三杯の種
マシロの足元が。
白い光へ溶け始めていた。
裸足の輪郭が薄れ。
足首から上へ。
世界花の崩壊へ巻き込まれるように、身体が透けていく。
「マシロ」
夜一が呼ぶ。
「見れば分かる」
「戻るぞ」
「無理かもしれない」
「決めただろ」
「何を」
「夜明堂へ戻る」
マシロは。
自分の消えかけた足を見る。
白い根が。
彼女の身体から世界花へ伸びている。
一本ではない。
数え切れない。
百二十七人。
それ以上。
彼女の中にいた人生の数だけ。
「私は」
マシロの声が僅かに揺れた。
「どこまで私?」
「知らない」
「今、励ますところ」
「分からないものは分からない」
「役に立たない」
「戻ってから文句を言え」
黎明がマシロを見ていた。
「花守マシロ」
「何」
「お前を作ったことを」
黎明は言葉を選ぶ。
「謝るつもりはない」
夜一の拳が動きかける。
マシロが先に言った。
「そう」
「だが」
黎明は続ける。
「選ばせなかったことは謝る」
「遅い」
「ああ」
「私は」
マシロは崩れ始めた男を見る。
「あなたを父親だと思わない」
「当然だ」
「研究者とも思いたくない」
「それも当然だ」
「でも」
マシロは自分の胸元へ手を置いた。
皮膚の下。
何人もの記憶が。
光の筋となって流れている。
「私の中の誰かは」
黎明の目が揺れた。
「あなたに救われたと思っている」
「誰だ」
「分からない」
「そうか」
「だから」
マシロは黎明を見る。
「私も、分からない」
「それでいい」
「勝手に許された顔をするな」
黎明の口元から。
笑みが消える。
「していない」
「している」
「難しいな」
「人間は面倒」
「お前も含まれるのだろう」
マシロは答えなかった。
白い髪に。
一輪の花が咲く。
白。
彼女が嫌いだと言っていた色。
それでも。
今は抜こうとしない。
「私は」
マシロが言う。
「夜明堂へ戻る」
「ああ」
「甘いコーヒーを飲む」
「夜一は蜂蜜を減らすぞ」
「知っている」
「煮込みも焦げている」
「普通だ」
「そうか」
黎明は夜一を見る。
「随分、今を生きるようになったな」
「お前に言われたくない」
「そうだな」
父親の身体が。
透明な花弁へ変わっていく。
黒い灰。
白い根。
樹液。
人間だった形が。
一つずつほどける。
「夜一」
「何だ」
「小春を救えなかったことを」
黎明の声が遠くなる。
「許さなくていい」
夜一は父を見る。
「だが」
「何だ」
「罰として生きるな」
夜一は答えなかった。
最後の言葉として受け取れば。
守らなければならない気がした。
父親の願いを。
また自分の人生へ入れることになる。
「自分で決める」
夜一は言った。
黎明は。
少しだけ笑った。
「それでいい」
父親の身体が崩れる。
白い花弁。
黒い灰。
透明な根。
種にはならない。
光の中へ。
形を残さず消えていく。
最後に。
黒い土の上へ。
一挺の花鋏が落ちた。
古い。
刃に小さな欠けがある。
夜一が幼いころ。
黎明が何度も手入れしていた鋏。
夜一はそれを拾った。
重い。
父親の手に合わせた重さ。
自分の指には。
まだ馴染まない。
「夜一」
マシロの声が。
遠くなった。
夜一は振り返る。
彼女の膝から下は。
もう見えない。
世界花の根と。
白い光へ混ざっている。
黒糸だけが。
夜一の手首と。
マシロをつないでいた。
「戻るぞ」
「さっきも聞いた」
「何度でも言う」
「命令?」
「確認だ」
「では」
マシロは夜一を見る。
「確認して」
温室の天井が崩れる。
銀色の亀裂。
環の剪定。
種の雨。
白い光。
夜一はマシロの手を掴んだ。
冷たい。
以前よりも。
温度が薄い。
「名前」
「花守マシロ」
「好きなもの」
「甘いもの」
「他には」
「雨」
「嫌いなもの」
「白い花」
「俺のコーヒー」
「苦い」
「煮込み」
「焦げている」
「戻る場所」
マシロは夜一を見る。
身体が。
胸元まで透けている。
「夜明堂」
黒糸が。
強く光った。
「蜂蜜」
夜一が言う。
「三杯」
「二杯半」
「三杯」
「値切るな」
「夜一が値切っている」
「最後かもしれないのに?」
マシロが尋ねる。
「最後じゃない」
「根拠は」
「お前がまだ値切ってる」
マシロは。
僅かに笑った。
白い髪に咲いた花が。
一斉に開く。
その中には。
夜一が見たことのない色もあった。
百二十七人。
それ以上。
誰かの人生。
マシロの人生。
区別はつかない。
それでも。
今。
