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63 青潟山山頂レストランにて 宿泊研修三日目(1)

館内の大掃除も一段落したところで、十一時近く。そろそろ解散の時間が迫っていた。

昨夜のガーデンパーティーで使用した衣装は、すでに保護者たちが持ち帰ったはずだった。男子用のタキシードも、結局は真夜中に桂さんがこっそりと回収にいらしたそうで、すべて引き取られていった。後日、きれいにクリーニングした上で、それぞれにプレゼントしてくれるというのだから、全くもって太っ腹な話だ。もちろん乙彦の着たタキシードも同様の扱いをされることになったが、かなり汚してしまった自覚があるので、申し訳ない限りだった。

オーナー御夫婦にもしっかりとした挨拶を済ませ、御自宅の片付けの手伝いや、粗大ゴミの運び出しなどを行った。あれほど多くの出来事があったというのに、最後まで笑顔で送り出していただけることに、乙彦は心から感謝した。


「関崎。お父さんが迎えに来たぞ。ほら、早く家へ帰れ」

一番最初に呼び出されたのが乙彦だった。てっきり保護者たちが玄関前で待ち構えているものだと思っていたが、意外にもそうではなかった。

荷物を抱えて階段を降りると、玄関には父がスーツ姿で立っていた。会社に出勤する時と同じ格好、ということは、仕事の休み時間を使ってわざわざ迎えに来てくれたという認識でいいのだろう。

「この三日間、家族ともども本当にお世話になりました。昨日は素晴らしい建物を拝見させていただいただけではなく、乙彦をここまでも丁重に扱っていただいて恐縮です。ありがとうございました」

過剰とも思える挨拶だが、父が頭を下げているのだから、自分も丁寧に振る舞うことにした。

「また明日、よろしくお願いします! お疲れ様でした!」

「帰るまでが宿泊研修だからな。気をつけて行けよ」

麻生先生のねぎらいの言葉を受け、見送るクラスメイトたちに手を振りながら、乙彦は玄関を出た。

青空が広がる。さっきまで糀町るりの舞にシャッターを切り続けていた空と同じものだったが、どこか少しだけ、視界が広くなったような気がした。

「おとひっちゃん。今日はどこかで食事をしていこうか」

「え、父さん。そんなお金あるの?」

「失礼だな。ランチ代くらい出せないでどうする。そうだ、青潟山の山頂にレストランがあるから、そこで食べよう。いいか、母さんたちには内緒だぞ」

時計は十一時をちょうど回ったところだ。車で山を登るつもりなのだろう。ここからなら三十分もかからないはずだ。

「青潟山に登ってみて、どうだった?」

「いや。景色がきれいだなと思っただけだよ」

ごくごく単純な感想しか湧かなかった。むしろ友だちや先生たちと喋ったことのほうに意識が向いてしまい、景色などあまり覚えていないのが本音だった。

「まあ、そうだろうな。せっかくだ。大人の世界も楽しんでみようじゃないか、おとひっちゃん。皆で料理を作って食べていたそうだから、久しぶりにきちんとしたメニューから料理を選ぶのも悪くないぞ」

──いや、かなり食生活においては贅沢な二泊三日だったと思うけれどな。

乙彦は心の中で呟きつつ、父の誘いに乗ることにした。たとえそれが、お説教への前座であったとしてもだ。本当はカラオケボックスに連れていってくれるはずだったのではないか、という恨みはあえて心の隅に置いておくことにした。

ぐるぐるとカーブを曲がる。流石にこの運転中に話をするのは危険だと判断し、乙彦はひたすら口を噤んだ。この道は、車に弱い人間……たとえば立村のようなタイプには絶対の鬼門だろう。父もハンドルをしっかりと握り、油断しないようスピードを落とし気味にして運転していた。安全運転をモットーとする父を尊敬はするが、どうしても到着が遅くなりやすいというデメリットは感じざるを得ない。

なんとか登り終えると、コンクリートの駐車場の真正面に、ロープウェイの駅らしき建物が見えた。小折と立村が、料理班の仕事のためにどうしても早く下山しなければならず、ロープウェイを使ったという話を思い出す。これのことだろう。

「ロープウェイか。悪くないんだがな。まあいい、上がろう。ここのレストランは長居ができるらしいぞ」

「美味しいらしい」という言い方をしなかったのが気になった。乙彦は言われた通りに従い、階段を登った。

『青潟山山頂レストラン』。飾り気のない店名だが、中は広々としていた。「ガラガラ」という表現のほうが近いかもしれない。客がいないわけではないが、団体客がメインで、個人客はほとんど見当たらなかった。

「青潟にも観光客はいるんだな」

「まあ、それなりにな。だが、青潟は観光都市ではないからな。しょうがないよ」

喋りながら、二人は最奥の席へと向かった。窓の外には山を見下ろす絶景が広がっている。

「いい席を見つけた。さあ、座ろう。腹が空いただろ」

「じゃあ……とんかつにする」

そういえば、肉らしい肉は意外と口にしていない二泊三日だった。今朝の唐揚げも付け合わせ程度だ。2A料理班の努力は認めているが、やはり男子にとっての肉は特別なご馳走だ。乙彦は遠慮なく注文することにした。

