四
「おいたしていいのは七つ……七歳を分水嶺にしているのは、やっぱり『七つまでは神の内』って話に関連しているのかな。昔は子供なんてよく死んだみたいだしさ」
「さあ、分からん」
「形焚き祭も何をしているのか気になるけど……」
「あ! そういえば……」
そこまで口にして、発言を止めたのだが遅かった。白石の興味を引いてしまう情報を提供するつもりはなかったのに、思い出した衝撃からつい口を滑らせてしまった。
「なんだよ?」
「ええと、こっちに引っ越すとき、人形を持たされたんだよ。『もうすぐ大人だから』って紋付袴の日本人形をさ」
「……全然見当たらないけど」
「どこに置いたかな。荷解きして……二年以上前のことだからさ」
両開きのクローゼットを開けた。服、リュック、カバンなど雑多な物が占領しており、どこに何があるか分からないほど乱雑に置かれていた。
クローゼットなんて、不要な物をとりあえず入れておくための場所なのだ。
人形は数十センチメートルあるから、ここに置いていたなら見覚えがあるはず。靴箱だろうか。
「うわっ!」
玄関の方へ向かおうとしたところ、白石が叫んだ。
「ん?」
「下! 見てみろ!」
ベッドの下を覗き込んでみると、埃の積もったアクリルケースが横倒しになっている。そして、その中で横臥している人形がいた。
もしかしたら一年以上掃除をしていないかもしれない。菓子の個包装やなくしたシャープペンシルが転がっているのだから、そのとおりなのだろう。
いやはや、苛酷な扱いをしてしまった。ベッドの下へ身体を突っ込み、なんとかアクリルケースを引っ張り出す。
「よいしょっと」
黒の紋付袴の汚れは目立たないが、襦袢の襟は煤けたように変色し、そして何よりも──コロン。
それは、熟れた果実が地面に落ちるかのごとき自然さだった。
「あっ……」
どちらともなく呟き、そして……沈黙。
テーブルへ置いたら、衝撃が加わってしまった。限界を迎えていた日本人形にトドメを刺してしまったのだ。
「これ、黒黴かな? 夏場だし、ベッドの下なんて湿っていそうだよな」
黒黴……白石がそう言及しなければ、黙殺してしまうつもりだった。
日本人形に部屋の光を浴びせて気がついた。その異常としか思えない見た目に。
その顔が不自然に真っ黒で、まるで墨を塗りたくったかのようだった。それも、転がり落ちた顔の部分だけ。袖から見える指先の塗装は汚れていない。
「まぁ、ずっと放置していたわけだし」
入居当時は、ベージュ色の肌をしていたはず……そうだ、やはり可愛らしい印象だった。
しかし、この見た目では赤い唇だけが浮いているみたいだ。
これは、本当に黒黴なのだろうか。黴の知識なんてないが、いかに黒という名が付くといえど……これほどまでに黒々とした変色をするわけではないんじゃないか。
ありがとう
「おい、お前……」
「ん?」
白石は平然としている。
「……いや、やっぱり何でもない」
「ていうか、何でベッドの下にあるんだよ……おい、聞いてるか?」
「……ああ」
「お前さっきまで人形に対して真摯に向き合っている、とか何とか宣ったじゃねぇか」
白石が眉を顰める。
指摘はもっともだ。ただ、名古屋と鳥敷はあまりに違った。
「人間は変わるんだよ。凝り固まった田舎思考から脱却しなきゃ、輝かしい都会人になれないだろ。どうして田舎の文化に縛られなきゃならないんだ」
「どうせ、遊びで連れ込んだ女に見られたくなかったんだろ」
「大正解」
「本当にゴミだな」
バッサリと切り伏せられた。およそ友に向ける言葉ではないが。
「どうにも……不吉だな」
「…………」
首の断面にはじゅくじゅくとした黒い線が……おや、なぜか内側から外側に根を伸ばしている。
いったいどうして──?
