第5話 天才の無自覚な一撃
第5話 天才の無自覚な一撃
夏が近づいていた。
アニエスの村では朝から蝉が鳴き始め、青々とした山々の上を白い雲がゆっくり流れている。
裏山の畑ではじゃがいもの花が咲き、大根も順調に育っていた。
その日、アニエスは縁側に座りながら帳簿を眺めていた。
薄い水色の木綿のワンピース。
髪は後ろでひとつに束ねている。
足元には麦茶。
皿には焼きたての蜂蜜クッキー。
相変わらず公爵令嬢には見えない。
「多いなあ……」
帳簿を見ながら呟く。
目の前には金貨の山。
銀貨の山。
宝石。
手形。
預金証書。
ギルバートが持ってきた売上報告だった。
「多いね」
「多いじゃねぇ!」
向かい側のギルバートが叫ぶ。
「お前、本当に分かってるのか!」
「少し?」
「分かってねぇな!」
即答だった。
実際その通りだった。
アニエスはお金に執着がない。
食べ物があって。
畑があって。
村のみんなが元気なら十分だった。
だがギルバートは違う。
数字の意味を知っている。
「お前の資産、下手な伯爵家より多いぞ」
「へえ」
「驚け!」
「すごい?」
「すごい!」
怒鳴られた。
理不尽だった。
アニエスは麦茶を飲みながら考える。
何に使おう。
豪邸はいらない。
宝石も興味がない。
高級ドレスも着ない。
欲しい物がない。
その時。
家の前から話し声が聞こえた。
「いやあ、今年も薪代が高いなあ」
「冬が心配だ」
「風呂も毎日は無理か」
村人たちだった。
アニエスは顔を上げる。
そうだった。
この辺りの冬は厳しい。
雪が降る。
山風も強い。
暖房や湯沸かしの薪代は家計を圧迫する。
子供の頃もよく聞いた話だった。
「ギルバート」
「なんだ」
「お金って使った方がいいよね」
嫌な予感がしたらしい。
ギルバートが顔をしかめた。
「何をする気だ」
「みんなが冬を快適に過ごせるようにしたい」
「ほう」
「お風呂も毎日入れて」
「ほう」
「お湯も自由に使えて」
「ほう」
「暖かい家がいい」
ギルバートが天を仰いだ。
嫌な予感が当たったらしい。
翌日。
アニエスは裏山へ向かった。
魔鉱石鉱脈の前に立つ。
青白い光が地下で脈打っている。
「使えないかな」
ぽつりと呟く。
そして地脈操作を発動した。
地下を流れる魔力。
鉱石の性質。
熱変換。
循環。
魔力の流れが頭の中へ広がる。
普通の魔術師なら研究所で何十年もかかる内容だった。
だがアニエスにとっては呼吸と同じだった。
「なるほど」
一時間後。
「できた」
ギルバートは頭を抱えた。
「何ができたんだ」
「給湯器」
「なんだそれ」
「お湯が出る」
「それは分かる」
「ずっと出る」
「は?」
「安く」
「は?」
「いっぱい」
「は?」
説明になっていなかった。
数日後。
村長の家へ第一号が設置された。
小さな魔鉱石。
魔力循環管。
蓄熱装置。
アニエスにしか作れない謎の仕組み。
村長は半信半疑だった。
「本当に大丈夫か?」
「たぶん」
「たぶん?」
「爆発はしないと思う」
「思う?」
不安しかない。
だが。
蛇口をひねった瞬間。
ざああああ。
湯気が立った。
「熱っ!」
村長が飛び上がる。
「お湯だ!」
「お湯だね」
「お湯だ!」
奥さんも駆けてくる。
孫たちも駆けてくる。
家中が大騒ぎになった。
その日の夜。
村長一家は感動していた。
「温かい……」
浴槽の中で祖母が涙ぐむ。
外は冷えている。
だが湯はたっぷりだ。
薪をくべなくていい。
何時間も待たなくていい。
子供たちも歓声を上げる。
「すごい!」
「気持ちいい!」
翌日。
噂が広がった。
一週間後。
村中の家に設置された。
一か月後。
隣村から注文が来た。
二か月後。
隣領から注文が来た。
三か月後。
近隣の貴族が視察に来た。
そして。
半年後。
国境を越えた。
「なんだこれは!」
「湯が無限に出るぞ!」
「薪代が十分の一だ!」
「冬でも暖かい!」
注文が殺到する。
工房が建つ。
職人が増える。
村に人が集まる。
道路が整備される。
橋が造られる。
学校が建つ。
診療所もできる。
アニエスは忙しくなった。
だが本人は経営しているつもりがなかった。
「領収書どこ?」
「アニエス様!」
「部品足りない」
「アニエス様!」
「牛が逃げた」
「アニエス様!」
毎日そんな感じである。
その日の昼。
工房で働く職人たちと一緒に昼食を食べていた。
野菜たっぷりのシチュー。
焼きたてのパン。
燻製肉。
採れたてのトマト。
みんな汗だくだ。
だが笑顔だった。
「景気いいな!」
「家が建ったぞ!」
「娘が学校へ通える!」
賑やかな声が響く。
アニエスは嬉しくなった。
これでいい。
みんなが幸せなら。
それでいい。
その頃。
王都では。
財務大臣が震えていた。
「殿下」
「なんだ」
「新しい報告です」
「またか」
「地方の小商会が急成長しています」
「商会?」
「はい」
報告書が机に置かれる。
レナードは目を通した。
そして固まった。
利益。
売上。
資産。
どれも異常だった。
「なんだこれは」
「地方の給湯事業です」
「給湯?」
「冬の燃料費を激減させたそうです」
「誰がやっている」
財務大臣は答えた。
「アニエス商会です」
静寂。
レナードの額に青筋が浮かぶ。
窓の外では夕日が王都を赤く染めていた。
そして遠く離れた山村では。
アニエスが新しい畑を耕していた。
「今年はかぼちゃも植えようかな」
世界経済を揺るがす発明をした本人は。
相変わらず野菜のことしか考えていなかった。




