選べなかったものを、なかったことにしない
「夜一」
「何だ」
マシロは蜂蜜を三杯入れたカップを両手で包んでいる。
薄い青の髪。
色の違う瞳。
以前とは異なる笑い方。
それでも。
呼ばれた名前は。
以前と同じように、夜一へ届いた。
「前の私は」
マシロが言う。
「あなたを好きだった?」
夜一の手が止まる。
「何だ、急に」
「記憶にある」
「何が」
「名前を呼ばれると」
マシロは自分の胸元へ触れた。
「ここが温かくなる」
「食花した誰かの記憶かもしれない」
「そうかも」
「なら」
「でも」
マシロは夜一を見る。
「あなたの名前でなる」
夜一はコーヒーへ口をつけた。
苦い。
少し冷めている。
「あなたは?」
「何が」
「前の私を好きだった?」
夜一は答えなかった。
カップを傾ける。
もう中身はほとんど残っていない。
それでも。
置くまでの間が。
いつもより長くなった。
マシロは。
その沈黙を見ていた。
「言わないんだ」
「聞いたのはお前だ」
「答えないのも」
マシロは少し考える。
「答えだと思う」
「都合よく解釈するな」
「便利だから」
以前のマシロが。
よく使った言い方だった。
本人は。
気づいていないらしい。
「今の私は?」
「何が」
「好き?」
夜一は。
今度はすぐに答えた。
「まだ分からない」
「正直」
「お前も、俺を嫌いかもしれない」
「今は」
マシロはカップの中を見る。
蜂蜜が溶けたコーヒー。
以前と同じ甘さ。
今の彼女が選んだ味。
「面倒だと思う」
「そうか」
「でも」
「何だ」
「戻る場所にしてもいい」
夜一はマシロを見る。
「店を?」
「夜一も」
マシロは視線を落とした。
「今は」
夜一の胸に。
小さな痛みが生まれた。
失った痛みとは違う。
戻ってきた安堵とも違う。
名前をつければ。
意味が狭くなりそうな感情。
「分かった」
「それだけ?」
「何を言えばいい」
「花屋なのに」
マシロは言う。
「言葉が少ない」
「花束は」
夜一は空のカップを持ち上げた。
「言葉を隠すためにも使う」
「逃げた」
「そうかもな」
マシロの髪へ。
小さな青い花がもう一輪咲いた。
最初の花と並ぶ。
同じ薄青色。
だが。
花弁の形が少し違う。
「二つ」
マシロが指で示す。
「何の花?」
「知らない」
「調べないの」
「名前をつけると」
夜一は二輪を見る。
「意味が狭くなる」
「便利」
「嫌か」
「今は」
マシロは青い花を見上げようとする。
「これでいい」
◇
夜明堂の窓の外。
夜が。
ゆっくりと薄くなっていた。
朝日が昇りきる前の空。
青と橙色が混ざっている。
雨上がりの道路には。
淡い光が反射していた。
マシロが窓辺へ近づく。
「朝」
「毎日来る」
「前の私は知ってた?」
「たぶん」
「私は」
マシロは窓ガラスへ手を触れた。
「初めて見る気がする」
夜一は隣へ立つ。
街は。
眠りから目覚め始めていた。
新聞配達の自転車。
始発へ向かう人。
店のシャッターを開ける音。
誰も。
昨夜。
町が別の未来へ呑み込まれかけたことを知らない。
知らなくても。
朝は来る。
「綺麗」
マシロが言った。
「そうか」
「残花みたい」
「違う」
「何が」
「これは続く」
「残花も」
マシロは朝日を見る。
「続こうとした」
「誰かの現在を食って」
「朝も、夜を消す」
「夜はまた来る」
「なら」
マシロは少し考えた。
「残花も、また来る?」
「ああ」
「私も」
色の違う瞳が夜一へ向く。
「また変わる?」
「ああ」
「夜一も?」
「ああ」
「それでも」
マシロは言った。
「同じ店へ戻る?」
「店が残っていれば」
「残す?」
「手入れする」
「壊れたら」
「直す」
「直せなかったら」
「使える部分を探す」
「全部、駄目なら」
夜一は答えを探す。
幸福視は。
もう使えない。
最も美しい未来は見えない。