「なぁ、どうする?」
「あ?」
「だから、コレだよ」
「どうするも……」
「捨てるしかないだろ」という言葉は続けられなかった。人形の目の前でそう口にするのは憚られた。物を擬人化して捉えてしまう日本的精神が、喉まで出かかった言葉を押し戻したらしい。
人形の目は光を失い、首のない胴体が直立したまま。アクリルケースから出す気にはならなかった。
この人形はもう死んでいる。
それを口にはしなかった。しかし、互いに酒を呑んで夜を明かす気分にはなれず、どちらともなく解散した。
一人になり、ファッション誌を読んでいたのだが……こうも気になるか。
一人暮らしの部屋におよそ馴染まない日本人形。首が落ちているのだからなおのことそうだ。
「いやぁ、いくらなんでも……」
台所の戸棚から燃えるゴミ用の袋を取り出し、死んだ人形に向き合ったものの忌避感があった。ゴミ袋をしまい直す──とドスドスと音が鳴った。
ビクッと身体が反応してしまう。
二階の住人だ。煙草臭い金髪の夫婦だろう。注意してやりたいが、関わりたくもなかった。
なんだか普段は気にも留めないミシリという家鳴りが耳に障る。
締め切っていないカーテンの隙間から街灯が見えた。周囲を明るく照らすそれは、同時に闇を強調していた。
胸騒ぎというほどでもない。ただ、居ても立ってもいられなくなって外へ飛び出した。
姿勢を低くしつつ、目の前の道路まで駆け抜けると、湿気を含んだぬるい風が吹きつけた。
玄関口付近、頭上の電灯の近くには、当然のごとく蜘蛛の巣が張っている。ある種の誘蛾灯となっているそれを、俺は不快に思いながら放置していた。
さっと周囲を見渡してみれば、ずっと向こうまで伸びている道路の途中に……あれは──何だろうか。
黒い人影と思しきものが見える。一瞬だけ白石かと思ったが、数十分間は経っているのだから、まず間違いなく違う。
立ち尽くしているのかと思うやいなや、スウッと倒れ込むように地面に消えていった。再び黒い影が立ち上がり、やはり地面に消えていく。
目を凝らしても、そうにしか見えなかった。のっぺりとした平面が空間に貼り付けられたみたいで前後すらよく分からない。
車のヘッドライトに照らされて伸びた影が動いたのだ。そう思ってみよう。見えない位置で誰かが通話をしているのかもしれないし、メールを打っているのかもしれないから。
ほんの少しだけ不思議な現象。往々にしてあることなのだ。だから、目にするすべてが、やがて自分を超常的かつ理不尽な怪死事件へと追いやる遠因になり得る……などというのは神経過敏な妄想なのだ。
しかし、一度始まってしまうと止められない。気にしないと考えているうちは、気にしてしまっている。
暗い道を避けて地下鉄の方面へと向かった。
影に背中を向けたことで、全身の神経が張り詰めていく。背後からじんわりとした視線を向けられているようなのだ。そう思えてしょうがないのだ。
この嫌な感じとしか言い表せない曖昧な感情をとにかく落ち着かせたかった。
結局、ネットカフェで夜を明かすことにした。
「おっ」
あの人形をどう処分したものかとインターネットで検索をしていると、ピンポイントに情報がヒットした。
「人形供養」というものだった。今まで粗末に扱っていたわけで、最後だけ供養してやろうなんてなんとも都合の良い考えだと分かってはいる。
とはいえ、いつまでも気味悪い人形を部屋に置いておきたくないのだ。お金はそれなりにかかるが電話をしてみよう。
その後も眠ることはできず、オンラインゲームをしたり漫画を読んだりして時間を潰し続けるのだった。
「どういったお品物でしょうか」
「人形です。日本人形に分類されると思います」
「分かりました。カバーケース等の処分は御遠慮いただいておりますがよろしいですか?」
「はい、大丈夫です」
「実際にお越しになりますか?」
「ええと、それはどういう?」
「お忙しい方や遠方の方であれば、郵送という方法もございまして。供養が終わりましたら、郵便はがきで通知いたします」
