幸福な未来を見誤った夜
その家には、まだ生まれていない子どもの笑い声が満ちていた。
廊下を駆ける足音。
転がる赤いボール。
台所から漂う、焦げたバターと砂糖の匂い。
白いカーテンの向こうでは、朝の光が柔らかく揺れている。
食卓には三人分の皿が並び、その中央には、黄色い花を生けた小さな瓶が置かれていた。
「お父さん、早く」
少女が笑った。
長い髪を二つに結んだ、七歳くらいの子どもだった。
少女は男の腕を引き、庭へ連れ出そうとしている。
男は困ったように笑いながら、読みかけの新聞を畳んだ。
「そんなに引っ張るな。ケーキが落ちるだろう」
「だって、お母さん待ってるよ」
庭では、白いワンピースを着た女が蝋燭へ火を点けていた。
誕生日の飾り。
青い空。
よく手入れされた芝生。
三人は、どこにでもいる家族に見えた。
何ひとつ欠けていなかった。
誰も泣いていなかった。
誰も誰かを恨んでいなかった。
幸福は、疑いようのない形をしていた。
久世夜一は、花へ触れていた指を離した。
視界が暗転する。
朝の庭が砕け、古いアパートの一室へ戻った。
窓の外は真夜中だった。
雨が降っている。
壁紙は湿気で剥がれ、床には空の酒瓶が転がっていた。電気は消え、卓上の小さなランプだけが、部屋の中央に咲いた黄色い花を照らしている。
花は、子どもの背丈ほどあった。
茎は床板を突き破り、根は奥の寝室へ続いている。
花弁が開閉するたび、さっきの少女の笑い声が聞こえた。
「見えたか」
背後から女の声がした。
夜一は答えなかった。
黒いコートを着た朝比奈環が、壁にもたれている。右手には、大型の剪定鋏が握られていた。
銀色の刃には、花粉ではなく、人間の記憶が薄い靄となってまとわりついている。
「三分」
環が言った。
「日の出までじゃない。この部屋が根付きへ移行するまで、あと三分」
夜一は黄色い花を見上げた。
花の奥では、幸福な家族の庭が揺れている。
男が少女を抱き上げた。
女が笑った。
誕生日の歌が始まった。
「送れる」
夜一は言った。
「主花は家族だ。あの人は妻と別れず、子どもを持つ未来を望んでる」
「それだけなら、とっくに燃えている」
「副花が足りない」
「棘もね」
環の声には焦りがなかった。
その静けさが、夜一には気に入らなかった。
「依頼人は」
「奥」
根が伸びる寝室へ向かう。
扉は半分開いていた。
中では、中年の男がベッドの脇に座っていた。痩せた肩を丸め、古い写真を胸に抱いている。
写真には、若いころの男と、一人の女が写っていた。
子どもはいない。
「佐伯さん」
夜一が呼ぶと、男はゆっくり顔を上げた。
「見たか」
「見ました」
「あれが、俺の家族だ」
男の目には涙がなかった。
泣き疲れたのではない。
泣くべきことが、もう残っていない目だった。
「妻とは十二年前に別れた。子どもはできなかった。あいつはその後、別の男と再婚した」
「その人は今」
「死んだよ」
男は写真を撫でた。
「二年前に病気でな」
黄色い根が、男の足首へ絡みついている。
皮膚の下には細い茎が透けていた。
「でも、あっちでは違う」
男は微笑んだ。
「あいつは俺と別れない。子どもが生まれる。俺は酒もやめる。仕事も続ける。家族三人で、庭のある家に住む」
間違いなく、夜一が見た未来だった。
幸福視は嘘を映さない。
選ばれなかった未来の中から、その人間が最も幸福だった瞬間を見せる。
夜一はそう教えられていた。
「戻りたいですか」
「戻れるのか」
「戻すんじゃありません。あの未来を送るんです」
「燃やすんだろ」
男の声が低くなる。
「送るとか、弔うとか、綺麗な言葉を使ってるだけだ。結局、お前らはあれを殺す」
「残せば、今の現実が侵食されます」
「今の現実に、何がある」
男は写真を握りしめた。
「仕事もない。妻もいない。子どももいない。誰も俺を待っていない。あっちには全部ある」
花弁が大きく開いた。
部屋の壁が一瞬だけ、白い庭へ変わる。
七歳の少女が、寝室の入口から顔を出した。
「お父さん」
男が立ち上がる。
「待て」
夜一は男の腕を掴んだ。
少女は首を傾げた。
よく見ると、瞳の奥に黄色い花が咲いている。
「お父さん、こっちだよ」
甘い匂いが強くなる。
男の腕が、夜一の手の中で細くなった。
年齢が巻き戻っている。
白髪が黒くなり、頬の皺が消えていく。
「環」
夜一は振り返らずに呼んだ。
「あと一分四十秒」
「黙ってろ」
夜一は床に道具を広げた。
黒い布。
花鋏。
束ね糸。
佐伯の残花から、三本を切り取る。
主花。
妻と別れなかった未来。
副花。
家族を持ち、孤独から救われたかった願い。
もう一本。
父親として必要とされたかった思い。
夜一は三本を束ねる。
黄色い花は、脈打つように震えた。
「佐伯さん。言ってください」
「何を」
「別れなかった未来を望んでいたことを。子どもに会いたかったことを。今の人生が嫌だったことを」
「そんなもの、全部分かってる」
「口にしてください」
男は少女を見た。
「俺は……あいつと別れたくなかった」
黒糸が一本、花束へ巻きつく。
「子どもが欲しかった」
二本目。
「父親になりたかった。誰かに必要とされたかった」
三本目。
花束が淡く光る。
夜一は火入れ用の灰瓶を取り出した。
だが、花は燃えなかった。
黄色い花弁が一斉に逆立つ。
束ね糸が切れた。
花束が夜一の手の中で崩れる。
「足りない」
環が言った。
「分かってる」
「棘花よ」