「大盛りにするか?」

「する」

きっぱりと答えた。ここでしっかりと腹拵えをしておきたかった。

父からは最初、何気ないことばかりを訊かれた。

「結構、お前らいいものを食べていたんだな」

合宿中のメニューを一通りと、食料消失の事情を説明した上での「塩むすび」について一鎖ひとくさり説明すると、父もかなり驚いていた。

「しかも最後は、握り飯でそんなに豪華な食事になったのか。いやはや、それは感動だな」

「ただ、肉を食えなかったのだけはキツかったよ」

「まあ、そうだろうな。おとひっちゃんは育ち盛りだもんなあ」

父は独りごちた後、本題を切り出した。

「ということはだ。無理に『あのお母さん』がしゃしゃり出ないでもよかったのに、とお前たちとしては思うわけだな。わかるよ」

「あのお母さんって、立村のお母さんのこと?」

「いや。もうひとりの、あのお母さんだよ」

言葉を選ぶように、父は答えた。言いづらいのだろう。

ちょうど、とんかつランチが運ばれてきたので、乙彦はかぶりついた。正直、肉が薄すぎて物足りない。ご飯を大盛りにしておいて正解だった。ご馳走してもらう以上、贅沢は言えないが。

父の前にはハンバーグランチが置かれた。父は何も言わずに食べている。美味しいかどうかはあえて訊かなかった。


「今日、こうしておとひっちゃんを捕まえて、こんな高い場所まで連れてきたのは……頼み事がいろいろあってのことなんだよ。『大人の相談』ともいうな」

「嘘は言えないよ」

「わかっている。そう育ててきた親があえて、こうして頼み込んでいるんだ。まあ、聞いてくれ」

きっと「美味しかったな」と言わなかったのは、このレストランがそもそもそういうレベルだったということだろう。乙彦は諦めて、父の話を聞くことにした。

「昨日は忙しくて詳しく説明できなかったことを、まず話そうか」

二人の前に食後のコーヒーが用意された。口にしてみたが、酸っぱいばかりで美味しいとは全く感じられなかった。いや、これは立村渾身のコーヒーで口が肥えてしまったせいだと反省しつつ、乙彦は父に向き合った。


「おとひっちゃんが、なぜ突然ステージに上げられて歌わされたのか。なぜ、せっかく楽しみにしていたチーズフォンデュが、よくわからないお菓子ばかりになったのか。味も素っ気もない手巻き寿司になったのか……正直、何がなんだか分かっていないと思うんだが、どうだろう」

「立村からある程度の説明は受けたし、クラスのミーティングでも把握はしたよ」

「そうか。立村くんだな。彼は本当にできる子だね。うちのお母さんには言えないが。さすが、あのお父さんが大切に育てている子だ」

「このクラスの問題は、ほとんど立村が解決しているようなものだからな」

おそらく父は、母が保護者会で孤立しないよう、立村の悪口を平気で言うようなグループに丸め込むつもりなのだろう。嘘は言いたくないので、乙彦は用心した。

「しかも何だ、朝ごはんの食材までなくなるくらい、持っていかれたのか。いやはや、驚くだろうな、それは。よく乗り切ったよ。塩むすびときたか」

「うちのクラスには料理班のコンビがいて、いろいろ工夫してくれたんだ。そのうちの一人が立村だから」

そこも強調しておいた。立村のどこが「見守りが必要」な奴だ、と言っておきたかったのだ。

「そうか。料理がお上手な息子さん……ということで、いろいろと言われるのも仕方ないんだな」

「悪いけど。俺にとって立村は、決してそんな『見守りが必要』だとか、見下されるような奴じゃない。 それどころか、クラスの真ん中に立って切り盛りしてくれている。きっと母さんたちは、立村がコーヒーを淹れているだけの奴だと勘違いしているかもしれないけど。今回の英語劇だって、料理だって、それ以外の問題だって……あいつが自分を犠牲にして解決してるんだ。父さんには悪いけど、大切な友だちを下に見ることは、俺には絶対にできない」

「ああ。予想はしていたよ。おとひっちゃんはそういう奴だし、うちでもそういう風に育ててきたからな。そうだよな」

父は諦めかけている様子だったが、気を取り直したのか、改めて乙彦を真っ直ぐに見た。

「なんでうちの母さんが、立村くんを『見守る存在』として見たがっているか。その理由を教えよう。2A保護者の方々の九割方が、そういう目で見ているからなんだよ。その『九割』に入らないと……今度は、お母さんがいじめられるんだ」

