第8話 自己破産、おめでとうございます
第8話 自己破産、おめでとうございます
冬の風は冷たかった。
王都の石畳には薄く雪が積もり、人々は厚手の外套に身を包んで足早に行き交っている。
だが王城の中は、外の寒さとは別の意味で凍りついていた。
王家財務会議室。
かつて豪華な晩餐会が開かれていた部屋は、今では借金の数字を数える場所になっている。
重苦しい沈黙の中、財務大臣が震える声で報告した。
「殿下……」
レナードは机に突っ伏していた。
目の下には濃い隈。
髪も乱れている。
以前の自信満々な王太子の姿はどこにもなかった。
「なんだ……」
「最後の集計が出ました」
「言え」
財務大臣は唇を噛む。
そして覚悟を決めた。
「王室資産、消失」
「……」
「国家準備金、枯渇」
「……」
「王家保有鉱山、評価額九十八パーセント減」
「……」
「債務総額は国家予算の六年分です」
沈黙。
誰も声を出せなかった。
窓の外では雪が降っている。
静かだった。
あまりにも静かだった。
レナードは乾いた笑いを漏らす。
「六年分……」
「はい」
「六年か」
「はい」
「はは……」
笑い声が空しく響く。
財務大臣は目を逸らした。
もう誰も励ませない。
現実はあまりにも残酷だった。
その日の昼。
王家専用食堂。
以前なら数十種類の料理が並んでいた。
だが今は違う。
野菜スープ。
黒パン。
塩漬け肉。
以上だった。
王家の食事としては異例の質素さである。
レナードはパンを見つめた。
食欲がない。
そこへシャロンが入ってくる。
豪華な毛皮のコート。
大粒の宝石。
相変わらず派手だった。
だが表情は険しい。
「レナード様」
「なんだ」
「本当なのですか」
「何がだ」
「破産ですわ」
その言葉に食堂が静まり返る。
レナードは拳を握った。
「破産ではない」
「でも借金まみれと聞きましたわ」
「一時的な問題だ」
「本当に?」
疑いの目だった。
以前の甘い視線はない。
シャロンは続ける。
「わたくしのお小遣いも止まりましたわ」
「今はそんな話をしている場合ではない」
「ドレス代も」
「シャロン」
「宝石代も」
「シャロン!」
ついに怒鳴った。
食堂の空気が凍る。
シャロンは数秒黙った。
そして。
すっと立ち上がる。
「そう」
妙に冷静な声だった。
「分かりましたわ」
「何がだ」
「さようなら」
レナードは瞬きをした。
「……は?」
「婚約は破棄いたします」
「なに?」
「貧乏な王子様に興味はありませんもの」
食堂中が静まり返った。
レナードの顔色が変わる。
「待て」
「嫌ですわ」
「シャロン!」
「最初からお金が好きだっただけですもの」
にっこり笑う。
そして。
「お幸せに」
かつてレナードがアニエスへ言った言葉に似た笑顔だった。
毛皮を翻し。
そのまま出ていく。
二度と振り返らなかった。
食堂の扉が閉まる。
静寂。
レナードは立ち尽くしていた。
老宰相が小さく呟く。
「見事ですな」
「何がだ」
「因果応報というやつです」
レナードは何も言えなかった。
三日後。
王都中に噂が広がる。
王室破綻。
鉱山投資失敗。
借金地獄。
婚約者逃亡。
子供達まで歌にしていた。
レナードは街を歩けなくなった。
そして。
運命の日が来る。
王城の会議室。
財務大臣が最後の報告書を持ってきた。
「殿下」
「まだ悪い知らせがあるのか」
「あります」
即答だった。
レナードは頭を抱える。
「もう勘弁してくれ」
「無理です」
「言え」
財務大臣は深呼吸した。
「アニエス商会の件です」
その名前に反応する。
今や悪夢の名前だった。
「またか」
「正体が判明しました」
「誰だ」
「世界経済を動かしている大富豪」
「だから誰だ」
財務大臣は静かに答えた。
「アニエス様です」
時間が止まった。
誰も動かない。
暖炉の薪がぱちりと音を立てた。
レナードは聞き返す。
「誰だ?」
「アニエス様です」
「アニエス?」
「はい」
「ルヴェール家の?」
「はい」
「婚約破棄した?」
「はい」
「追放した?」
「はい」
「畑を耕しているはずの?」
「はい」
「アニエス?」
「はい」
沈黙。
そして。
「は?」
間抜けな声が出た。
財務大臣は書類を差し出す。
そこには数字が並んでいた。
給湯事業。
暖房事業。
物流。
道路整備。
魔鉱石。
商会。
銀行。
投資。
利益。
利益。
利益。
利益。
見たこともない額だった。
国家予算を超えている。
王家資産を超えている。
周辺諸国の財政規模すら超えている。
レナードの手が震えた。
「嘘だ」
「事実です」
「嘘だ」
「事実です」
「そんなはずがない!」
叫び声が響く。
だが誰も否定しない。
老宰相が静かに言った。
「殿下」
「なんだ」
「あなたは金の卵を産む鶏を捨てたのです」
胸に突き刺さる言葉だった。
その頃。
当のアニエスは。
自宅の台所で鍋をかき混ぜていた。
夕飯はクリームシチュー。
牛乳。
じゃがいも。
玉ねぎ。
人参。
鶏肉。
冬野菜がたっぷり入っている。
窓の外では雪が降っていた。
工房の職人達も呼んでいる。
今日はみんなで食べる予定だ。
「良い匂い」
アニエスは微笑む。
湯気が立つ。
パンも焼き上がった。
幸せだった。
世界一の大富豪になったことも。
世界経済の中心にいることも。
本人はあまり分かっていない。
だが王都では。
レナードが初めて知ってしまった。
自分が捨てた女性こそが。
今や世界で最も豊かな人物になっていることを。
そして。
自分の人生最大の失敗が。
婚約破棄そのものだったことを。




