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鳥敷隧道  作者: 青橋憧憬
第一章 人見 陽太

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3/15

一

「ああもう、勘弁してくれよ。どうして期末レポートは一斉に出されるんだ」

 俺はボールペンをローテーブルに放り捨てた。

「期末だからだろ」

 対面に座る白石は、顔すら向けずにそう答えた。彼は分厚い専門書とノートを見比べるのに忙しいらしい。

「……お前さぁ、真っ当なことを言うなよ」

「まだ時間はあるし、気楽にやろうぜ。先に終わらせちゃえば、あとは夏を楽しむだけなんだから」

 ああ、そうだった。白石は基本的に教科書どおりの性格だった。

 夏らしい青色のワイシャツを着ているし、髪色もいたって真面目な黒色のまま。一方で、小さな銀のピアスを身に付け、「遊び心」をチラつかせているのだから腹立たしい。

「はぁ……気楽ねぇ」

 そこで会話は途切れてしまう。白石とのコミュニケーションを楽しみたい気持ちは全くないが、それよりも課題と向き合いたくないのだ。

「……お前がかわいい女の子だったらなぁ」

「きっしょ、何言ってんのお前」

 手持ち無沙汰な時間を過ごしていると、ピロリロと白石の携帯電話から陽気な着信音が鳴り始めた。

「げっ、母さんだ」

 白石は相手を確認し、携帯電話を再びテーブルに置いた。

「いやいや、出ろよ」

 鳴り続ける着信音が鬱陶しい。

 彼は口をへの字に曲げ、仕方ないという態度を隠すことなく応答した。

「はい」

「ちょっと、いつ帰ってくるの?」

「いつ……ってお盆に帰るって前に言ったよね?」

「それじゃ遅いわよ。もう夏休みなんでしょ。さっさと戻ってきてちょうだい」

 スピーカーから声が漏れている。

 例の母親だ。会ったことはないが、何となく知っている。話を電話で遮られるのも、もう慣れたものだった。

 白石は片手でハンドサインをした。

 陽太、すまん。いつもより長くなりそうだ、とその目で訴えてから、廊下へ移動していった。

 彼を見送って一人になった俺は、モヤモヤとした倦怠感と共に身体を投げ出した。

「だりいなぁ」

 俺たちはもう大学の三年生。そろそろ就職先について考えなければならない時期であった。


 子供の頃、電子キーボードを弾いていた。それは母が気まぐれに買ったものだった。

 G4にあたる鍵盤に欠陥があったことをよく覚えている。電子制御の問題なのか、厚い布を挟んでいるみたいにくぐもった音が鳴るのだ。いわゆる初期不良品なのだが、捨てるわけでも修理をするわけでもなく、年月だけが経過していた。

 俺はそれを引っ張り出し、母に見せつけるように練習していた。抑揚はめちゃくちゃで感情表現などもってのほか。基本を学んでいないのだから至極当然だ。

 それでも母や祖母は褒めてくれたのだ。それが嬉しかった。言うまでもなく井の中の蛙である。

 随分と夢中になっていた。しかし、たった一度「男のくせにピアノを弾いている」なんて同級生にからかわれ、次第に弾かなくなった。

 くだらないと今でこそ思うが、思春期の小学生なんて狭い世界で生きているのだ。

 そのうち、同級生の女の子が音楽発表会の伴奏を務めた。俺の児戯と比較するのも烏滸がましいほどの腕前であった。

 以降、一度も触れていない。

 俺は北桶市の北塚小学校に通っていた。人数が少なく、全学年を合わせても二クラスだけという田舎だった。そんな北桶市の中でも、とりわけ僻地に位置する集落が「鳥敷」だ。通学には山を越える必要があるため、地域バスの利用を余儀なくされていた。

 当時、俺は人気者だった。運動はそれなりにこなせたし、勉強ならば最も優れていたのだ。

 名古屋の大学を出ていた母のおかげだろう。教育が巧みだった。彼女は俺を叱るときでさえ、声を荒らげることなく冷静に言い聞かせた。淑やかで尊敬できる存在だった。

 「子供が興味を持ったことを自由にさせてやる。それが子供の成長には一番」なんだってさ──。

 母はそう微笑んだ。

 有名人の言葉の引用だろうか。主体性を重んじる教育方針なのだろう。

 とはいえ、本当にやりたいことなどなかった。

 母と一緒に座卓を囲むと、俺は勉強し、彼女はナンバープレースを解いていた。

 母の隣が好きだった。だから自然と勉強が日課になっていた。

 そう、初めの一歩を踏み出すだけなのだ。行動を「習慣」にしてしまえば、傍から見ていかに辛く、苦しいことであってもやり遂げられる。偏差値の高い大学に入学できたという成功体験から、それはすべての物事に活かせる真理なのだと悟った。

 しかし──逆もまた然り。

 名古屋で一人暮らしを始め、いつしか努力ができなくなっていた。田舎と都会は異なっていた。湧き起こる欲望に負け、取るに足らない娯楽に溺れ、毎日を無為に過ごしている。

 友の入籍報告を迷惑メールと同じ指捌きで処理してしまったときには、我ながら落ちぶれたものだと笑ってしまった。

 巡る季節に急かされて、もう大人の仲間入り。

 ここ最近は白石にも会いたくなかった。

 彼は専攻している歴史教育学をより深く学ぶため、大学院へ進学すると語っていた。だというのに、インターンに応募し、就職の可能性をも視野に入れている。

 本当にやりたいことって一体なんだろう?

 小学校の教材じみたテーマだが、いつまで経っても答えが見つからない。

 何に興味があるのだろうと自問を繰り返し、そのうち「人間の生きる意味」なんて実存主義めいた思想に行き着くと、それを突き詰めることなく放り捨て、眠りに落ちる。

 詰まるところ、何にも興味なんてなかったのだ。

 この世で最も不幸であると、いや、そこまで直接的でもないが……かつて俺がそんな風に漏らしたとき、ポロッと白石も吐き出した。

「いいじゃん、俺なんて父親に殺されそうになってさ、転校して母方の実家で育ったんだぜ。いわゆるDV関係の支援措置対象者ってやつ」

 彼は何でもない風に言った。世間話の延長だった。

 しかし、ああ……なんという赤恥か──。

 ドサドサと積み上げた言い訳の掩体諸共、爆撃で吹き飛ばされたような衝撃だった。不幸の尺度を相対化された挙句、言外に甘えるなと窘められたのだ。師でも親でもなく、ただの友人に。

 怠惰な心を見透かされ、丸裸にされる醜態……そう、今でも醜態だと思っているほどに、俺のプライドは一丁前で、そのときも白石に否定してほしかったんだ。

 そんなことはない、陽太はやればできる──と。

 白石は幼少期の荒波を乗り越え、並々ならぬ努力の末、俺と同じ環境にいるのだろう。そのときのことを思い出すたびに、己の幼稚さをどうにかしたくて悶えるのだった。

 そして今、俺は夏休みを浪費している。課題は八月中に印刷をして提出しなければならない。夏休みといえども、のんびりしてはいられないのだ。

 それはよく分かっている。だが、この期に及んで落伍者の自覚が足を引っ張っている。堕落を自省することが「習慣」になってしまっては──はあ、何もかも億劫だ。

お読みいただきありがとうございます。

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