第16話 病気になる前に守りたい
第16話 病気になる前に守りたい
秋が深まっていた。
裏山自治領の果樹並木では柿が鮮やかな橙色に実り、イチジクは甘く熟し、オリーブの葉は朝日に銀色に輝いている。
市場には収穫の季節らしい活気が満ちていた。
焼き栗の香り。
焼きたてのパンの匂い。
リンゴを煮詰めた甘い香り。
人々の笑い声が広場に広がる。
その朝。
アニエスは診療所へ向かっていた。
淡いクリーム色のブラウスに茶色のスカート。
肩には小さな革鞄。
手にはリンゴの入った籠を持っている。
診療所への差し入れだった。
「おはようございます」
扉を開ける。
すると院長が難しい顔をしていた。
「アニエス様」
「どうしたの?」
診療所の待合室には人が座っている。
以前より少ない。
水道と給湯設備のおかげで病人はかなり減った。
だが。
奥から赤ん坊の泣き声が聞こえた。
「生まれたの?」
「ええ」
院長は頷く。
「母子ともに無事です」
アニエスは嬉しくなった。
だが。
院長は続ける。
「ただ」
「ただ?」
「出産のたびに診療所が満員になります」
アニエスは周囲を見回した。
確かに狭い。
人が増えた。
赤ん坊も増えた。
高齢者も増えた。
昔の診療所では足りなくなっている。
その時。
廊下をゆっくり歩く老婦人の姿が見えた。
杖をついている。
「足が痛いの?」
アニエスが聞く。
老婦人は笑った。
「歳ですからねぇ」
優しい笑顔だった。
だが。
少し息苦しそうだった。
その日の昼。
アニエスは診療所の裏庭を歩いていた。
秋の風が吹く。
薬草が植えられた小さな畑がある。
ミント。
カモミール。
ラベンダー。
だが狭い。
あまりにも狭い。
「足りない」
ぽつりと呟く。
隣にいた院長が頷く。
「足りません」
「薬も?」
「薬もです」
「場所も?」
「場所もです」
「人も?」
「人もです」
深刻だった。
その夜。
商会本館。
夕食の席には大皿料理が並んでいた。
鶏肉と野菜の煮込み。
焼きたてのパン。
かぼちゃのポタージュ。
ブルーベリーのタルト。
温かな香りが部屋を満たしている。
ギルバートは四個目のパンを食べていた。
「診療所を大きくする」
アニエスが言った。
全員が顔を上げる。
「来たな」
ギルバートが言う。
「何が?」
「また始まる」
「始まるよ」
即答だった。
翌朝。
工事が始まった。
診療所の隣に新しい建物が建つ。
広い病棟。
明るい窓。
清潔な水場。
そして。
助産院。
赤ん坊と母親専用の施設だった。
完成した建物は温かな雰囲気だった。
白い壁。
木の床。
花の飾られた窓辺。
まるで家のようだった。
開院の日。
最初にやって来たのは若い妊婦だった。
少し不安そうな顔をしている。
アニエスは手を握った。
「大丈夫」
「はい」
女性は泣きそうな顔で頷く。
数週間後。
元気な産声が響いた。
おぎゃあ。
おぎゃあ。
助産師達が笑顔になる。
母親も泣いている。
父親はもっと泣いていた。
「ありがとう……」
何度も頭を下げる。
アニエスは照れくさそうに笑った。
「元気で良かった」
その頃。
診療所の裏では別の工事も進んでいた。
巨大な薬草園である。
秋の陽射しを浴びながら。
薬師達が苗を植えている。
薬草の香りが風に乗る。
ミント。
セージ。
ローズマリー。
カモミール。
色とりどりの花が咲く。
まるで庭園だった。
子供達も見学に来る。
「これ何?」
「咳に効く薬草だよ」
「こっちは?」
「熱を下げる」
目を輝かせる。
学ぶことも増えていく。
冬が来た。
雪が降る。
だが町は暖かかった。
給湯システム。
暖房設備。
断熱住宅。
どれも整っている。
そして食べ物も豊富だった。
その夜。
共同食堂には大勢の人が集まっていた。
豚肉と豆のシチュー。
焼きたてのパン。
温野菜。
リンゴのコンポート。
湯気が立つ。
幸せそうな匂いだった。
「美味しい!」
子供達が笑う。
老人達も笑う。
昔なら冬を越せなかった人もいる。
だが今は違う。
翌年の春。
診療所の報告会が開かれた。
院長が帳簿を見ながら話す。
「昨年より病人が四割減りました」
歓声が上がる。
「肺炎も減っています」
拍手。
「乳児死亡率も大幅に改善しました」
さらに拍手。
アニエスは目を丸くした。
「そんなに?」
院長は微笑む。
「病気になってから治すだけではありません」
窓の外を見る。
元気に遊ぶ子供達。
散歩する老人達。
花壇の手入れをする主婦達。
「病気になる前に守ることが大切なんです」
アニエスは静かに頷いた。
夕方。
診療所の丘から町を眺める。
煙突から立ち上る夕餉の煙。
市場の笑い声。
学校帰りの子供達。
果樹並木を歩く老人達。
みんな元気そうだった。
「なんか」
アニエスが呟く。
「みんな幸せそう」
隣にいたギルバートが笑う。
「実際幸せなんだろ」
春の風が吹く。
花の香りが漂う。
遠くから赤ん坊の笑い声も聞こえた。
アニエスは微笑む。
病気を治すことも大事。
でも。
病気になる前に守ることはもっと大事。
そのことを彼女は少しずつ学び始めていた。
そして裏山自治領は今日もまた。
誰かの命を優しく守りながら成長していくのであった。




