六
松明が焚き木の中にそっと置かれた。薪に燃え移ると、瞬く間に火勢が強まった。
初めは、宮司さんが祝詞を奏上していたが、いつの間にか静かになっていた。
俺は火の燃え盛る様子を見続けていた。
大学生にもなって、ただの燃焼に心を奪われるなんて──。
今はもう科学の時代。科学至上主義というべき思考法が市民権を得ている一方で、宗教的行事が人々の間に浸透し続けている理由がこれなのかもしれない。数百年の間受け継がれてきた神事は景観、歌舞音曲共に洗練され、五感を通じて人間の感情を揺さぶってくる。論理では測れない本能的な感受性に作用して、厳粛な雰囲気の奥に仄見える神の存在を認めてしまいたくなるのだ。
焦点を火に合わせる。日本人形は炎に包まれて既に形を失っていた。
さようなら……。
俺は日本人形との縁を切った。
まずは就職活動をしよう。未来から逃避するために、一時の快楽で金や時間を浪費する生活は今日をもって終わりだ。明日を想像して憂鬱な感情を抱くのは、もう懲り懲りなんだ。
ピアノを夢中で弾いていたあの頃に。打算や思惑に囚われず、ただひたむきに生を謳歌していた純朴な己に戻ってみたらどうだ?
熱気で顔が火照っている。
俺は軟弱な男だ。でも、完璧な人間なんていない。欠陥があるくらいで丁度いいんだ。
それを受け入れて、その上で挑戦を「習慣」にしなければ、誰が俺に価値を見出してくれるというのだ。
ありがとう、神様。俺をここに導いてくれて。
鳥敷の景観とは異なるけれど、自然に囲まれたこの地は俺の原風景を喚起してくれた。至誠を忘れた俺を戒めてくれた。
ガラリ──木組みが崩れ落ちた。
ひたすらに黙然としていた。浮かされたようにアニミズム的思考に没頭していた。
「人見さん、体調は大丈夫ですか? よろしければタオルか何かお持ちしましょうか?」
宮司さんが心配そうな顔をして俺を覗き込んでいた。
「え……あ、すみません、大丈夫です」
何のことだろうとよく分からず返事をした後に、涙が頬を伝っていることに気がついた。思わずゴシゴシと顔を擦る。
はは、すっかり感化されてしまったみたいだ。
「本日の行事はつつがなく終了いたしました。人見さんの御人形も無事に焼納されました。長時間、お疲れ様でした」
「はい、ありがとうございました。あの、ここでお渡しするのも、申し訳ないのですが……こういう作法に詳しくなくて」
午前中に買った熨斗袋に初穂料を包んで渡した。
「ありがとうございます。頂戴いたします」
「……本当にありがとうございました。来て良かったです。なんだか心が軽くなりました」
「いえいえ、お気をつけてお帰りくださいね」
「はい、失礼します」
振り返ると空は薄暮を通り過ぎ、夜が訪れていた。ほんの僅か、山際に毒々しい紫を残すばかり。
しまった。これほど暗くなるとは、思ってもいなかった。
街灯が整備されているとはいえ、間隔が広すぎてとてもじゃないが足元はおぼつかない。それでも、この暗さが懐かしくもあった。久々に自然の中を歩いていた。ザザザと稲穂を倒しながら風が吹き抜ける。
これでもかと言わんばかりに、げぇげぇ大合唱する蛙たち。これまでうるさいとしか思わなかったのだが……ああ、これも夏の風物詩なのだ。不思議と今日は不快ではなかった。
げぇげぇげぇどたりげぇげぇげぇばちゃんげぇげぇ
気持ちが良い。この雄大な自然に身を任せてみれば、俺の悩みなど些末じゃないか。なんてちっぽけな尺度で生きていたのだろう。
げぇげぇどたりずりげぇげぇずりげぇげぇばちゃんげぇげぇばちゃん
──なんだよ、この音は!
