愛しているから、壊したかった
「棘花よ」
環の声が、暗い部屋へ落ちた。
夜一は崩れた花束を見下ろした。
黄色い花弁が黒い布の上へ散っている。
妻と別れたくなかった。
子どもが欲しかった。
誰かに必要とされたかった。
どれも本当だ。
だが、それだけなら花は反発しない。
残花を育てている感情の中に、まだ佐伯本人が認めたくない何かがある。
「佐伯さん」
夜一は男を見る。
「妻が再婚したと聞いたとき、どう思いましたか」
「どうって」
「悲しかった?」
「当たり前だ」
「それだけですか」
男の表情が僅かに変わる。
黄色い根が、足首から膝へ上がった。
皮膚の下で花が開く。
「何が言いたい」
「その人が幸せになったことを、喜びましたか」
「喜べるわけないだろ」
即答だった。
「自分を捨てた女だぞ」
部屋の隅で、少女が笑う。
「お父さん」
「もう少し待ってくれ」
男は少女へ言った。
夜一ではなく。
残花の中にいる娘へ。
「すぐ行くから」
「行かせません」
「お前に何が分かる」
「だから聞いています」
夜一は崩れた花を拾う。
指先へ黄色い花粉がついた。
甘い香り。
幸福な家庭。
誕生日。
笑顔。
それらの奥に、まだ別の匂いが混じっている。
湿った土。
酒。
腐った果実。
「奥さんが再婚した相手は、どんな人でしたか」
「知らない」
「調べなかった?」
「興味がない」
花弁が一枚、黒く変色した。
夜一はそれを見る。
「本当に?」
「しつこいぞ」
「知っていたんじゃないですか」
「何を」
「その人が、奥さんを大切にしていたこと」
男の目が揺れる。
「あなたより」
「黙れ」
根が一気に太くなる。
床板が持ち上がった。
少女の姿が近づく。
「お父さん」
「もうすぐだ」
「佐伯さん」
夜一は声を強める。
「奥さんが再婚して、子どもを持たなかったことに安心しましたか」
男の顔が歪んだ。
「何を」
「自分との間にも、再婚相手との間にも子どもがいなかった。それで、少しだけ救われたんじゃないですか」
「違う」
「自分だけが選ばれなかったわけではないと思えた」
「違う!」
黄色い花が天井まで伸びた。
壁一面へ根が走る。
雨音が消えた。
代わりに。
少女の笑い声が部屋中へ響く。
「お父さん、お父さん、お父さん」
何度も。
必要とされる呼び声。
男は耳を塞がない。
むしろ、聞き入るように目を閉じた。
「あと五十秒」
環が言った。
「分かってる」
「本当に?」
「黙れ」
「佐伯さん」
夜一は男へ一歩近づく。
「奥さんが亡くなったと聞いたとき、どう思いましたか」
男は答えない。
「悲しかった?」
「……ああ」
「それだけですか」
「それだけだ」
「嘘です」
花の中心から、黒い棘が一本伸びた。
細い。
まだ蕾にもなっていない。
「嘘じゃない」
「では、なぜ花が反応する」
「知らない!」
「嬉しかったんじゃないですか」
男の呼吸が止まる。
「自分を選ばなかった妻が、最後まで幸福に生き切れなかったことが」
「黙れ」
「自分なしで幸せになったまま終わらなかったことが」
「黙れ!」
「少しだけ、安心した」
男が夜一へ掴みかかった。
拳が頬へ当たる。
夜一の身体が横へ揺れた。
口の中に血の味。
環は動かない。
夜一も反撃しなかった。
「俺は、あいつを愛してた!」
「知っています」
「幸せでいてほしかった!」
「それも本当です」
「なら」
「でも、自分なしでは幸せになってほしくなかった」
黒い棘が大きく膨らんだ。
男の胸元から。
皮膚を割り。
黒い花が咲いた。
花弁は、握りしめた指のように歪んでいる。
中心から、男自身の声が聞こえた。
――あいつが一人で幸せになるくらいなら。
男が耳を塞ぐ。
「やめろ」
――俺と一緒に不幸でいてほしかった。
「やめろ」
――俺を捨てたことを、後悔してほしかった。
「やめろ!」
夜一は黒い花へ手を伸ばした。
熱い。
針のような棘が手袋を貫く。
それでも離さない。
「これが棘花です」
「違う」
「違いません」
「俺は、あいつを愛していた」
「だからです」
男の目が夜一へ向く。
「愛していたから、自分の望む形で幸せになってほしかった」
「そんなものは愛じゃない」
「愛だけではなかったということです」
