名前のない出席簿
朝。
夏帆は、湊を学校へ行かせるか迷っていた。
「今日は、やめておいたら」
「行く」
湊はランドセルを背負ったまま答えた。
「でも」
「体育がある」
「体育?」
「あと、消しゴム返してない」
「消しゴム?」
「昨日、佐々木に借りた」
夏帆は何か言いかけて、やめた。
代わりに夜一を見る。
判断を求めるような目だった。
夜一は湊へ聞いた。
「学校、行くか」
「行く」
「怖くないのか」
湊は少し考えた。
「怖い」
「そうか」
「でも、休んだら体育できない」
「それは困るな」
「うん」
夜一は、それ以上聞かなかった。
環が学校へ連絡を入れる。
「特殊案件の確認、とだけ伝えました」
「残花の話は」
「していません。現時点では必要ありません」
「許可は」
「校内での記録確認と、本人への付き添いまでです」
環は端末をしまった。
「異常が確認された場合は、即時撤退します」
「本人にも言え」
環は湊を見る。
「何か変だと思ったら、すぐ私たちへ伝えてください。声が聞こえても、勝手についていかないこと」
「みなみでも?」
一拍。
「みなみでもです」
湊は少し不満そうだったが、頷いた。
◇
通学路は、どこまでも普通だった。
ランドセルを背負った子どもたち。
自転車。
信号。
横断歩道の脇で、黄色い旗を持つ大人。
春の朝。
昨夜、高瀬家で起きていたことなど何も知らない街だった。
「湊、おはよう」
前から来た少年が手を上げた。
「おはよう」
湊も返す。
「消しゴム」
「あ」
「今日返せよ」
「持ってきた」
少年は笑った。
普通だった。
湊の名前を呼び、昨日の約束も覚えている。
夜一は記録帳を開かなかった。
今は、見るだけでいい。
少し後ろから別の少年が走ってくる。
「高瀬」
「何」
「昨日、学校いたっけ?」
「休んだよ」
「あ、そっか」
「何で」
「いや、なんとなく」
少年はそれ以上気にせず、先へ走っていった。
湊は振り返らない。
夜一だけが、その背中を見送った。
◇
昇降口。
湊が自分の下駄箱へ向かう。
夜一は、その手前で足を止めた。
名前札。
――高瀬湊。
そう書かれている。
ただし。
「瀬」の右側だけが、少し薄い。
「昨日より?」
マシロが聞く。
「分からない」
環が端末を出した。
「学校側に、昨年度の設備確認写真があります」
画面を拡大する。
同じ下駄箱。
同じ名札。
――高瀬湊。
そこでは、文字は正常だった。
「現在のみ劣化」
環が言う。
「インクの退色、清掃時の摩耗などでも説明できます」
「まだ一個だ」
夜一は言った。
「記録します」
「原因は書くな」
「書きません」
湊は三人を見ていた。
「靴、入れていい?」
「ああ」
夜一は道を空けた。
湊はいつも通り、上履きへ履き替える。
その動作だけは、何も変わらなかった。
◇
朝の教室。
夜一たちは、担任の許可を得て後方に立っていた。
教師が出席簿を開く。
「田中くん」
「はい」
「佐々木さん」
「はい」
名前が順番に呼ばれていく。
湊は筆箱を開き、借りていた消しゴムを机の端へ置いた。
「高瀬……」
担任の指が止まった。
一拍。
紙の上を視線が往復する。
「湊です」
湊が自分で言った。
「ああ。そうだった。高瀬湊くん」
「はい」
教師は、何事もなかったように次へ進んだ。
「松田さん」
「はい」
夜一は教卓へ近づく。
出席簿。
――高瀬。
その後ろ。
下の名前だけが、擦れたように薄い。
「昨日までは?」
夜一が小声で聞く。
「昨日?」
教師が首を傾げる。
「普通だったと思いますけど」
環が学校のタブレットを確認する。
児童名簿。
高瀬。
その後ろが、空欄。
「同期エラーですかね」
教師が言う。
「可能性はあります」
環が答える。
「現時点では、その可能性も含めて確認します」
夜一は湊を見る。
本人は、返した消しゴムを隣の机へ滑らせていた。
◇
休み時間。
担任の許可を得て、夜一は湊の友人数人へ話を聞いた。
環は少し離れた場所で記録している。
マシロは窓際。
「湊は何が好き?」
「サッカー」
「ゲーム」
「給食の卵焼き」
「甘いやつな」
湊が横から言う。
「俺、しょっぱい方が好き」
「聞いてない」
「湊は?」
「甘い方」
子どもたちが笑った。
現在はある。
湊を見て。
湊へ話しかけて。
湊の好みも知っている。
「去年、湊と同じ組だった人」
夜一が聞く。
三人の手が上がりかけて、止まった。
「……俺?」
一人が言う。
「たぶん」
「二組だったっけ」
「三組じゃなかった?」
「高瀬、どっち」
湊が眉を寄せる。
「二組」
「ああ」
「そうだった」
返事は早い。
だが。
思い出したというより、答えを教えられて納得したように見えた。
「いつから友達?」
夜一が一人へ聞く。
「いつからって」
少年は困った。
「前から」
「最初に遊んだのは」
「……いつだっけ」
湊を見る。
「覚えてる?」
「三年の夏」
「そうだっけ」
「公園でサッカーした」
「ああ」
少年は笑った。
「した気がする」
夜一は記録帳へ書いた。
友人――現在の認識、好みの記憶あり。
過去の所属、初回接触記憶に曖昧化。
そこで止めた。
意味は書かない。
◇
図書室。
マシロが貸出カードの箱を覗いていた。
「勝手に抜くな」
「触ってるだけ」