夜一の手を握り返したのは。
彼女だった。
「夜一」
「何だ」
「忘れる?」
「何を」
「私」
夜一は答える。
「忘れない」
「痛いままで?」
小春と同じ問い。
夜一は首を横へ振る。
「変わっても」
マシロの目が揺れる。
「それでも?」
「そのとき確認する」
「何を」
「名前」
「好きなもの」
「嫌いなもの」
「コーヒー」
「煮込み」
「戻る場所」
マシロは小さく頷く。
「面倒」
「ああ」
「でも」
白い光が。
彼女の顔まで昇ってくる。
「覚えて」
「お前もな」
「何を」
「蜂蜜は三杯までだ」
「少ない」
「四杯にする気か」
「戻ってから決める」
マシロの身体が。
完全に光へ変わった。
夜一の手の中から。
温度が消える。
黒糸だけが残る。
「マシロ!」
返事はない。
温室が収縮する。
澄花が冬一を支え。
三つの種を胸へ抱いている。
夜一の掌には。
小春の黄色い種。
もう片方には。
切れた黒糸。
白い光が。
すべてを呑み込んだ。
◇
身体が。
硬い床へ叩きつけられた。
「っ」
夜一は息を詰まらせる。
木の匂い。
コーヒー。
焦げた煮込み。
琥珀色の灯り。
夜明堂。
戻った。
夜一は身体を起こす。
カウンター。
厨房。
欠けたカップ。
焦げた鍋。
床の傷。
すべて。
不完全なまま残っている。
「マシロ」
返事がない。
夜一は周囲を見る。
「マシロ」
澄花と冬一が。
店の床へ倒れている。
澄花の手には。
三粒の種。
環は銀色の鋏を下ろし。
呼吸を整えている。
窓の外。
町は消えていない。
夜明け前の道路。
古い商店街。
雨上がりの空。
「マシロ」
夜一は立ち上がる。
黒糸を見る。
手首から伸びた先。
床に。
一輪の白い花が落ちていた。
それ以外。
何もない。
夜一は花を拾う。
冷たい。
温度がない。
種ではない。
ただの。
白い花。
「マシロ」
返事はない。
「マシロ!」
声が店中へ響いた。
環が近づく。
「久世夜一」
「触るな」
「状態を確認する」
「触るな」
「花を見せて」
「嫌だ」
「種化している可能性がある」
「花だ」
「内部に種を持つ場合もある」
「切る気だろ」
「切らない」
「信用できない」
「では」
環は銀色の鋏を鞘へ戻す。
「あなたが見て」
夜一は白い花を見る。
触れても。
何も見えない。
幸福な未来。
人間になったマシロ。
夜明堂へ帰る姿。
以前なら。
花の中から。
最も美しい可能性が開いた。
今は。
何もない。
ただの白い花。
「俺には」
声が震えた。
「もう、分からない」
幸福視は。
切った。
自分で。
環は何も言わなかった。
澄花も。
冬一も。
誰も。
慰めようとしない。
夜一は白い花を胸元へ抱える。
「戻るって言った」
誰に向けた言葉か。
自分でも分からない。
「夜明堂へ戻るって」
厨房には鍋がある。
蜂蜜の瓶。
二つのカップ。
戻る場所は残っている。
戻る本人だけが。
いない。
そのとき。
厨房から。
小さな音がした。
ことり。
何かが落ちる音。
全員が振り返る。
蜂蜜の瓶が。
床へ転がっていた。
割れてはいない。
蓋だけが開いている。
中身が。
少し減っていた。
「マシロ?」
夜一は立ち上がる。
店の奥。
観葉植物の陰。
葉が。
僅かに揺れた。
白い髪の先が。
一瞬だけ見える。
「マシロ!」
夜一は走った。
植物の裏へ回る。
誰もいない。
床には。
小さな足跡。
蜂蜜。
白い花粉。
足跡は。
厨房からカウンターへ続いている。
その先。
欠けたカップの隣。
一粒の白い種が置かれていた。
夜一は息を止める。
種の表面に。
黒い筋が浮かんでいる。
文字ではない。
だが。
一つの形に見えた。
三。
「三杯」
環が背後から言った。
夜一は白い種を掌へ乗せる。
小さい。
軽い。
それでも。
微かに。
本当に微かに。
温かかった。
窓の外で。
朝日が昇り始める。
長い夜が。
終わろうとしている。
伊吹家の病気も。
失った十年も。
美緒も。
凪も。
マシロも。
何ひとつ。
元には戻っていない。
夜一は厨房へ向かった。
鍋を火へかける。
焦げた煮込みを温め直す。
湯を沸かす。
コーヒー豆を量る。
二十二グラム。
湯。
三百二十ミリリットル。
カップは二つ。
一つには。
苦いまま。
もう一つには。
蜂蜜を三杯。
夜一は。
白い種を。
甘い方のカップの隣へ置いた。
「戻ってきたら」
誰もいない椅子へ言う。
「全部飲め」
白い種が。
ほんの少しだけ。
震えた。




