年の肩越しに、枯れた向日葵をじっと見ている。


 髪の毛先に、小さな薄青い花が一輪咲いた。


「食べるな」


 夜一が言う。


「まだ何もしていない」


「顔が食べる顔だ」


「顔で決めるな」


 夜一は一瞬、黙った。


「……そうだったな」


 マシロは花を摘まず、少年から視線を外さない。


「夜一」


「何だ」


「嘘の匂いはしない」


「そうか」


「でも」


 マシロは言葉を探すように、一拍置いた。


「何かが、足りない」


 夜一はカップに残った牛乳を見た。


 湊はまだ一口も飲んでいない。


「湊」


 夜一が呼ぶ。


「はい」


「みなみの誕生日は」


「分からない」


「顔は」


「覚えてる」


「言葉にできるか」


 湊は口を開きかけて、止まった。


 目の奥が揺れる。


「……できない」


 声が震える。


「でも、いた」


「好きな食べ物は」


「アイス」


「何味」


「……分からない」


「好きな色」


「分からない」


「学校は」


「分からない」


「何年生だ」


 湊は答えなかった。


 向日葵を抱く指だけが、強くなる。


「一緒にしたことは」


「覚えてる」


「例えば」


「プール」


「他には」


「花火」


「他」


「虫取り。川にも行った。朝顔も育てた」


「誰と」


「みなみと」


 今度は、すぐ答えた。


 夜一は黙る。


 妹本人について尋ねると、答えられない。


 一緒に過ごしたことなら、答えられる。


「夏ばかりだな」


 夜一が言った。


 湊が顔を上げる。


「え」


「今言ったことだ」


 プール。


 花火。


 アイス。


 虫取り。


 川。


 朝顔。


 どれも。


「夏のことしかない」


 湊の唇が開く。


 声は出なかった。


「春は」


「……分からない」


「冬」


「分からない」


「秋」


「分からない」


「みなみと最後に会ったのは」


「夏」


 湊は答えた。


 それから。


 自分が何を言ったのか気づいたように、目を見開く。


「たぶん」


「何年前だ」


「去年」


「本当に?」


「……分からない」


 夜一は向日葵を見る。


 枯れている。


 春には咲かない花。


 夏の記憶だけを抱えている少年。


 存在した記録のない妹。


 マシロが鼻を押さえた。


「濃くなった」


「何が」


「苦い匂い」


「質問したから?」


「分からない」


「便利だな」


「夜一も分からないと言う」


「俺は能力じゃない」


「私は能力?」


「そういう意味じゃない」


「なら、何」


「後にしろ」


「逃げた」


「仕事中だ」


 マシロは少し不満そうに黙った。


 髪に咲いた薄青い花は消えない。


 夜一は湊の前へ、もう一度カップを押し出した。


「飲め。冷める」


 湊は素直に一口飲んだ。


 小さく息を吐く。


「甘い」


「嫌か」


 湊は首を横に振った。


「みなみも、甘いの好きだった」


「本当に?」


 湊の手が止まる。


「……分からない」


 夜一はそれ以上聞かなかった。


 分からないものを。


 無理に答えさせても、答えにはならない。


 カウンターの向こうで、時計の秒針が進む。


 窓の外は、まだ夜明け前の薄闇。


 店の花瓶の中で、季節外れの花が僅かに揺れた。


「探してくれますか」


 湊が聞いた。


 夜一は枯れた向日葵を見た。


 手を伸ばす。


 指先で、乾いた葉へ触れる。


 何も起こらない。


 景色は開かない。


 声も増えない。


 選ばれなかった幸福な未来は、もう見えない。


 幸福視は失った。


 以前なら。


 花に触れれば、何かが見えた。


 この少年が失った未来。


 妹が存在する世界。


 家族で過ごす夏。


 そのどれかを覗くことができたかもしれない。


 今は。


 何もない。


 ただの枯れた向日葵。


 夜一は手を離した。


 それでも。


 少年の泥だらけの靴。


 握りしめた花。


 赤くなった指。


 存在しない妹。


 夏だけが残った記憶。


 自分の目で確かめられるものはある。


「探す」


 夜一は言った。


 湊が顔を上げる。


「約束ですか」


「約束はしない。調べる、と言っただけだ」


「違うんですか」


「違う」


 湊は少しだけ笑った。


 困ったような。


 安心したような笑い方だった。


 マシロの髪に、薄青い花がもう一輪咲いた。


「何で咲いた」


 夜一が聞く。


「分からない」


「自分の花だろ」


「自分の感情が全部分かる人間はいる?」


「お前、そういう言葉だけ増えたな」


「成長」


「誰の影響だ」


「たくさん」


 マシロは自分の胸元へ指を置いた。


 百二十七。


 その数字を、夜一は口にしなかった。


 今、そこに何人いるのか。


 どの記憶が残っているのか。


 以前のマシロがどこまで続いているのか。


 まだ分からない。


 それでも。


 目の前で余計なことを言っているのは、今のマシロだ。


「湊」


 夜一は言った。


「今日は帰れ」


「向日葵は」


「置いていけ」


 少年の腕に力が入る。


「嫌です」


「調べられない」


「でも」


「持って帰れば、また声がする」


 湊は黙った。


「聞きたいのか」


「聞きたい」


「怖くない?」


「怖い」


「なら」


