五
電車に揺られていると、ビル群が立ち並ぶ街並みが長閑な風景へと変わっていた。
駅前のロータリーを横断し、住宅街を進んでいく。主要な道路から一方通行の路地に入り、そのうち家々も疎らになってきた頃、小さな森が現れた。
田園の中に浮かんでいるかのように存在するそれは、いわゆる鎮守の森であった。
遥かな空を背景に、大地に敷き詰められた青田が風に揺れている。深緑の木々の中央部には、燃えるように朱い明神鳥居。
一枚の絵になりそうだ。それほどまでに、たかが田舎の一神社が神秘的だった。このような景色の中を進んでいくとなれば、多少は心持ちも変わってくる。
いや、違う……。
普段ならば気にもしない平凡な景色なのだろう。ただ俺が、今ばかりは神に縋りたいだけなのだ。
強い向かい風を浴びながら近寄っていくと、そうはいっても大きくも小さくもない、どこにでもありそうな神社であった。砂煙が舞い上がって目に入り、数段の石段すら踏み違えて手間取ったのだが、どうにか鳥居の端を通り抜けた。
左手には手水舎と絵馬があり、奥の方には何やら細い棒と縄、そして焚き木が準備されていた。
右手の社務所の窓口で声を掛けると、中へ通された。宮司講話で使われていそうな会議室で待つ……といっても、一分ほどで宮司さんが顔を出した。
「こんにちは、人見さんでしょうか?」
眼鏡をかけた人物が微笑を浮かべている。真面目そうな方ではあるが、堅苦しさは微塵も感じられない。物腰柔らかな人格者といった雰囲気であった。
「はい、よろしくお願いします。あの、これが供養したい人形です」
おそるおそる宮司さんに人形をお渡しすると、彼は俺と人形を見比べ、何かを理解したかのように笑い始めた。
「これはこれは、はは、この日本人形は、さぞかし怒っていることでしょうねぇ」
「え! そういうことが分かるんですか。呪いとか本当にあるんですか!」
思いがけない発言に、食い気味に返事をしてしまった。
「呪い? いえいえ、そのようなことではございません。こんなに黴が生えてしまうほど放置されたら、人見さんだって怒るでしょう?」
「はい……」
「でも、あなたは人形を供養するために、ここまでいらっしゃった。今の時代、それだけでも十分です……酷い隈ですね、そのように思い詰める必要はございませんよ」
宮司さんは再び微笑む。たった一日徹夜をしただけだったのだが、他者に指摘されてしまうほど疲弊してしまったらしい。
「ありがとうございます……。でも、俺は他の人たちと違って、この人形に感謝の気持ちがあるわけじゃないんです。善意じゃなくて、ただ呪われたくなくて、それで……お願いをしに来ただけなんです」
妙な視線に皮膚を撫でられているみたいで、ずっと落ち着かなかった。
すると、宮司さんは一つ話をし始めた。
「人見さん、六曜って御存知ですか?」
「え、あ、はい。大安とか、友引とかですよね?」
突然の話題転換に戸惑いながらも頷く。
「ええ。本日は仏滅に当たります」
「ぶ、仏滅ってすごく悪い日ですよね。今日で大丈夫なんですか?」
「大丈夫ですよ。まず、前提として六曜はただの占いです。『友引の日に葬式を挙げると、亡くなった方と一緒にあの世へ連れて行かれてしまう』とよく云われますよね。でも、それは迷信だって、人見さんも思われるでしょう?」
「ええ、まぁ」
宮司さんはそう言いつつ、「ただ」と言葉を続けた。
「迷信、占い……けれど『なんとなく嫌』なんですよね。だから、ほんの小さなモヤッとした感情すら持たないために、『どうせ執り行うなら縁起のいい日に』と大安を選んで結婚式を挙げるのです」
そして、彼は優しく俺を諭した。
「人見さん。あなたは今、ひどく気にされている。目に見えない吉凶、大いなる運勢のようなものを。私は前提として、六曜はただの占いですと申し上げました。当然、九星気学や四柱推命も、またしかりです」
九星気学、四柱推命とは何だろうか。
視線を上げると、彼は俺と目を合わせて強く頷いた。
「されど、神職である私がいくら関係ないと申し上げても、その場で安心したとしても、『もしかしたら』という気持ちを完全に消すことはできません。人見さんの心に不安の芽は残ってしまうでしょう」
彼は表情を崩し、朗らかに笑った。
「だから、逆に考えましょう」
「逆……ですか?」
「人見さんはラッキーですよ。今日、滑り込みで人形供養を行えるのですから」
「え? 仏滅なのにラッキーなんですか?」
「ええ。仏滅は一日中、凶と云われていますので、お祝い事には向かないのです。しかし、昔は仏滅を『仏が滅する』ではなく、『物が滅する』と書いたのですよ。『今ある物事との悪縁を切り、新しい物事を始めるのに良い日』ともされているのです」
「悪縁を切って、新しく……」
「はい。どうですか? 今の人見さんには、ピッタリの日だと思いませんか? むしろ、今日しかないのではありませんか。たとえ善意でなくとも、この日本人形をお見送りして、ほんの小さな不安すら取り払って、人見さん自身が再出発する。それが大事だと、私は思いますよ」
「そう……ですね。はは、肩の荷が下りた気がします。ありがとうございます」