「同じだ」
「違う」
「何が」
「抜いてない」
夜一が近づく。
マシロが一枚を指した。
「これ」
古い児童書。
題名は、
『なつのひまわり』
貸出カード。
日付。
いくつかの児童名。
その中に。
鉛筆で、
――たかせ みなみ。
夜一はカードへ触れなかった。
「環」
「確認します」
端末を操作する。
「現在、過去を含めて、高瀬みなみという児童の在籍記録はありません」
「この字は」
「筆圧や筆跡から、児童が書いた可能性はあります。ただし断定はできません」
「貸出処理は」
「図書管理システム側には残っていません」
「カードだけ?」
「現時点では」
夜一は記録帳へ書く。
図書貸出カード。
――たかせ みなみ。
正式在籍記録なし。
現在、存在確認。
「増加扱い?」
夜一が聞く。
「過去状態の比較記録がありません」
環が答える。
「現時点では“新規確認”です」
「ああ」
「食べる?」
マシロが聞く。
「何を」
「紙」
「学校のものを食うな」
「食べるとは言ってない」
「今言った」
「聞いただけ」
夜一はカードから目を離した。
◇
保健室。
環が古い来室記録を確認する。
一枚。
児童名欄。
――高瀬み――
その先は滲んでいた。
「読めるか」
夜一が聞く。
「高瀬、までは確実です」
「その後は」
「『み』に見えます。ただし断定できません」
「学籍番号は」
「空欄」
夜一はそのまま記録した。
――高瀬み――。
それだけ。
みなみとは書かなかった。
◇
昼過ぎ。
教員室。
担任が学籍資料を確認していた。
「すみません」
教師が夜一へ顔を上げる。
「その子のお名前、もう一度いいですか」
「高瀬――」
夜一の口が止まった。
舌が。
その先を探す。
知っている。
昨日。
三度書いた。
今朝も話した。
ここまで一緒に歩いてきた。
なのに。
一拍だけ。
名前のある場所が、空白になった。
右手がコートのポケットへ動く。
記録帳。
その表紙に触れる。
だが、開く前に。
別のものが戻ってきた。
夜明堂のカウンター。
蜂蜜入りの牛乳。
立ち上る湯気。
ランドセルを背負ったまま、椅子へ浅く座っていた少年。
両手でカップを包みながら、なかなか飲もうとしなかった。
泥のついた右靴。
膝の上の枯れた向日葵。
「……高瀬湊」
夜一は言った。
「高瀬湊です」
「ああ。ありがとうございます」
教師は何も気づかず、資料へ書き込んだ。
夜一も、その場では何も言わなかった。
◇
教員室を出る。
廊下。
環が横へ来た。
「今」
「何だ」
「間がありました」
「そうだな」
「名前が」
「出てこなかった」
環の表情は変わらない。
ただ、端末を持つ指だけが止まった。
「記録します」
「ああ」
夜一も自分の記録帳を開いた。
高瀬湊。
高瀬湊。
高瀬湊。
三度。
その下にある一文。
――牛乳を最初は飲まなかった。
夜一は、そこへ指を置いた。
名前より先に。
顔が戻った。
湯気。
泥のついた右靴。
枯れた向日葵。
「何」
マシロが横から聞く。
「何でもない」
「嘘?」
「少しな」
「床に落ちた?」
「落ちない」
「そう」
マシロは、それ以上聞かなかった。
◇
放課後。
教室は静かだった。
机。
椅子。
黒板。
窓から斜めに差し込む夕方の光。
湊の机はある。
教科書も。
筆箱も。
朝返した消しゴムの代わりに、別の鉛筆が一本置かれていた。
「僕の机」
湊が言った。
「ああ」
机の横。
名前シール。
朝には、
――高瀬湊。
そう書かれていた。
今は。
――高瀬。
それだけ。
湊が指で、消えた下の名前の場所をなぞる。
「僕のだよ」
「ああ」
夜一は答えた。
「名前なくても?」
「お前が使ってる」
湊は夜一を見る。
それから、机へ手を置いた。
「うん」
それだけだった。
◇
教室の後ろ。
作品掲示板の前で、マシロが足を止めた。
「夜一」
「何だ」
「増えた」
一枚の絵。
黄色いクレヨン。
大きな向日葵。
青い空。
その下に。
幼い字。
――たかせ みなみ。
担任が近づいてくる。
「こんな絵、ありました?」
「先生が掲示したものでは」
「分かりません」
教師は額へ手を当てた。
「図工の作品……だと思うんですけど」
「誰の」
「それが」
名簿を確認する。
「高瀬みなみ、という子はいません」
机もない。
名札もない。
ロッカーもない。
本人もいない。
絵だけがある。
「比較記録は?」
夜一が聞く。
環が端末を確認する。
「教室後方の写真は、今朝一枚あります」
拡大する。
作品掲示板。
同じ位置。
そこには。
向日葵の絵はない。
夜一は現在の掲示板を見る。
黄色いクレヨンの花。
「なら」
環が言う。
「現在、増加を確認できます」
夜一は記録帳へ書いた。
作品掲示板。
――たかせ みなみ。
向日葵の絵。
朝の比較画像にはなし。
現在、存在。
原因不明。
マシロが絵へ鼻を近づけた。
「海」
「向日葵と同じか」
「近い」
そのとき。
校庭から。
じり。
一度だけ。
蝉の声がした。
春の風が、窓を揺らす。
湊が顔を上げた。
夜一も窓へ近づく。
校庭。
誰もいない。
鉄棒。
砂場。
花壇。
その端に。
一本だけ。
向日葵が咲いていた。
春の光の中。
夏を待たずに。
黄色い花だけが。
校舎の方を向いていた。