「でも」


 湊は枯れた向日葵へ顔を近づけた。


「聞こえなくなる方が、怖い」


 夜一は返す言葉を失った。


 知っている。


 その感覚を。


 声が消えれば。


 本当にいなかったことになる気がする。


 痛みが消えれば。


 忘れたことになる気がする。


 だから。


 痛いままでいようとする。


「一晩だけだ」


 夜一が言った。


「明日の朝、返す」


「絶対?」


「店が燃えなければ」


「縁起でもない」


 マシロが言った。


「お前が言うな」


「私は燃やしてない」


「知ってる」


 湊は二人を交互に見た。


「変な店」


「帰れ」


「怒った?」


「閉店時間だ」


「朝なのに」


「うちは夜に開く」


「花屋なのに?」


「花屋だからだ」


「意味分からない」


「俺も時々分からない」


 湊は迷った末に。


 枯れた向日葵を、カウンターへ置いた。


 手が離れる。


 その瞬間。


 ――お兄ちゃん。


 声がした。


 今度は。


 少しだけ大きかった。


 湊の手が止まる。


「みなみ」


 向日葵へ戻ろうとする。


 夜一が花を先に引いた。


「今日は帰れ」


「でも」


「明日来い」


「声が」


「俺が聞く」


「夜一には」


 マシロが言う。


「聞こえないかもしれない」


「余計なことを言うな」


「事実」


 湊の顔が曇る。


 夜一は枯れた向日葵を見る。


「なら、こいつが聞く」


 マシロを指す。


「私?」


「聞こえるだろ」


「聞こえる」


「記録しろ」


「面倒」


「仕事だ」


「給料は」


「煮込み」


「安い」


「蜂蜜もつける」


「三杯?」


「二杯」


「けち」


 湊が。


 小さく笑った。


 今度は、さっきより少しだけ自然だった。


「じゃあ」


 少年はランドセルの肩紐を握り直す。


「お願いします」


「預かるだけだ」


「はい」


 夜一は枯れた向日葵を受け取った。


 軽い。


 乾いている。


 なのに。


 根元だけが濡れていた。


 湊が椅子から降りる。


 右足の泥が、床へ小さく落ちた。


「その靴」


 夜一が言う。


「何ですか」


「どこで汚した」


 湊は右足を見る。


「分からない」


「家からここまで?」


「道路しか歩いてない」


「公園は」


「通ってない」


「土のある場所は」


「行ってない」


 夜一はしゃがんだ。


 泥を見る。


 黒い。


 湿っている。


 指では触れない。


「いつ気づいた」


「ここに来る途中」


「どこで」


「分からない」


 また。


 分からない。


 夜一は立ち上がった。


「明日、その靴で来い」


「洗っちゃ駄目?」


「駄目だ」


「お母さんに怒られる」


「袋へ入れろ」


「何て言えばいい」


「花屋に洗うなと言われた」


「もっと怒られそう」


「事実だ」


 湊は困った顔をした。


 それでも頷く。


「分かりました」


 夜一は入口の鍵を開けた。


 朝の冷たい空気が入ってくる。


 空は少しずつ青くなっていた。


「また明日」


 湊が言う。


「ああ」


「絶対来ます」


「気をつけて帰れ」


 少年が外へ出る。


 ランドセルが小さく揺れる。


 泥で汚れた右足だけが。


 濡れた道路へ、黒い跡を残していく。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 夜一は、その跡を見ていた。


「夜一」


 マシロが呼ぶ。


「何だ」


「向日葵」


 振り返る。


 カウンターに置いた枯れた向日葵。


 僅かに揺れている。


 窓は閉まっている。


 入口の扉も。


 夜一が今、閉めた。


 風はない。


 それでも。


 向日葵は揺れていた。


 春に咲くはずのない花。


 存在しない妹の声。


 夏しか残っていない記憶。


 夜一は花鋏を取り出さなかった。


「切らないの」


 マシロが聞く。


「まだ何も分かってない」


「危険かもしれない」


「だから調べる」


「前なら見えた?」


 夜一は答えなかった。


 枯れた向日葵へ触れる。


 やはり。


 何も見えない。


「見えない方が」


 マシロが言った。


「怖い?」


「面倒だ」


「嘘」


「落ちたか」


「少し」


「拾うな」


「どうして」


「それは俺のだ」


 マシロは夜一を見る。


 髪に咲いた二輪の青い花が、朝の光へ向かってゆっくり開く。


「分かった」


 夜一は枯れた向日葵を持ち上げた。


 根元から。


 一滴。


 水が落ちた。


 カウンターへ染みを作る。


 夜一は指先で触れた。


 冷たい。


 水ではない。


 微かに。


 塩辛い匂いがした。


 マシロが鼻を寄せる。


「夜一」


「何だ」


「これ」


 薄青い瞳が細くなる。


「海の匂いがする」


 夜一は窓の外を見る。


 朝が来る。


 春の街。


 濡れた道路。


 遠ざかっていく少年。


 その右足が残した黒い泥の跡は。


 途中で。


 忽然と途切れていた。


 夜明堂の琥珀色の灯りの下。


 枯れた向日葵だけが。


 季節から取り残されたまま。


 ゆっくりと揺れていた。

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