俺は宮司さんの言葉を素直に受け入れていた。俺の心に寄り添い、温かい言葉を掛けてくださってありがたい限りだった。
「では、そろそろ移動しましょうか。私は準備がございますので、一度失礼させていただきますね」
すると、お弟子さんであろう若い男の人が「こちらへ」と先導した。
「まず、人見さんのお手を清めましょう」
手水舎で柄杓を使って手に水をかけた。ベタついた手を冷たくて清涼な水で注ぐと、僅かに気分が晴れた。
ふと見ると、鳥居越しの田園が風に揺れて艶やかだった。都会から離れたのは高校卒業以来だ。風が吹くとジメジメとした暑さが和らいで、土草の香りが俺の身体を抱きしめてから去っていく。
畦道を駆け回っていたあの頃の日々が呼び起こされる。
ただただ心地良かった。
「……はい、終わりました」
「では、御案内いたします」
最初に見かけた焚き木のある場所に向かうのかと思ったが、拝殿の中へ通された。
本来、このような場所は立ち入りを許されないだろう。
有名なキャラクターのぬいぐるみ、ランドセル、手作りの人形など数十点が並べられていた。よく見ると呪術的な御札さえも数体ほど纏められていた。持参した日本人形もそれらに紛れるように置いてあった。
そして、今から供養される者たちは俺のいる畳敷きの床ではなく、一段上の板張りの床に配置されていた。俺の位置が外陣だとするならば、すぐそこはもう内陣なのだろう。
奥には神前幕が垂れ下がっており、御神体を隠している。拝殿に案内されたと思ったが、大きくない神社なので本殿と一体化している造りなのだろうか。
参加者は自分を除いて誰もいなかった。今日は元々、郵送や持ち込みなどで溜まった人形の供養をする日だったのかもしれない。
紅白を基調とした絢爛な装飾に反し、どこか静謐な空間だ。どうにも気圧され、落ち着きなく見回してしまう。
しばらくすると宮司さんが浄衣で登場した。
彼は祓串を持っていた。あの棒についている紙は、紙垂というものだったか。稲妻に似た独特の形をした紙束が棒に結わえられている。
テレビや漫画の中でしか見たことのない姿だった。しかし、そんな特別な場所に自分がいる。
そろそろ儀式が始まる──。
自然と背筋が伸びていた。
清浄な装いの宮司さんは、神妙な面持ちを崩さない。
「では、閉眼という魂を抜く儀式をさせていただきます」
「お願いします」
焚く前に、物に宿っている魂を抜く。言われてみればごくごく当たり前だ。
ダルマに目を書き入れる儀式は開眼と云われるわけで、その行為を見ても「宗教的だ」とは意識しない。それほどまでに一般に浸透している。開眼は物事における門出や完成といった祝い事と紐付けられるため、大衆も「とりあえずめでたい行為」だとデフォルメされた認識を持つことができるだろう。
一方で、閉眼は耳馴染みがない。魂を抜いてお返しする行為は宗教色が強い上、「終わり」の印象を受けるからだろう。
しかし、開眼をしたら閉眼をする。対を成す重要な儀式なのだ。宗教的作法など一般常識程度しかないが、今の一言で全体の流れが腑に落ちた。
その後は、場を清めるように祓串を振り上げたり、奉書紙に記された祝詞を読み上げたりして順調に進んでいった。宮司さんの声や足音だけが響く。俺は実家の仏間で滔々と唱えられていた御経を思い出していた。
もちろん、あの仏間の閉塞感、埃っぽさとはほど遠いのだが……この無風の空間には、ある種特有の気配が揺曳しているのだ。
今は視線を全く感じていない。神の土地だからなのだろうか。それとも俺は宥恕されたのだと……そう思っても良いのだろうか。
「では、お焚き上げに移りましょうか。人見さんも御自分の人形をお持ちになってはいかがですか?」
そう言われて断れるはずもなく、日本人形の頭と胴を掴んだ。
外に出ると夕日が空を真っ赤に照らしていた。
抱いていた恐怖は消えていた。正式な手順で供養がされているという実感がたしかにあるのだ。手を清めさせたのは、持ち込んだ人形を運ばせるため……と正しいかどうかはともかく、そう思ってみれば理屈も通っている。
日本人形を木組みにそっと寄り掛からせた。手持ち無沙汰になってしまったので、宮司さんとお弟子さんに手伝いを申し入れ、供養品をせっせと運んだ。
すべての供養品が運び込まれると、彼らはそれぞれが縄で繋がっている四本の棒を四方に立てた。人形を囲むようにして空間を区切ったのだ。
緑色の葉が棒に結び付けられている。なんという植物だっただろう。これを機に、もう少し日本文化に興味を持ってみるのもいいかもしれない。
「この注連縄によって囲われた空間は神域、つまり神様の世界です。人間が立ち入ってはならない特別な空間となりました」
「なるほど」
注連縄は御神木とされる樹木に巻かれているイメージだが、よく考えてみれば岩や神棚でも見かける。
それに、テレビか雑誌か忘れたが、出雲大社では目を見張るほどの注連縄が神楽殿に掛けられていた。それは神の領域であったり、神が宿っていたりする証だという。
「では……」
──いよいよだ。
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