確実に戻れる場所も。
永遠に壊れない関係も。
目の前には咲いていない。
「別の場所で」
夜一は言った。
「湯を沸かす」
マシロは。
朝日の中で笑った。
今の彼女の笑い方で。
「それなら」
「何だ」
「戻る場所は、店じゃない」
「では、何だ」
「湯を沸かす人」
「面倒な定義だな」
「覚えて」
「お前もな」
「何を」
「蜂蜜は、自分で入れろ」
「嫌」
「何で」
「夜一が入れた方が」
マシロは空のカップを見る。
「戻った感じがする」
夜一は答えなかった。
代わりに。
空になりかけた蜂蜜の瓶を確認する。
底に。
ほんの少ししか残っていない。
「買いに行く」
「今?」
「店が開いたら」
「一緒に行く」
「靴がない」
「買う」
「服も」
「買う」
「金は」
「ない」
「働け」
マシロは自分の髪に咲いた花へ触れないよう。
顔だけを傾けた。
「花を食べればいい?」
「売り物を食うな」
「味見」
「同じだ」
「違う」
呼び鈴が鳴った。
チリン。
小さな音。
夜一とマシロが。
同時に入口を見る。
「客?」
「閉店時間だ」
曇ったガラス扉の向こうに。
一人の少年が立っていた。
十歳ほど。
背中にはランドセル。
片方の靴が泥で汚れている。
両手には。
枯れた向日葵。
季節は春。
本来なら。
咲いているはずのない花。
向日葵の種の部分から。
小さな声が聞こえた。
――お兄ちゃん。
マシロが鼻を押さえる。
「甘くない」
「残花か」
「苦い」
「どんな匂いだ」
マシロは少年を見る。
青と金の瞳が。
枯れた向日葵を映す。
「置いてきた夏休み」
夜一は入口へ歩いた。
看板は。
すでに閉店へ返している。
扉には鍵もかけた。
それでも。
少年は帰らない。
泣くこともできず。
花を強く抱いたまま。
店の前へ立っている。
「開ける?」
マシロが尋ねた。
「閉店時間だ」
「帰す?」
夜一は鍵へ手をかける。
「コーヒーを淹れ直す」
「子どもに?」
「牛乳を入れる」
「蜂蜜は」
「二杯」
「けち」
「お前の分じゃない」
「私も飲む」
「さっき飲んだ」
「今の私は」
マシロは自分の胸へ手を置く。
「すぐ喉が渇く」
「嘘だな」
マシロが床を見る。
「落ちた?」
「何が」
「嘘」
夜一は扉を開けた。
朝の冷たい空気が。
夜明堂へ入る。
少年が顔を上げた。
「ここが」
震える声。
「いなくなった夏を」
枯れた向日葵を抱き直す。
「花にしてくれる店ですか」
夜一は。
少年の持つ花を見る。
幸福視はもうない。
触れても。
選ばれなかった美しい未来は見えない。
それでも。
見えるものがある。
泥だらけの靴。
赤く腫れた指。
強く握られた花。
眠っていない目。
自分の足で。
調べられるものが残っている。
「違う」
夜一は答えた。
少年の表情が曇る。
「ここは」
夜一は店内を振り返る。
琥珀色の灯り。
欠けたカップ。
焦げた鍋。
空になりかけた蜂蜜の瓶。
甘すぎるコーヒーを飲む。
青い髪の少女。
「選べなかったものを」
夜一は言う。
「なかったことにしない花屋だ」
少年は。
枯れた向日葵を見下ろした。
そして。
恐る恐る顔を上げる。
「入ってもいい?」
「どうぞ」
夜一は道を空けた。
少年が店へ入る。
頭上で。
呼び鈴が鳴る。
マシロはカウンターへ戻り。
椅子を一つ増やした。
夜一は厨房へ入る。
湯を沸かす。
新しい朝。
新しい依頼。
昨日と同じ手順。
少し違う人数。
同じではないマシロ。
幸福な未来を見る力を失った夜一。
完璧ではない。
足りないものも多い。
それでも。
夜明堂は。
今日も開いている。
湯が沸いた。
夜一はポットを持ち上げる。
挽いた豆の中央へ。
最初の一滴を落とした。
苦い香りが。
花屋へ広がる。
その隣で。
マシロの髪に咲いた二輪の青い花が。
朝の光へ向かって。
ゆっくりと開いた。




