第9話 今更戻れと言われても、もう遅い
第9話 今更戻れと言われても、もう遅い
春だった。
長い冬が終わり、アニエスの村にも柔らかな陽射しが戻ってきていた。
山の斜面には若草が芽吹き、小川の水は雪解け水を集めてきらきらと輝いている。
かつては小さな寒村だった場所も、今では見違えるほど発展していた。
石畳の道。
新しい商店。
診療所。
学校。
工房。
宿屋。
市場。
朝から人々の活気ある声が響いている。
その中心に建つのは、アニエス商会の本館だった。
だが王宮のような豪華な建物ではない。
白い石壁と木材を組み合わせた温かみのある建物だ。
窓辺には花。
庭には果樹。
働く人々の笑い声が聞こえる。
その頃。
建物の裏庭では。
アニエスが土いじりをしていた。
麻のエプロン。
薄い緑色のワンピース。
髪は後ろで三つ編みにまとめている。
手には園芸用の小さなスコップ。
世界有数の資産家とは思えない姿だった。
「今年は苺も増やそうかな」
鼻歌まで歌っている。
幸せそうだった。
その頃。
王都から一台の馬車が近づいていた。
馬車は古びている。
車輪も傷だらけ。
かつて王太子が使っていた豪華な金色の馬車とは比べ物にならない。
中に座っている男も変わり果てていた。
レナードだった。
以前の豪華な衣装はない。
質素な上着。
疲れ切った顔。
目の下の隈。
無精ひげ。
すっかり老け込んで見えた。
彼は窓の外を見つめる。
商会の街が見えてきた。
「これが……」
声が震える。
信じられなかった。
立派な道路。
巨大な倉庫。
忙しく働く荷馬車。
笑顔の住民達。
かつて王都より貧しかった土地とは思えない。
「全部アニエスなのか……」
胸が苦しくなる。
もし。
もし婚約破棄していなければ。
そんな考えが何度も頭をよぎる。
だが今さら遅い。
馬車は正門へ到着した。
そこには巨大な門があった。
鋼鉄製である。
そして門番もいた。
普通の門番ではない。
ドワーフの戦士達だった。
全員が筋骨隆々。
巨大な戦斧を背負っている。
レナードは喉を鳴らした。
怖い。
かなり怖い。
それでも前へ出る。
「アニエスに会わせてくれ」
門番達が顔を見合わせた。
「予約は?」
「ない」
「紹介状は?」
「ない」
「身分証明は?」
「ない」
沈黙。
門番達がため息をつく。
「無理だな」
「待て!」
レナードは慌てた。
「私はレナードだ!」
「誰だ?」
「元王太子だ!」
「元か」
「元だ」
「じゃあ関係ないな」
終了だった。
レナードは青ざめる。
「頼む!」
「無理だ」
「どうしても会わなければならないんだ!」
その時だった。
後ろから豪快な笑い声が響く。
「おう?」
ギルバートだった。
相変わらず巨大な髭。
相変わらず筋肉の塊。
だが今や商会幹部である。
レナードは飛びつくように近づいた。
「頼む!」
「なんだ?」
「アニエスに会わせてくれ!」
ギルバートは数秒考えた。
そして。
「嫌だ」
即答だった。
「なぜだ!」
「忙しいからだ」
実際忙しかった。
アニエスの予定は数か月先まで埋まっている。
各国の使節団。
商会会議。
技術開発。
学校建設。
病院整備。
山ほど仕事があった。
「一言だけでいい!」
「無理だ」
「頼む!」
ギルバートは腕を組む。
そして言った。
「今さら何しに来た」
レナードは言葉に詰まった。
何しに来たのか。
もちろん分かっている。
助けてほしいのだ。
金が欲しい。
国を救ってほしい。
借金をどうにかしてほしい。
だが口に出せない。
プライドが邪魔をする。
しばらく沈黙した後。
ようやく言った。
「戻ってきてほしい」
「は?」
「アニエスに」
ギルバートの顔が険しくなる。
周囲の空気も変わる。
職人達が手を止めて見ていた。
「理由は?」
「国を救える」
「ほう」
「私と結婚すれば」
「ほう」
「愛してやってもいい」
静寂。
鳥の鳴き声だけが聞こえた。
次の瞬間。
ギルバートが吹き出した。
「ぶはっ!」
周囲も吹き出した。
職人達が笑う。
荷運び達が笑う。
通りすがりの子供達まで笑う。
レナードだけが意味が分からない。
「なぜ笑う!」
ギルバートは腹を抱えていた。
「お前」
「なんだ!」
「まだ自分が選ぶ側だと思ってるのか?」
言葉が胸に刺さる。
さらに後ろから声がした。
「騒がしいですね」
振り向く。
そこには各国の重鎮達がいた。
帝国大臣。
共和国議長。
魔導国家代表。
全員がアニエスとの会談に来ている。
国を動かす人物ばかりだった。
レナードは顔色を変える。
誰も自分を見ていない。
興味すらない。
一人の代表が尋ねた。
「誰ですかな?」
ギルバートが答える。
「不審者だ」
「なるほど」
それで終わった。
元王太子。
かつて国の頂点にいた男。
だが今は。
不審者。
それだけだった。
その頃。
裏庭。
アニエスは苺の苗を植えていた。
すると秘書がやって来る。
「アニエス様」
「なあに?」
「正門で騒ぎがあったそうです」
「へえ」
「レナードという方らしいです」
アニエスは首を傾げた。
「レナード?」
「はい」
しばらく考える。
本気で考える。
そして。
「ああ」
思い出した。
「昔の婚約者さん?」
秘書が頷く。
アニエスは再び苺を植え始めた。
「そうなんだ」
「お会いになりますか?」
「今は無理かな」
「理由をお聞きしても?」
アニエスは微笑んだ。
「苺植えてるから」
秘書は何も言えなかった。
数分後。
正門。
レナードは両脇を抱えられていた。
ドワーフ二人に。
「離せ!」
「嫌だ」
「私は王族だぞ!」
「元だろ」
「うっ」
正論だった。
そのまま門の外へ運ばれる。
ぽいっ。
地面に転がった。
土埃が舞う。
遠くで商会の鐘が鳴る。
昼休みらしい。
楽しそうな笑い声も聞こえる。
レナードは立ち上がれなかった。
ようやく理解したのだ。
アニエスは自分を必要としていない。
まったく必要としていない。
国も。
金も。
地位も。
愛してやるという言葉すら。
何の価値もない。
そして門の向こうでは。
アニエスが楽しそうに苺へ水をやっていた。
昔の婚約者のことなど。
本当にもう、どうでもよかったのである。




