第19話 お金より信用を流通させます
第19話 お金より信用を流通させます
春だった。
裏山自治領の果樹並木では白い花が咲き始めていた。
ジューンベリーの可憐な花。
オリーブの若葉。
イチジクの新芽。
朝露を受けた葉がきらきらと輝いている。
市場は相変わらず賑やかだった。
焼きたてのパンの香り。
燻製肉の匂い。
採れたての野菜。
商人達の声。
旅人達の笑い声。
町は豊かだった。
だが。
その豊かさが新しい問題を呼び始めていた。
「騙された?」
アニエスは首を傾げた。
目の前には果物屋の青年が立っている。
顔色が悪い。
「はい」
「何を?」
「この契約書です」
商会本館の相談窓口だった。
最近作られたばかりである。
青年が差し出した紙を受け取る。
アニエスは読めない。
いや。
読めるが法律は分からない。
すぐ隣の法務担当へ渡した。
担当者は顔をしかめた。
「ひどいですね」
「そうなの?」
「借金が十倍になる契約です」
アニエスが固まる。
青年は青ざめた。
「そんな……」
さらにその日の午後。
今度は年配の農家が来た。
「種を買ったんだ」
「うん」
「芽が出ない」
調べる。
偽物だった。
翌日。
今度は旅商人同士の揉め事。
さらに翌日。
偽の領地証明書。
偽の身分証。
偽の印章。
問題が次々と出てくる。
その夜。
商会本館。
夕食の席。
大皿には鶏肉のクリーム煮が並んでいた。
焼きたての丸パン。
野菜のスープ。
ブルーベリージャム。
苺のタルト。
温かな食卓だった。
だが。
アニエスは考え込んでいる。
「どうした」
ギルバートが聞く。
「みんな真面目に働いてるのに」
「うん」
「騙される」
「そうだな」
「嫌だ」
珍しく即答だった。
周囲の幹部達も頷く。
豊かになると金が動く。
金が動けば悪い人間も動く。
「どうする?」
ギルバートが聞く。
アニエスはしばらく考えた。
そして。
「信用を作る」
全員が固まった。
「は?」
「信用?」
「うん」
翌日。
裏山自治領中が騒然となった。
アニエスが銀行を作ると言い出したのである。
「銀行?」
「なんだそれ」
市場でも話題になった。
工房でも。
学校でも。
酒場でも。
誰も分からない。
実はアニエス本人も半分くらいしか分かっていなかった。
「ギルバート」
「なんだ」
「銀行って何?」
「お前が言い出したんだろうが!」
その後。
専門家達が呼ばれた。
商人。
会計士。
法務担当。
元役人。
みんな頭を抱えながら制度を作る。
そして。
数か月後。
裏山信用組合が誕生した。
建物は立派だった。
白い壁。
大きな窓。
丈夫な金庫。
花壇にはラベンダーが咲いている。
開業初日。
大勢の人が集まった。
「何する場所なんだ?」
農家が聞く。
「お金を預ける」
職員が答える。
「盗まれない?」
「盗まれません」
「本当か?」
「本当です」
誰も信じなかった。
当然だった。
だが。
一か月後。
状況が変わる。
市場の商人達が利用し始めた。
旅商人も利用する。
農家も利用する。
「便利だな」
「便利ですね」
現金を大量に持ち歩かなくていい。
盗まれる心配も減る。
さらに。
信用証書という仕組みも始まった。
商会が認めた相手には証書を発行する。
真面目に商売した記録。
契約違反がない記録。
支払い遅延がない記録。
そういうものを積み重ねる。
すると。
取引がしやすくなる。
ある日。
若い鍛冶職人が銀行へ来た。
工房を持ちたい。
だが資金がない。
昔なら終わりだった。
しかし今は違う。
職員が帳簿を見る。
仕事の実績。
評判。
学校の成績。
全て記録されている。
「貸せます」
青年は目を丸くした。
「本当に?」
「信用がありますから」
その言葉に涙ぐんだ。
翌年。
工房は成功した。
さらに。
詐欺も減った。
偽契約書も減った。
怪しい商人はすぐに信用を失う。
まともな商人は信用を積み上げる。
市場そのものが変わり始めた。
ある日の午後。
アニエスは市場を歩いていた。
淡い緑色のワンピース。
麦わら帽子。
片手には焼きリンゴ。
甘い香りが漂う。
そこへ例の果物屋の青年が走ってきた。
「アニエス様!」
「どうしたの?」
青年は笑顔だった。
「店を大きくできました!」
「本当?」
「信用証書のおかげです!」
目を輝かせている。
以前は騙されて泣きそうだった青年だ。
今は違う。
堂々としている。
「良かった」
アニエスも嬉しくなった。
夕暮れ。
市場の灯りが一つずつ灯る。
果樹並木を風が吹き抜ける。
商人達は店を閉める。
子供達は家へ帰る。
学校帰りの生徒達も楽しそうだ。
アニエスは高台から町を眺めた。
豊かな町だった。
だが。
以前とは少し違う。
人々の顔に安心がある。
「なんでだろう」
アニエスが呟く。
ギルバートが笑った。
「信用だろ」
「信用?」
「お前が流通させた」
アニエスは不思議そうに首を傾げる。
だが。
一つだけ分かった。
お金だけでは町は豊かにならない。
人を信じられること。
真面目な人が報われること。
それもまた豊かさなのだ。
春の風が吹く。
果樹の花びらが舞う。
裏山自治領は今日も少しずつ成長していた。
そして遠い王都では。
その成功を面白く思わない者達が動き始めていたのである。