後頭部を殴られたような衝撃。気がつけばガバッと振り返っていた。
一面に広がる田圃。周りには何もないはずだ。ここは昼間に通ってきた道。家々は遠くに並び立つのみで、辺りに人の気配はない。
だのに、蛙の声に混じって重たい何かが地面に落ちるような……何かを引きずるような……そんな音が挿入されるのだ。
それは神社へと続く道の方からだった。神社は既に遠く、闇の中へ消えている。
げぇげぇばちゃりげぇげぇげぇばちゃんげぇげぇ
やはり、聞き間違いではない。水を張った田に、何かが──落ちている?
虫や蛙の跳ねた音とも違う。もっと大きな……少なくとも大型犬ほどの動物が、暗闇の向こうで動いた音。
右方と左後方……いや、こうしている間に、左前方も──。
蛙の大合唱は「げぇげぇ」と一定のリズムで奏でられているのだが、それを乱す「ばちゃり」だとか、「ずり、ずり」だとか、奇妙な音が鳴っているのだ。
考えまいとするも、蛙の鳴き声がバックグラウンドミュージックへと変わってしまい、不定期に挿入される異音ばかり聞き取ってしまうのだ。
ばちゃり ばちゃり ずり ずり どたり
ああもう──なんで、なんで。
忘れていた不安の再来。鎌首をもたげると、あとはもう膨らむばかり。
そのうち、「げぇげぇ」という蛙の声すらも信じられなくなって、頭蓋内で反響するといっそう増幅し──もはやパラノイアめいた幻聴で責め立てるのだ。
耐えられなかった。耳に手を当てて無様に走り出していた。
十分ほど走った。息が切れ、仕方なく歩き始めるもいつの間にか早歩きに、そしてついに耐えきれなくなって再び走り出している……そんな風であった。
既に田畑より住宅の比率が高い。人の数も増え、あそこに見える居酒屋の店頭では大学生らしき男たちが莫迦みたいに騒いでいる。
すべて終わったはずなのだ。あれだけ丁寧に宮司さんは対応してくださった。正しいという納得感もあった。あの日本人形の視線に悩まされることはもうない──もうないんだ。
蛙の声は消えていた。蛙たちは、あの田圃に置いてきた。
ならば、なぜ視線が増えている?
走っても、走っても、暗闇の奥に誰かがいる。こちらを見上げる視線が消えない。
何かがいる──憑いている。
無二無三に駅へ……駅から……俺はどこへ?
なんで、俺なんだ。俺はアリスじゃない。日常に退屈していたのは確かだ。毎日を無為にしていたのは確かだ。ただ、決して非日常を望んでいたわけじゃない。こんなのは嫌だ。こんな理不尽はおかしいじゃないか。
白石の方がよほど危険を冒す性格なんだよ。なんでアイツには何もないのに、俺だけがこんな目に遭っているんだ。
だって俺は、流されるまま八十点くらいの人生を目指していた。それなのになぜ、なぜ──。
供養した。あの人形を正しい形で送り出した。まさか、意味がなかったのか。あの聖なる地での儀式が嘘っぱちの出鱈目だっていうのか。
ありがとう どたり ずる、ずり ありがとう
この声はアパートで……。
ああ、手遅れだったのか。いつもそうだ、俺はいつも……。
「ちくしょう」
思考が後悔で埋め尽くされつつも、ふと、父の七回忌を思い出していた。
あれは、そう、物心がついたばかりだったか。鳥敷寺の墓地だった。あのときも、退屈な読経を聞き流しながら、こんな幻聴に囚われて──。
そうだ、その後、俺はどうしても我慢できなくなって、一人で御手洗に行ったんだ。そこで、誰かの泣き声に気を取られて……あの部屋で何かを見たんだ。
なんだったか……思い出せない。ただ、ずっとずっと、彼らは泣き続けていた。
昭子
昭子って、誰だ?
まさか、俺は何もかもを間違えていた? 鳥敷で生まれたこと──それこそが、そもそもの間違いで……俺は生まれたときから、もう……。
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