夜一は黒い花を切った。
男が悲鳴を上げる。
切り口から、黄色い汁と黒い血が混ざって落ちる。
「愛情も」
夜一は黒い花を、崩れた花束へ加える。
「孤独も」
黄色い主花を戻す。
「父親になりたかった願いも」
副花を添える。
「妻が自分なしで幸せになることを許せなかった感情も」
黒糸を巻く。
「全部、あなたのものです」
「こんなもの」
男は黒い花を見た。
「こんなものまで、俺だと言うのか」
「そうです」
「認めたら」
「消えません」
「何が」
「あなたが、その感情を持ったことは」
夜一は花束を男へ差し出す。
「認めても、なかったことにはなりません」
男は受け取らない。
少女が寝室の入口に立っている。
「お父さん」
声が近い。
もう少女の足は、現実の床を踏んでいた。
黄色い靴。
白い靴下。
膝の擦り傷。
すべてが具体的だった。
「あと二十秒」
環が鋏を持ち上げる。
「佐伯さん」
夜一は急ぐ。
「言ってください」
「何を」
「妻を愛していた」
黒糸が震える。
「それだけじゃない」
男は首を横に振る。
「言えません」
「言わなければ、花束は完成しない」
「そんなことを言ったら」
「何です」
「あいつを愛していたことまで、嘘になる」
「なりません」
「なる!」
男は叫ぶ。
「俺があいつを不幸にしたかったなんて認めたら、愛していたことまで汚れる!」
「汚れていていい」
夜一は言った。
男が動きを止める。
「綺麗な花だけで、人生を束ねる必要はありません」
「そんなものを」
「あなたが持っていた愛情は、支配欲が混じっていたから消えるんですか」
男は答えない。
「誰かを傷つけた感情があったら、優しかった時間まで全部嘘になるんですか」
「分からない」
「俺もです」
夜一は花束を持ったまま、男を見る。
「だから、両方入れる」
少女が手を伸ばす。
男の指先と触れ合う。
男の身体が、さらに若返った。
「十」
環が数え始める。
「佐伯さん」
「九」
「言ってください」
「八」
男は少女を見る。
涙が落ちる。
「七」
「俺は」
黒糸が動く。
「六」
「妻を愛していた」
黄色い花が開く。
「五」
「でも」
黒い棘が震える。
「四」
「あいつが、俺なしで幸せになるのが許せなかった」
黒糸が花束を締める。
「三」
「死んだと聞いて」
男の声が崩れる。
「二」
「少しだけ、安心した」
黒い花が完全に開いた。
「一」
花束が光る。
黄色。
黒。
白。
幸福な庭と、湿った部屋が重なった。
少女が男の手を握る。
「お父さん」
男は泣いていた。
「ごめんな」
少女は笑う。
「何で謝るの」
「お前は」
男は言葉を失った。
生まれなかった娘へ。
何を謝ればよいのか。
生まれさせられなかったことか。
都合のよい家族として作ったことか。
現在を捨てるために呼び出したことか。
「俺は、お前に会いたかった」
少女の瞳の黄色い花が揺れる。
「うん」
「でも、お前が欲しかったんじゃない」
男は嗚咽を漏らした。
「俺を捨てない誰かが、欲しかった」
最後の黒糸が結ばれた。
花束が完成した。
夜一は灰瓶の蓋を開ける。
花束を火へ近づける。
「送りますか」
男は少女を見る。
少女は何も言わない。
笑っている。
だが、その笑顔の奥には。
父親に選ばれたいという願いがある。
「俺が決めるのか」
「はい」
「この子を」
「はい」
「消すかどうかを」
「送ることが、消すことと同じかは分かりません」
「戻ってくるのか」
「分かりません」
「何も分からないんだな」
「分かったふりはしません」
男は長く黙った。
そして。
少女の手を離した。
「送ってくれ」
少女の笑顔が、一瞬だけ泣きそうに歪んだ。
夜一は花束を灰瓶へ落とした。
白い火が上がる。
熱はない。
花弁が一枚ずつ光へ変わる。
少女の身体も。
足元から。
ゆっくり。
「お父さん」
男は顔を覆った。
「ごめん」
少女は首を横に振る。
「泣かないで」
最後まで。
父親に都合のよい娘だった。
夜一は目を逸らさなかった。
少女が完全に消える。
黄色い花が萎れる。
根が床から抜け。
古いアパートの部屋が戻った。
雨音。
酒瓶。
剥がれた壁紙。
何も変わらない現実。
男は床へ膝をついた。
「これで」
