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第10話 愛さなくて結構、私には裏山がありますから

第10話 愛さなくて結構、私には裏山がありますから


初夏だった。


柔らかな朝日が山々を照らし、若葉を揺らす風が村を吹き抜けていく。


鳥たちのさえずり。


遠くを流れる川のせせらぎ。


焼きたてのパンの香り。


アニエスの村は今日も平和だった。


そして大繁栄していた。


かつて貧しい寒村だった場所は、今や世界中の商人や技術者が集まる町へと変わっている。


石畳の大通り。


巨大な市場。


工房群。


学校。


病院。


図書館。


魔導研究所。


人々の笑顔。


どこを見ても活気に満ちていた。


その頃。


北方の鉱山地帯では。


一人の男がつるはしを振り下ろしていた。


がんっ。


乾いた音が響く。


岩が砕ける。


汗が流れる。


腕が震える。


腰が痛い。


「くそ……」


レナードだった。


以前の王太子の面影はほとんどない。


日焼けした肌。


荒れた手。


安物の作業服。


泥だらけの長靴。


肩で息をしている。


借金返済のための強制労働だった。


もちろん王族ではなくなっている。


王家の財政破綻により、王室そのものが大幅な縮小を余儀なくされたのだ。


そして。


皮肉なことに。


この鉱山の所有者はアニエス商会だった。


「休憩だ!」


監督の声が響く。


労働者たちが腰を下ろす。


昼食の時間だった。


黒パン。


豆のスープ。


塩漬け肉。


質素だが温かい。


レナードも木箱に腰掛ける。


疲労で手が震えていた。


隣の老人が話しかけてくる。


「兄ちゃん、新入りか」


「ああ」


「慣れねぇだろ」


「……そうだな」


老人は笑った。


「最初はみんなそうさ」


スープから湯気が立つ。


豆の優しい香り。


レナードは静かに食べた。


昔なら絶対に口にしなかった食事だった。


だが。


不思議と美味しかった。


しばらくして老人が言う。


「この鉱山の持ち主はすげえ人なんだ」


レナードは顔を上げた。


「アニエス商会か」


「知ってるのか」


「まあな」


「道路も作ってくれたし、学校も病院も建ててくれた」


老人は笑う。


「昔は地獄みたいな土地だったんだ」


周囲の労働者達も頷く。


「今は暮らしやすい」


「給湯器もあるしな」


「冬も暖かい」


「子供達も学校に通える」


誰もが感謝していた。


レナードは黙った。


昔の自分なら理解できなかっただろう。


だが今なら分かる。


本当に価値があったのは。


王冠でも。


地位でも。


権力でもなかった。


人々の暮らしだったのだ。


その頃。


アニエスは裏山にいた。


薄い黄色のブラウス。


茶色の作業ズボン。


麦わら帽子。


軍手。


完全に農家である。


背中には小さなリュック。


中にはお弁当。


今日は一人で山を歩いていた。


「うーん」


地面を見つめる。


地脈を読む。


魔力の流れが心地よい。


まるで大地と会話しているようだった。


「ここかな」


しゃがみ込む。


地面へ手を置く。


ごごごごご。


土が揺れた。


次の瞬間。


地面の下から青白い光が漏れる。


「わあ!」


目を輝かせる。


また新しい鉱脈だった。


本人は大喜びである。


そこへギルバートがやって来た。


「また見つけたのか」


「見つけた!」


「お前なぁ……」


ギルバートは呆れる。


普通の人間なら一生に一度見つかれば奇跡だ。


アニエスは月に何度も掘り当てる。


もはや天災だった。


「掘ろう!」


「待て」


「なんで?」


「まず昼飯だ」


そう言って木陰に座る。


昼食は手作りだった。


卵サンド。


ハムサンド。


採れたてのトマト。


苺。


冷たい果実水。


風が吹き抜ける。


草の匂い。


土の香り。


遠くでは子供達の笑い声も聞こえた。


「おいしい」


アニエスは幸せそうに微笑む。


ギルバートもサンドイッチを頬張る。


「なあ」


「なに?」


「後悔してないか」


「何を?」


「婚約破棄」


アニエスはしばらく考えた。


本当に考えた。


そして。


「してない」


即答だった。


「そうか」


「だって」


アニエスは青空を見上げる。


白い雲がゆっくり流れていた。


「今すごく楽しいもの」


その声は穏やかだった。


心からの言葉だった。


「好きな仕事ができて」


「うん」


「好きな場所にいて」


「うん」


「みんな元気で」


「うん」


「毎日おいしいご飯が食べられる」


ギルバートが笑う。


「単純だな」


「そう?」


「そうだ」


アニエスも笑った。


風が吹く。


若葉が揺れる。


木漏れ日が踊る。


その時だった。


山の向こうから子供達の声が聞こえた。


「アニエス様ー!」


「新しい橋できたよー!」


「見に来てー!」


元気な声だった。


アニエスは立ち上がる。


「行こう!」


「鉱脈は?」


「後で掘る!」


宝の山より橋だった。


ギルバートは肩をすくめる。


二人は坂道を駆け下りた。


笑いながら。


楽しそうに。


その背中を初夏の陽射しが照らしていた。


遠い北方鉱山では。


レナードが再びつるはしを振るっている。


かつて失ったものの大きさを思いながら。


そして。


アニエスは今日も変わらない。


復讐もしていない。


恨んでもいない。


ただ自分の好きな人生を生きている。


広大な自然。


大切な仲間達。


莫大な富。


そして尽きることのない裏山。


彼女は満面の笑みで叫んだ。


「次は何が出るかなー!」


青空へ声が響く。


その姿は誰よりも自由だった。


誰よりも幸せだった。


だからもう。


愛される必要なんてなかった。


愛さなくて結構。


私には裏山がありますから。


【完】




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