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残花葬送 ー世界から消す未来を、君と花束にするー  作者: 桝田キゲン


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1/7

幸福な未来を見誤った夜

 その家には、まだ生まれていない子どもの笑い声が満ちていた。


 廊下を駆ける足音。


 転がる赤いボール。


 台所から漂う、焦げたバターと砂糖の匂い。


 白いカーテンの向こうでは、朝の光が柔らかく揺れている。


 食卓には三人分の皿が並び、その中央には、黄色い花を生けた小さな瓶が置かれていた。


「お父さん、早く」


 少女が笑った。


 長い髪を二つに結んだ、七歳くらいの子どもだった。


 少女は男の腕を引き、庭へ連れ出そうとしている。


 男は困ったように笑いながら、読みかけの新聞を畳んだ。


「そんなに引っ張るな。ケーキが落ちるだろう」


「だって、お母さん待ってるよ」


 庭では、白いワンピースを着た女が蝋燭へ火を点けていた。


 誕生日の飾り。


 青い空。


 よく手入れされた芝生。


 三人は、どこにでもいる家族に見えた。


 何ひとつ欠けていなかった。


 誰も泣いていなかった。


 誰も誰かを恨んでいなかった。


 幸福は、疑いようのない形をしていた。


 久世夜一は、花へ触れていた指を離した。


 視界が暗転する。


 朝の庭が砕け、古いアパートの一室へ戻った。


 窓の外は真夜中だった。


 雨が降っている。


 壁紙は湿気で剥がれ、床には空の酒瓶が転がっていた。電気は消え、卓上の小さなランプだけが、部屋の中央に咲いた黄色い花を照らしている。


 花は、子どもの背丈ほどあった。


 茎は床板を突き破り、根は奥の寝室へ続いている。


 花弁が開閉するたび、さっきの少女の笑い声が聞こえた。


「見えたか」


 背後から女の声がした。


 夜一は答えなかった。


 黒いコートを着た朝比奈環が、壁にもたれている。右手には、大型の剪定鋏が握られていた。


 銀色の刃には、花粉ではなく、人間の記憶が薄い靄となってまとわりついている。


「三分」


 環が言った。


「日の出までじゃない。この部屋が根付きへ移行するまで、あと三分」


 夜一は黄色い花を見上げた。


 花の奥では、幸福な家族の庭が揺れている。


 男が少女を抱き上げた。


 女が笑った。


 誕生日の歌が始まった。


「送れる」


 夜一は言った。


「主花は家族だ。あの人は妻と別れず、子どもを持つ未来を望んでる」


「それだけなら、とっくに燃えている」


「副花が足りない」


「棘もね」


 環の声には焦りがなかった。


 その静けさが、夜一には気に入らなかった。


「依頼人は」


「奥」


 根が伸びる寝室へ向かう。


 扉は半分開いていた。


 中では、中年の男がベッドの脇に座っていた。痩せた肩を丸め、古い写真を胸に抱いている。


 写真には、若いころの男と、一人の女が写っていた。


 子どもはいない。


「佐伯さん」


 夜一が呼ぶと、男はゆっくり顔を上げた。


「見たか」


「見ました」


「あれが、俺の家族だ」


 男の目には涙がなかった。


 泣き疲れたのではない。


 泣くべきことが、もう残っていない目だった。


「妻とは十二年前に別れた。子どもはできなかった。あいつはその後、別の男と再婚した」


「その人は今」


「死んだよ」


 男は写真を撫でた。


「二年前に病気でな」


 黄色い根が、男の足首へ絡みついている。


 皮膚の下には細い茎が透けていた。


「でも、あっちでは違う」


 男は微笑んだ。


「あいつは俺と別れない。子どもが生まれる。俺は酒もやめる。仕事も続ける。家族三人で、庭のある家に住む」


 間違いなく、夜一が見た未来だった。


 幸福視は嘘を映さない。


 選ばれなかった未来の中から、その人間が最も幸福だった瞬間を見せる。


 夜一はそう教えられていた。


「戻りたいですか」


「戻れるのか」


「戻すんじゃありません。あの未来を送るんです」


「燃やすんだろ」


 男の声が低くなる。


「送るとか、弔うとか、綺麗な言葉を使ってるだけだ。結局、お前らはあれを殺す」


「残せば、今の現実が侵食されます」


「今の現実に、何がある」


 男は写真を握りしめた。


「仕事もない。妻もいない。子どももいない。誰も俺を待っていない。あっちには全部ある」


 花弁が大きく開いた。


 部屋の壁が一瞬だけ、白い庭へ変わる。


 七歳の少女が、寝室の入口から顔を出した。


「お父さん」


 男が立ち上がる。


「待て」


 夜一は男の腕を掴んだ。


 少女は首を傾げた。


 よく見ると、瞳の奥に黄色い花が咲いている。


「お父さん、こっちだよ」


 甘い匂いが強くなる。


 男の腕が、夜一の手の中で細くなった。


 年齢が巻き戻っている。


 白髪が黒くなり、頬の皺が消えていく。


「環」


 夜一は振り返らずに呼んだ。


「あと一分四十秒」


「黙ってろ」


 夜一は床に道具を広げた。


 黒い布。


 花鋏。


 束ね糸。


 佐伯の残花から、三本を切り取る。


 主花。


 妻と別れなかった未来。


 副花。


 家族を持ち、孤独から救われたかった願い。


 もう一本。


 父親として必要とされたかった思い。


 夜一は三本を束ねる。


 黄色い花は、脈打つように震えた。


「佐伯さん。言ってください」


「何を」


「別れなかった未来を望んでいたことを。子どもに会いたかったことを。今の人生が嫌だったことを」


「そんなもの、全部分かってる」


「口にしてください」


 男は少女を見た。


「俺は……あいつと別れたくなかった」


 黒糸が一本、花束へ巻きつく。


「子どもが欲しかった」


 二本目。


「父親になりたかった。誰かに必要とされたかった」


 三本目。


 花束が淡く光る。


 夜一は火入れ用の灰瓶を取り出した。


 だが、花は燃えなかった。


 黄色い花弁が一斉に逆立つ。


 束ね糸が切れた。


 花束が夜一の手の中で崩れる。


「足りない」


 環が言った。


「分かってる」


「棘花よ」

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