声が震える。
「俺は、一人か」
「最初からそうです」
環が言った。
夜一は彼女を見る。
「言い方があるだろ」
「嘘を言えばいいの?」
「黙ってろ」
男は笑った。
泣きながら。
「いいんだ」
写真を拾う。
若い自分と。
もういない妻。
「一人だったことを、忘れようとしてただけだ」
環は銀の鋏を閉じた。
「根付きは停止。記録侵食も消えている」
「感情は」
「残ってる」
男は妻の写真を握る。
「苦しいままだ」
「当然です」
夜一は灰瓶の蓋を閉じた。
「花を送っても、人生は変わりません」
「じゃあ、何のために」
「なかったことにしないためです」
男は灰瓶を見る。
「また、咲くか」
「強く望めば」
「そのときも来るのか」
「依頼があれば」
「高い?」
「初回は無料です」
「次は」
「店で花を一本買ってください」
「商売なんだな」
「花屋なので」
男は少しだけ笑った。
夜一は道具を片づける。
黒い布。
花鋏。
切れた束ね糸。
灰瓶。
一つずつ鞄へ戻す。
環が窓辺に立ち、外を見る。
「夜が明ける」
雨雲の向こうが、僅かに白んでいた。
「間に合った」
「今回はね」
環は夜一の手を見る。
棘に貫かれた手袋。
黒い血が滲んでいる。
「また素手で棘を持った」
「手袋をしてた」
「貫通してる」
「浅い」
「感染したら」
「残花に感染症はない」
「普通の土壌菌はある」
「細かいな」
「あなたが雑なの」
夜一は鞄を肩へかけた。
「帰るぞ」
「その前に」
環が銀の鋏を夜一へ向ける。
刃の間に、夜一の胸元が映る。
「あなたの幸福視、また深く入りすぎた」
「問題ない」
「黄色い花粉が残ってる」
夜一は自分の指を見る。
確かに。
黒い血の中へ、黄色い光が混じっていた。
「佐伯の残花が、あなたの記憶へ根を伸ばしてる」
「切れば消える」
「どこまで?」
「分からない」
「だから確認する」
環は鋏を開く。
「妹の記憶に触れている可能性がある」
夜一の動きが止まる。
「何で、それを知ってる」
「花局の記録」
「勝手に見るな」
「監察官だから」
「便利な言葉だな」
「事実よ」
環は一歩近づく。
「久世夜一。あなたは、依頼人へ自分の感情を引き受けろと言う」
「それが何だ」
「でも自分の感情は、能力の中へ隠している」
夜一は環を見る。
「知ったようなことを言うな」
「幸福視で見える美しい未来へ、妹を探しているでしょう」
「黙れ」
「依頼人と同じよ」
「違う」
「何が」
夜一は答えない。
雨が窓を叩く。
佐伯は二人を見ていたが、何も聞かなかった。
環は鋏を下ろした。
「今日は切らない」
「最初からそうしろ」
「次に根付きが進んだら、強制剪定する」
「やってみろ」
「あなたの妹の記憶ごと切れるかもしれない」
夜一の目が細くなる。
「脅しか」
「説明」
「同じだ」
「違う」
環は玄関へ向かう。
「あなたは、人間が自分の感情を引き受けられると信じすぎている」
扉を開ける。
冷たい朝の空気が入った。
「耐えられない人もいる」
「だから切るのか」
「生き残るために必要なら」
「感情を失って、それでも同じ人間か」
「死ねば、何も残らない」
環は振り返らなかった。
「命が残れば、別の意味を作れる」
「同じものは戻らない」
「戻す必要があるの?」
扉が閉じた。
夜一はその場に立ったまま、しばらく動かなかった。
佐伯が写真を胸へ抱える。
「なあ、花屋」
「何です」
「さっきの子は、本当にいなかったのか」
夜一は灰瓶を見る。
中には、黄色と黒が混じった灰が残っている。
「いました」
「どこに」
「選ばなかった未来に」
「それは、生きていたことになるのか」
「分かりません」
佐伯は目を伏せる。
「分からないばかりだな」
「分からないものを、分かったことにするよりはましです」
夜一は鞄を持つ。
「店は、夜に開いています」
「次に行ったら」
「花を一本買ってください」
「何がいい」
「今は、黄色以外で」
佐伯は初めて、少しだけ自然に笑った。
夜一は部屋を出る。
雨は止みかけていた。
薄い朝の光。
濡れた道路。
世界は何も知らず、昨日の続きを始めようとしている。
夜一の手袋には、黄色い花粉が残っていた。
拭っても。
完全には取れなかった。




