第17話 働く人が損をしない町
第17話 働く人が損をしない町
春の終わりだった。
裏山自治領の朝は早い。
果樹並木ではオリーブの若葉が揺れ、ブルーベリーの白い花には蜂たちが集まっている。
市場では焼きたてのパンの香りが漂い、石畳の道には職人や商人たちが忙しそうに行き交っていた。
町は豊かだった。
賑やかだった。
そして。
少しずつ大きくなりすぎていた。
その朝。
アニエスは工房街を歩いていた。
薄い青色のブラウスにベージュのロングスカート。
麦わら帽子。
肩から布の鞄を下げている。
いつもの格好だった。
「おはようございます!」
若い職人達が挨拶する。
「おはよう」
アニエスも笑顔で返す。
だが。
ふと気になる光景があった。
木工工房の前。
若い女性が荷物を抱えて座り込んでいる。
顔色が悪い。
「大丈夫?」
アニエスが駆け寄る。
女性は慌てて立ち上がった。
「す、すみません」
「怪我?」
「少しだけです」
手を見る。
包帯が巻かれていた。
血も滲んでいる。
「診療所行った?」
「まだです」
「なんで?」
女性は困ったように笑った。
「休むとお給金が減るので」
アニエスの笑顔が消えた。
その日の昼。
さらに別の話を聞いた。
鍛冶工房の若者。
三日連続の残業。
荷運びの男。
休憩なし。
市場の未亡人。
働きたくても雇ってもらえない。
夕方。
診療所へ行くと院長が言った。
「働き過ぎの人が増えています」
「え?」
「怪我も疲労も」
アニエスは黙り込んだ。
夜。
商会本館。
夕食の時間だった。
鶏肉のトマト煮。
焼きたてのパン。
豆のスープ。
レタスとチーズのサラダ。
食欲を誘う香りが部屋を満たしている。
だがアニエスは珍しく難しい顔をしていた。
「どうした」
ギルバートが聞く。
「なんか変」
「何がだ」
「町が豊かになったのに」
「うん」
「疲れてる人がいる」
静かになった。
幹部達も顔を見合わせる。
確かにそうだった。
人が増えた。
仕事も増えた。
お金も動く。
だがその分、無理をする人も出てきた。
「よし」
アニエスが立ち上がる。
嫌な予感しかしなかった。
ギルバートは額を押さえる。
「今度は何だ」
「働く人を守る」
翌週。
商会本館の会議室は大混乱になった。
「休憩を増やします」
アニエスが宣言する。
商人達が固まった。
「休憩を?」
「うん」
「利益が減りますが」
「倒れたらもっと減るよ」
誰も反論できなかった。
「最低賃金も決めます」
さらに騒ぐ。
「怪我した人には補償」
「補償?」
「働けない間も生活できるように」
会議室が静まり返る。
今の時代では珍しい考えだった。
アニエスは続ける。
「孤児も雇う」
「え?」
「未亡人も」
「え?」
「おじいちゃんおばあちゃんも」
「え?」
「できる仕事を作ろう」
誰も言葉が出なかった。
数日後。
新しい制度が始まった。
まず工房。
昼になると鐘が鳴る。
休憩時間だった。
職人達は驚く。
「本当に休んでいいのか?」
「いいよ」
アニエスが笑う。
木陰にはベンチ。
冷たい水。
果物。
パン。
みんな最初は戸惑った。
だが。
一週間後には慣れた。
むしろ仕事の効率が上がった。
「疲れが違う」
職人達が笑う。
市場では別の変化があった。
夫を亡くした未亡人達が働き始めたのだ。
果物ジャム工房。
パン工房。
学校の給食室。
裁縫工房。
みんな活き活きしている。
「久しぶりに自分で稼いだわ」
年配の女性が涙ぐむ。
その横では孤児達も働いていた。
もちろん学校へ通いながら。
荷物整理。
果樹園の手伝い。
図書館の整理。
無理のない仕事ばかりだ。
そして。
ある日。
工房で事故が起きた。
若い職人が足を怪我した。
以前なら失職だった。
だが今回は違う。
治療費が出る。
生活費も出る。
職場も残る。
職人は泣いた。
「本当にいいんですか」
「当たり前だよ」
アニエスは不思議そうだった。
「だって仲間でしょ」
その言葉が広まった。
噂は他領にも届く。
「裏山自治領は怪我しても見捨てられない」
「未亡人でも働ける」
「孤児も学校へ行ける」
「働く人を大事にするらしい」
人が集まり始めた。
職人。
農民。
商人。
教師。
医師。
みんな安心して暮らせる場所を求めていた。
夏のある日。
アニエスは市場を歩いていた。
果樹並木の木陰。
パンの香り。
子供達の笑い声。
遠くからは工房の金槌の音が聞こえる。
活気があった。
すると。
以前手を怪我していた女性が声を掛けてきた。
「アニエス様」
手はもう治っていた。
笑顔だった。
「元気になったね」
「はい」
女性は深く頭を下げる。
「助かりました」
「ううん」
「ここに来て良かったです」
その言葉にアニエスは少し照れた。
空を見上げる。
青空だった。
風が吹く。
オリーブの葉が揺れる。
果樹の香りが漂う。
「お金も大事だけど」
アニエスは呟いた。
「人の方が大事だよね」
隣にいたギルバートが笑う。
「だからお前は儲かるんだろうな」
アニエスは意味が分からず首を傾げた。
だが。
町の人々は知っていた。
この領地が豊かなのは。
魔鉱石だけではない。
道路だけでもない。
学校だけでもない。
人を大切にする。
その当たり前があるからなのだと。
夕暮れの市場には今日も笑顔が溢れていた。