「それはいじめだろ! 残りの一割であっても、いじめていいことにはならないはずだ!」

「そうだ。その通りなんだが、もしお母さんがその一割に入った場合、保護者会では大変な苦労をすることになる」

「出なくたっていいじゃないか、そんなの! 俺も母さんから保護者会の話をしょっちゅう聞くけど……そのほとんどが、立村と立村の母さんを馬鹿にしているだけだろ!」

「否定はできないな。そういう風に見えてしまっている、損をしがちな子だからな、立村くんは」

「しかも、学校もそれを見逃しているんだろ! そもそも、それが間違いなんだ。確かに立村は数学ができないし、本当は仕事ができるのに自信がないから舐められているところはあるかもしれない。けど、ここまで……保護者にまで『ひとえ君』とか言われて笑われていい奴じゃないんだ! あいつの語学能力はまじで天才的だし、紙一重だなんて、馬鹿にする必要はないんだよ!」

「おとひっちゃん。確かにその通りだ。お前が立村くんと付き合うのであれば、ずっとそのスタンスを守ってほしい。それだけであれば、お父さんは決してお前を邪魔しないよ」

「矛盾してるじゃないか」

「お父さんが頼みたいのはな、お母さんが立村くんのお母さんに攻撃的な発言をしても、『見逃してやってくれ』という、これだけなんだよ。流石にあれを、止めることはできないんだ」

「俺が立村を『面倒見てやる立場の人間だ』ということを堂々と述べられて、それを見逃せってかよ!」

だんだん、自分でも親に対する口調とは思えない言い方になってきたことに乙彦は気づいた。まずい。これは「レッドカード」だ、と自分を制した。


父は怒らなかった。

「経緯を説明するから、聞いてくれないか。まず、お前が高一の時。最初の保護者会で何も知らなかったうちのお母さんが、親切にしてくれる他のお母さんたちから立村くんの『立ち位置』を言い聞かされたんだ。つまり、『いろいろと心配なところのあるお子さんだから、皆で見守ってあげなければいけない、優しくしてあげたほうがいい』そういう風に教え込まれたんだよ」

「だから、それがそもそも侮辱だろ?」

「いや、違うんだ。お母さんは中学の頃を知らない。高校から入ってきたわけだから、親切な保護者さんたちの言葉を信じるしかなかったんだ。クラスメイトの立村くんは、中学時代にいろいろと問題を起こしてきた。特におとひっちゃんを追いかけ回していた女子を大切にしすぎて、周りに迷惑をかけている。語学能力は素晴らしいが、反対に数理能力がこの学校に入るには足りていない。だから本来は、この学校では苦労するレベルの子なんだと。そういう話を、繰り返し聞かされてきたんだよ。お母さんのせいじゃないんだ。これは間違えるなよ」

「人間には、『取り捨て選択』という能力があるんじゃないのか!」

「おとひっちゃん、落ち着いてくれ。これは『お母さん』の話なんだ。お母さんは素直にその言葉を受け入れた。そしてある日の保護者会で、『おとひっちゃんはしっかり者だし、弱い者いじめなんてしない立派な人間だということを伝えて、立村くんのような可哀想な人間を庇ってあげることができる、安心してほしい』と答えたんだ。間違えないでほしいのは、これはお母さんが『良かれと思って』言ったことなんだよ。決して、立村くんを馬鹿にしたわけじゃない。お母さんのイメージの中では……ほら、いるだろう、クラスでついていくのが難しそうで、いつも特別なクラスで過ごしているような子が。お母さんは立村くんを直接知らなかったから、そういうタイプの子だと勘違いしてしまったんだよ」

「 俺は立村を何度もうちに連れていっただろ。母さんもお茶を出してくれたし、帰りには雅弘まさひろのお母さんが作ってくれたドーナツも持たせたことがある。ついでにあいつの家に遊びに行く時は、草の種だって持たせてくれた。どういう奴かはわかっているはずだろ!」

「おとひっちゃん、いいかい。お母さんが知っているのは『生身の立村くん』じゃないんだ。おそらくだが、立村くんと顔と名前が一致したのは、もしかしたら昨日の夜が初めてかもしれない。だがその前に、お母さんはあまりに多くの『間違った立村くん情報』を得てしまい、それを元にして保護者の人たちと円滑なコミュニケーションをとっているんだよ。お母さんは、本当に大切にしてもらっているんだ。昨日、お父さんも、おとひっちゃんがこんなに凄い扱いをされているとは思わず、本当に驚いたよ。ここで薄いとんかつランチを食べているお前と、皆が見ている『おとひっちゃん』の差は、一体何なんだろうと思うくらいにな。本当にな、驚いたんだよ」


何を食べていたって、自分は自分だ。乙彦はそう言い返したかった。

──「お母さんは悪くない」……なわけないだろ! いじめなんだぞ、それは。

──お母さんは生身の立村を知らず、噂話だけで解釈し、その情報を元にして他の保護者たちと仲良くしている。

──そんなことなら、さっさとやめてしまえばいいだろ、そんな保護者会!

どうすればいいのか、乙彦には分からなかった。父の張った「大人の事情」という名の壁が、どうしても壊せなかった。


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