愛着があるはずなのに、ドライなものだ。とはいえ、燃えるゴミに出そうとした己の言えた義理ではないか。
「伺います」
「個別供養と合同供養、どちらになさいますか?」
「どちらでも構いません。早ければ早いほど。最短だといつですか?」
「少々お待ちください」
保留音が流れる。その間に振り返って背後を確認した。
「お待たせいたしました。合同供養であれば本日、個別供養であれば三日後が最短です。いかがなさいますか?」
「え、今日ですか? 飛び入りでも大丈夫なんですか?」
「はい。本日は人形供養を執り行う予定ですので」
「分かりました。今日でお願いします」
「人形供養は十七時開始ですが、御準備を含めて十六時ごろにお越しいただきたいのですが、よろしいでしょうか」
「はい」
「では、お名前と連絡先をお願いいたします」
「人見陽太です。電話番号は──」
まさに僥倖としか言いようがない。「生まれたときから友達だったぬいぐるみを供養しました(泣)」というブログ記事に書かれていた神社が、たまたま県内にあったのだ。
昨日の夜は、財布と携帯電話だけを手に飛び出してしまった。特に他の予定もないので、そのままスーパー銭湯に行って一夜ぶりに風呂に浸かった。曇りガラスの向こうに人影がある。
少し出歩いただけで汗が噴き出してきた。夏場のムシムシとした暑さで、シャツが肌に張り付き気持ち悪い。昨日の服のままでは不潔だ。大規模小売店内のテナントで適当な白いシャツを購入し、トイレで着替えた。ドアの向こうに誰かがいる。
そのまま昼食をレストランで済ませ、ブラブラと歩いた。何を見るでもなく夏休みの家族連れに紛れた。人混みの奥から見られている。
こうして色々と時間を潰したのも、本当に家に帰りたくなかったからなのだが、人形を神社まで持ち運ばなければどうしようもない。
ガチャリとドアを開けて入ると、それが奥のテーブルに置きっぱなしになっていた。
アクリルケースから取り出し、白いシャツを購入したときの紙袋に荒々しく胴を突っ込んで、頭も放り入れる。
そのまま足早に家を出た。一秒たりとも家の中にはいられなかった。
だって、部屋の中からも──。
昨晩からだった。人形が壊れてからだった。誰かに見られている感覚。何かが近くにいる感覚。
しかし、何もない。気配を感じる方向には、何もいない。ならば、きっと気のせいなのだ。発売されたゲームに熱中したり、居酒屋で誰かと呑んだりすれば、こんな不安はすぐに忘れてしまうはずだ。
白石なら「人間は三つの点を顔と認識してしまうほどに、欠陥だらけだ。だから、自分の感覚なんて信じるなよ」とかなんとか言って笑い飛ばすのだろう。
しかし、どうにも……ちくしょう、俺はそんなに強くない。家すらも、最も安心できるはずの場所すらも、異様な気配に侵されてしまっては──。
高まる孤独感を振り払うように大通り沿いを行く。なんでもいいから一人でいたくない。
大通りから駅へ、そして早く神社へ。
なるべく袋の中の人形は見ないようにしていた。見ないようにしなければと思うが、そういうときほど見てしまうのだ。そして、どうしようもなく後悔する。
あり得ない……あり得ないのだから、気のせいだ。たった一晩目を離しただけで、黒いシミが首元を越えて指先までズルズルと広がっているなんていうことも──すべて思い違いなんだ。だって、それが事実なら説明がつかない。
ギリリと歯軋りをしていた。いまさら臍を噛んでも仕方がないと分かっているものの、どうしても胸中は穏やかでいられない。
俺が気づいていないだけで、生死を分かつ瀬戸際なのではないか。今、この瞬間に、姿形のない何者かに呪い殺されても不思議ではないのではないか。
行方不明、蒸発、神隠し。ニュースにすらならない。警察も捜索しない。誰の目にも留まらず、ただ世界から俺という存在だけが忽然と──莫迦か、余計なことを考えるなよ。
早くしなければ。安心のために、供養を終わらせなければ──。
お読みいただきありがとうございます。
ぜひ作品の評価をお願いします!




